尚都の異変

 この南海の王国の歴史はそう古いものではない。遡ってせいぜいが十数代の王帝を数える程度で、王帝がその御居所いましどころとして王都みやこを定めてからは両手に満たない。

 王都の北を大河が緩やかにだが滔々と流れ、下流でいくつかの支流に分かれる。この国の交通運行の基幹を成していると言えた。

 だが内陸まで大船ふねで入り込める大河の存在は攻防において優れているはずもない。そこでこの大河の河岸、そして河口を王帝の直轄地・御県みあがたであると定められ、王の臣下、兵卒らが防衛の任につくこととなった。

 伊都いとももともとは、この大河の支流の一つが河口に入り江を深く形作った場所にできた、小さな湊のむらに過ぎなかった。

 この入り江の湊、伊都の守護防衛に任じられていたのが尚氏である。

 そのおやしょう梨鳴りめいはこの伊都の地相の良さに気付いた。

 伊都は三方を山並と渓谷に囲まれ、東に河川の成した州が深く大きな入り江の際奥に扇状に広がっている。

 その南は断崖が大きく海に張り出し岬を成した。

 梨鳴は麾下の兵卒、臣下、伴人、族人うからひとら大勢で伊都に入り、以来尚氏はこの地を本拠よりどころとしている。

 数代かけて湿地を拓き、また入り江に作事を続けて大船ふねの停まる大港を造成した。

 いつしか大海うみを渡り行商あきなりたからを成し、その御調みつぎの多さと南海の島々、異国とつくにとの交易あきなりの価値を見いだした王帝が尚氏にこの地を下賜した。

 それが四代前のことであるという。

 把栩の父、托陽は交易路みちをさらに広げ、行商人あきなりひとが集まるように市での税収を抑えた。伊都の街は大きく膨れ、「尚都しょうと」と呼ばれるようになり、活気に満ち溢れている。

 尚氏大僕の若君きみが目にその伊都の街並を映したのはひるの頃である。海船ふねから起こった大きな歓声でそれを知り、慣れぬ大袖のきぬをたくしあげ引きずって船室なかを出た。

 美しいいらかが陽射しを受けて照り返し碧玉みどりの光を輝かせる。この大海うみにも負けぬその輝きが白い土壁をいっそう際立たせていた。帰還かえりの晴れがましさをいよいよ感じさせる輝きを皆が見つめた。感極まって泣く者もある。

 愛しい者たちの待つ、誇らしき己の生国、その随一の大都みやこ。比類無き主人あるじの治める尚都しょうとへと彼等は帰還したのである。

 把栩も皆の感情きもちの昂ぶりはよく分かる。できるなら、両手を突き上げて快哉を叫びたい。だが、この大袖の衣の動きづらさと、長く引きずらねばならぬ裾。何よりもそれは浩阮にきつく言い渡されたためにそれができない。おかからこの海船の大幟旗はたが見えたなら、港には大勢の者たちが駆け寄ってくる。出迎えの者、荷捌きの者、その者たちを相手に小遣いを稼ぐ売り子、そして女たちは台盤所に駆け込んで宴の仕度を始めるのだ。

 彼等のために、揮尚の若君きみは威儀のあるたたずまいとやらを見せつけねばならぬのだという。

 そうは言っても、尚都の者たちは皆、把栩の幼い頃を知る者ばかり、今更という気がしないでもないが、それで浩阮の気が済むのならば王都からの市舶司やくにんくらいには「それらしく」見せてやってもいい。

