尚都の異変
この南海の王国の歴史はそう古いものではない。遡ってせいぜいが十数代の王帝を数える程度で、王帝がその
王都の北を大河が緩やかにだが滔々と流れ、下流でいくつかの支流に分かれる。この国の交通運行の基幹を成していると言えた。
だが内陸まで
この入り江の湊、伊都の守護防衛に任じられていたのが尚氏である。
その
伊都は三方を山並と渓谷に囲まれ、東に河川の成した州が深く大きな入り江の際奥に扇状に広がっている。
その南は断崖が大きく海に張り出し岬を成した。
梨鳴は麾下の兵卒、臣下、伴人、
数代かけて湿地を拓き、また入り江に作事を続けて
いつしか
それが四代前のことであるという。
把栩の父、托陽は
尚氏大僕の
美しい
愛しい者たちの待つ、誇らしき己の生国、その随一の
把栩も皆の
彼等のために、揮尚の
そうは言っても、尚都の者たちは皆、把栩の幼い頃を知る者ばかり、今更という気がしないでもないが、それで浩阮の気が済むのならば王都からの
だが、喜びを胸の内に秘めて耐えようとしても緩む頬ばかりはどうしようもない。こればかりは浩阮に文句など言わせない。
だから把栩は浩阮の顔をちらりとでも見やったりはしなかった。どうせ、己の伴人の顔も緩みきっているに違いないのだ。
だから、その異変に気付いたのは浩阮だった。
彼もこの尚都への帰還を言い表すことのできない喜色の中へとその身を投じるつもりでいたのだ。そのために、耳を凝らして、歓声の中に「音」を探した。
彼の喜びは港と尚都の街並みを眺め渡すだけでは湧き上がってこない。幼い頃から言われ続けて、この頃やっとその本当の意味を理解し始めた父の教えのために。
浩阮は甲板にあるはずの父の姿を振り返った。慣れぬ衣に着られて緩みきった頬をしている、己の
見つけた父親の
見るものがあればその意味の多さに迷うことだろう。異変に気付いていることを知らせたものか、喜びの中にいる主人に伝えるべきかの判断か、それともその異変についての対処を任せたものか、他の意味があるのか。
だが彼等親子にはその多くの意味のいづれかを確認する必要などなかった。それはこれまでも同じ、この先何が起ころうとも、彼等の願いは一つだけだ。
もう一度浩阮は祈るような気持ちで耳を澄まし凝らした。だが、あるはずの「音」が、ない。
銅鑼の音である。
銅鑼さえ応えてくれていれば、この港に入るまでの僅かの間に何かが起ころうとも街の者の手を借りることができるのだ。
見上げれば晴天、風も悪くない。二人の危惧は空模様ではない。
このまま入り江に
銅鑼の音の無いことで危惧を抱くことができても、その起こった
だが二人の親子は僅かなやり取りで、成すべきことだけは決断したのだ。
爺が
その音に合わせて、快哉に酔っていた皆がばらばらと動き始めた。
だがそれは遠目が利かずとも分かる異変だった。
浩阮は足元を見た。甲板は静まり返って、鼓の音だけがある。いつの間にかその叩き手は
把栩は暗愚な
「
爺は首を振る。すでにこの
「……若に、そう言われてな」
爺はこの上なく渋い
彼の
「街に
「否」
「
「否」
「
「……否」
「民、か……」
これには浩阮は答えなかった。それは答を求めているようでなく、ただのつぶやきのように感じられたために。
街に戦火の跡もなく、王師もない。ならば他国との戦でもなく政争が起きたわけでもないだろう。だのに、
街を見下ろすような少し小高くなった丘に
この南海の王国から大海へと駆ける海船の上で風を受けてはためき、
民の尊崇と信頼、思慕、その
そして
街に戦火の跡もなく王師もなく大幟旗もない。
……民の蜂起。
だから托陽は街を戦場にすることを避け、明け渡したのだろうか。
把栩には、己の発した言葉の意味がうまく飲み込めなかった。……わけがわからない、とはこのことだ。あれほど慕われた
「
浩阮は絞り出すように言った。ここはすでに入り江の内である。このまま港に向かい
爺と違い、浩阮はまだ若い。確めずにはいられないのだ。……この
把栩も同じ想いである。だが彼は首を振った。
「
「何を……!」
「
「若、それは……」
民が蜂起し、だが王師がないならば、まだこの
市舶司はこの港での
すると、市舶司は捕らえられたか。どちらにしろ、蜂起した民は王師軍卒との一戦を構える心積もりはないと見ていい。どれほどの勢力があるにしても、国を相手に
三方を切り立った山並みと渓谷に囲まれ、広い河川、断崖を擁し海岸に開ける。
……天然の要塞なすこの街で戦を起こすなら、敵方を呼び寄せるしかないのだ。大軍を擁する王師はこの地に布陣すらままならぬ。攻めるに堅く、守りやすいこの地は背後に海岸、逃げやすく、それだけに再起もしやすい。
だが勅命により
それを防ぐには、蜂起の際、何より先に市舶司を捕らえて短期間で
ところが市舶司を捕らえてしまうと、当然のことながらその業務に差し支える。……この
そこに
「民と、取引をすると……」
「戦を避け得るなら、それでいい」
托陽が民との衝突を避けたならば、己もまた、それを避けねばならない。さらに超えようとするならば、
「
大船は普通、小型の副船をいくつも
そして市舶司に
浩阮は言葉を飲み込んだ。……主人に己の
このまま、行かせては。だが、己には他の策はない。たとえ思考するだけの
「副船は、いつでもおろせますぞ」
「この爺めが、
「……爺は、この
爺は進み出て強く重ねて言った。御供致します、お許し下さらねば副船は出しませぬと。浩阮は爺の意図を知っている。だから、彼も随行する心積もりだ。
「街の者には、この
爺も浩阮も、この
そんな親子の意図に気付くほど、今の把栩は余裕なく張り詰めていた。
色々な何かが一つずつ少しずつ綻びて崩れ初めているのは確かで、それはひしひしと感じるのだが、ではそれは何かと問われたならば、その一つ一つをはっきりと言い当てることができない。
掴んだはずの砂が、掌の内から零れて知らぬ間に消え失せているように、すべてを失ってからでなくては何も気付くことができないのではないかという怖さが、彼を焦らせていた。
それが分かっているから、わざと椅子に深く腰掛けているのだが、さほど効果はなかった。
その焦燥が伝わり、船上は緊迫していた。だから皆は己の領分をいつものようにこなす。それ以上のことは、今はできない。
それで浩阮はその男をすぐに甲板に見つけることができたのである。
髪を無造作に結った体躯のよい男は、
啓泰は浩阮を軽く見やったが、また元の作業に戻る。浩阮は近づいてから小声で話し掛けた。
「
るな?」
同輩の言葉に啓泰は少し眉をひそめた。
「使えるが、
弩弓は長弓よりも
「念のためだ。俺は若に
「……浩阮。
浩阮は頷いた。
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