 だが、喜びを胸の内に秘めて耐えようとしても緩む頬ばかりはどうしようもない。こればかりは浩阮に文句など言わせない。

 だから把栩は浩阮の顔をちらりとでも見やったりはしなかった。どうせ、己の伴人の顔も緩みきっているに違いないのだ。

 だから、その異変に気付いたのは浩阮だった。

 彼もこの尚都への帰還を言い表すことのできない喜色の中へとその身を投じるつもりでいたのだ。そのために、耳を凝らして、歓声の中に「音」を探した。

 彼の喜びは港と尚都の街並みを眺め渡すだけでは湧き上がってこない。幼い頃から言われ続けて、この頃やっとその本当の意味を理解し始めた父の教えのために。

 浩阮は甲板にあるはずの父の姿を振り返った。慣れぬ衣に着られて緩みきった頬をしている、己の主人あるじ船長おさではなく。

 見つけた父親の表情かおかいつものように静かで、穏やかだった。だが、目が合うと僅かに一つ、ゆっくりと頷いた。……浩阮は意思の疎通を確認した。

 見るものがあればその意味の多さに迷うことだろう。異変に気付いていることを知らせたものか、喜びの中にいる主人に伝えるべきかの判断か、それともその異変についての対処を任せたものか、他の意味があるのか。

 だが彼等親子にはその多くの意味のいづれかを確認する必要などなかった。それはこれまでも同じ、この先何が起ころうとも、彼等の願いは一つだけだ。

 もう一度浩阮は祈るような気持ちで耳を澄まし凝らした。だが、あるはずの「音」が、ない。

 銅鑼の音である。

 おかではいつ戻るかも知れぬ海船ふねを待つ見張り役が海を眺めている。街中にその帰還かえりを知らせるために銅鑼を鳴らすのだ。その音を聞いた者が街のあちこちでまた銅鑼を鳴らす。それを合図に街が一斉に動き出すのだ。銅鑼の華やかな高鳴りは遠く海上、海船にまで届く。その音を聞いて初めて、爺も浩阮も帰還の実感を得て喜びと安堵を得るのだった。

 銅鑼さえ応えてくれていれば、この港に入るまでの僅かの間に何かが起ころうとも街の者の手を借りることができるのだ。若君きみを陸に届けることが。

 見上げれば晴天、風も悪くない。二人の危惧は空模様ではない。

 おかで……何かが起こったのか。

 このまま入り江に大船ふねを進めてよいものか。

 銅鑼の音の無いことで危惧を抱くことができても、その起こった事態ことまでを判断するべき材料が無い。

 だが二人の親子は僅かなやり取りで、成すべきことだけは決断したのだ。

 爺が楫子頭かしらを叩いた。一つ二つ。三つ四つ。

 その音に合わせて、快哉に酔っていた皆がばらばらと動き始めた。櫓台ろだいに戻る者、帆縄なわをまとめる者、船室なかを片付ける者。その間を縫って浩阮は帆柱はしら縄梯子はしごを登った。入り江や港、街を見渡すために。海にある者として浩阮は遠目が利く。

 だがそれは遠目が利かずとも分かる異変だった。条風きせつふうおかに向かって吹くこの時期に、あるはずの大船ふねが全く見当たらないのだ。それどころか、すなどりの小舟一つない。午時ひるどきだというのに、炊屋かしきやや台盤所から昇っているはずの竃の煙り、火気ほけがない。

 浩阮は足元を見た。甲板は静まり返って、鼓の音だけがある。いつの間にかその叩き手は楫子頭かしらに変わっていた。父親は若君きみの傍らに寄り添っている。

 把栩は暗愚な船長おさではなかった。おそらく、異変にもすぐに気付いた。……だが船長の緊張はすぐに皆へと伝わってしまうものなのだ。そういった腹芸のできる若君でない。

 帆柱はしら縄梯子はしごに取り付いたままの浩阮を見上げ、把栩は船室なかへと入る。降りた浩阮は父親に向きあった。

船足あしを」

 爺は首を振る。すでにこの大船ふねは港から見える。足を遅めたところで不審に思われるだけだろう。何があるか分からないのだ。

「……若に、そう言われてな」

 爺はこの上なく渋い表情かおをしていた。確かにそれは正論ではあるが、策を練る間がない。浩阮は勢いつけて船室の戸をくぐった。

 彼の主人あるじは椅子に深く背もたれていた。それで浩阮は無理にでも主人が落ち着こうと試みていることに気付いた。……ならばなぜ船足を緩めない。

「街に戦火いくさびの跡は?」

「否」

王師おうしの軍卒は?」

「否」

尚家しょうけの……揮尚きしょう大幟旗はたは?」

「……否」

「民、か……」

 これには浩阮は答えなかった。それは答を求めているようでなく、ただのつぶやきのように感じられたために。

 街に戦火の跡もなく、王師もない。ならば他国との戦でもなく政争が起きたわけでもないだろう。だのに、揮尚きしょう大幟旗はたが降ろされている。

 街を見下ろすような少し小高くなった丘に尚家しょうけ邸宅やしきがある。そこに一際高く掲げられているはずの大幟旗はた

 この南海の王国から大海へと駆ける海船の上で風を受けてはためき、尚都しょうとの丘に敬愛こめて朝な夕な見つめられる。黒地に許された貴色いろは四色、賜った獣の図案は華美にして壮麗、麾下きかの者はその図案の一部を己の幟旗はたに取り入れることを許されるを至上の喜びとするのだった。

 民の尊崇と信頼、思慕、そのあかししるし。それが揮尚きしょう大幟旗はたである。

 そして大幟旗はたがなくば、今、尚都ここ揮尚きしょう托陽たくようはない。

 大幟旗はた戦軍旗いくさばただ。その元に兵卒、麾下の者たちが集う。事態ことを招いたのが他国との戦にしろ王師にしろ海寇ぞくにしろ、主人あるじたる揮尚きしょう大幟旗はたを押し立てて布陣するはずだ。

 街に戦火の跡もなく王師もなく大幟旗もない。

 ……民の蜂起。

 だから托陽は街を戦場にすることを避け、明け渡したのだろうか。

 把栩には、己の発した言葉の意味がうまく飲み込めなかった。……わけがわからない、とはこのことだ。あれほど慕われた托陽ちちが、何故、民に蜂起される。

海船ふね停泊とめてください」

 浩阮は絞り出すように言った。ここはすでに入り江の内である。このまま港に向かい大船ふねを入れることはあまりにも危険だ。何が起こるかわからない。せめて

斥候うかみを立てるべきである。

 爺と違い、浩阮はまだ若い。確めずにはいられないのだ。……この現実うつつにある異変を未だ信じたくない。

 把栩も同じ想いである。だが彼は首を振った。

文書ふみを整えよ。市舶司しはくしに帰還を報告する」

「何を……!」

文書ふみは体裁が整っていれば本物でなくていい。港に揚がる口実となればよいのだ」

「若、それは……」

 民が蜂起し、だが王師がないならば、まだこの事態ことを国は察知していない。だが海船ふねが港に一艘としてないなら、周辺まわりの海では承知のこと。

 市舶司はこの港での交易あきなりを管理するとともに、街の監視も兼ねる。蜂起となれば真っ先に王都に報せ、王師が動く。例え托陽が麾下私軍を動員する意思がなくとも、国が動かぬ道理がない。

 すると、市舶司は捕らえられたか。どちらにしろ、蜂起した民は王師軍卒との一戦を構える心積もりはないと見ていい。どれほどの勢力があるにしても、国を相手に事態ことを起こすには、この尚都しょうとは物足りぬのだ。

 三方を切り立った山並みと渓谷に囲まれ、広い河川、断崖を擁し海岸に開ける。

 ……天然の要塞なすこの街で戦を起こすなら、敵方を呼び寄せるしかないのだ。大軍を擁する王師はこの地に布陣すらままならぬ。攻めるに堅く、守りやすいこの地は背後に海岸、逃げやすく、それだけに再起もしやすい。

 だが勅命により軍船いくさふねが出され、海が押さえられてしまうと脆い。あとは大軍に任せて街を海から囲めばよいのだ。補給の得られなくなった街は必ず敗北する。

 それを防ぐには、蜂起の際、何より先に市舶司を捕らえて短期間で事態ことを収めるよりない。

 ところが市舶司を捕らえてしまうと、当然のことながらその業務に差し支える。……この条風かぜ季節ころに、大船うみふね停泊記録とまりのきろくとその報告文書しらせのふみが滞れば、王都も不審を抱くに違いない。

 そこに形式かたちだけとはいえ、文書ふみが整えば。……王都の介入を遅らせることができる、そう考えはしまいか。

「民と、取引をすると……」

「戦を避け得るなら、それでいい」

 托陽が民との衝突を避けたならば、己もまた、それを避けねばならない。さらに超えようとするならば、事態ことを収めねばならない。

副舟そわつふねを用意しろ。……海船ふねは、征箭そやの届かぬ位置につけろ」

 大船は普通、小型の副船をいくつも搭載のせている。だが間の悪いことに揮尚の若君きみの大船は、今動かせる副船が一隻しかなかった。この航海たびで傷め、調達できなかったのだ。

 そして市舶司に文書ふみを提出するなら、それは公式おおやけの儀礼であるから、船長おさでなくては務まらない。随身つきひとも限られる。

 浩阮は言葉を飲み込んだ。……主人に己の肩衣かたぎぬと、その大袖の衣を取換えるよう進言する言葉を。だがそれは無意味だ。この街で、揮尚の若君を見知らぬ者はない。

 このまま、行かせては。だが、己には他の策はない。たとえ思考するだけの時間ときがあったとしても、とりあえず確認したい、それ以上、他の策など練ることはできないだろう。浩阮は色を失った唇を噛んだ。

「副船は、いつでもおろせますぞ」

 船室なかを窺っていた爺が、穏やかに言った。

「この爺めが、随身おとも仕る」

「……爺は、この大船ふねを預かれ。すぐに動かせるように」

 爺は進み出て強く重ねて言った。御供致します、お許し下さらねば副船は出しませぬと。浩阮は爺の意図を知っている。だから、彼も随行する心積もりだ。

「街の者には、この大船ふねの皆にとっての家人かじんも多い。そういった者を港に揚げるわけにはいきませぬ」

 爺も浩阮も、この大船ふねを降りれば身寄りがない。他の伴人ともびと水夫かこたちのように、己の家人に気を取られることはない、そうもっともらしく言い募った。

 そんな親子の意図に気付くほど、今の把栩は余裕なく張り詰めていた。

 色々な何かが一つずつ少しずつ綻びて崩れ初めているのは確かで、それはひしひしと感じるのだが、ではそれは何かと問われたならば、その一つ一つをはっきりと言い当てることができない。

 掴んだはずの砂が、掌の内から零れて知らぬ間に消え失せているように、すべてを失ってからでなくては何も気付くことができないのではないかという怖さが、彼を焦らせていた。

 それが分かっているから、わざと椅子に深く腰掛けているのだが、さほど効果はなかった。

 その焦燥が伝わり、船上は緊迫していた。だから皆は己の領分をいつものようにこなす。それ以上のことは、今はできない。

 それで浩阮はその男をすぐに甲板に見つけることができたのである。

 髪を無造作に結った体躯のよい男は、帆柱はしらの傍らで帆縄なわの始末をしていた。すぐに帆の向きを変えられるように絡まず掴みやすくしておくのが常のこと。男を啓泰けいたいという。

 啓泰は浩阮を軽く見やったが、また元の作業に戻る。浩阮は近づいてから小声で話し掛けた。

弩弓ゆみの届かぬ位置に大船ふねを留める。長弓ながゆみは……使え

るな?」

 同輩の言葉に啓泰は少し眉をひそめた。

「使えるが、があまりない。……街に、射るのか?」

 弩弓は長弓よりも距離へだたりを飛ばない。射掛け合うなら長弓が有利だ。

「念のためだ。俺は若に随行ともする。副船が港に向かう間、弓引いておけ」

「……浩阮。大事ことの起きたときは、南に切り上がる。楫子頭かしらに、船首くびを回すように伝えてくれ」

 浩阮は頷いた。

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