姉君への思慕

 黒地に金と真緋あけの獣を図案した大旗はたを掲げた海船ふねおかの稜線を目にしたのは翌日の午前ひるまえのことである。

 恐れたような大風はなく、代わりに風向きには恵まれず、主帆おもほ副帆そえのほを調節してはみたものの、皆の目に広がったのは尚都よりもかなり南である。それをこの海に生きる者たちに教えるのは樟木くすの巨樹だった。

 正丁おとなが四、五人ほど両腕を広げて囲んでも手の届かぬほどの太さのあるこの樟木は浜からさほど離れぬ所に在り、周りには野原と低木が広がるばかりで他の大木がないため、海上からよく見える。

 水夫たちはに合わせ大船ふね船首くびを北に向ける。帆は横風を受けぬように大半がすでに畳まれていた。あとは陸に沿うように北上する潮流ながれをうまくつかめば、夕方には宴が待っている。

 把栩は船縁ふなべりから少しずつ左に見える方向むきを変えていく巨樹を見つめていた。

 あの樟木の程近くには華家かけの寮がある。そしてそこに住まう女性ひとを想う。己のこの布袋にある歩揺ほようのついた見事な細工の釵子かんざしを気に入ってくださるだろうか。

 彼女の美しく結い上げた艶やかな髪には大仰な装飾かざりはいらぬ。繊細で、それでも華美にならぬ、控えめな愛らしさ。そういったものこそがよく似合う。彼女を言い表すための言葉そのもの。そんな釵子を、把栩は初めて見つけたのだ。

 すぐには会えない。帰還かえりを祝う儀、宴、荷揚げを司る官吏に一覧の提出、そして一度、王都みやこへ赴いて帰還の報を奏上し、御調みつぎの献上をせねば海船ふねの荷が私財たからとして認められぬ。だがそれらに費やされる日々は彼女を想ううちにのように過ぎていくはずだ。これまでの船旅たびもそうだったのだから。

 大岩の岬に樟木が遮られて見えなくなってもまだ岩の向こうを透かし見ようとする主人あるじに、伴人ともびとが近づいてきた。

「若。気持ちは分かりますがね、おかが見えて皆士気があがってます。もっとそれらしくして偉ぶってみせてくださらないと。……言われてしまいますよ、『まぁ、若君きみはしばらく振りだというのにちっとも大人びてはくださらいのだわ』、……なんてね」

 女のしなを作り声を真似てみせた気心の知れた伴人に、船長おさは人目憚らず顔をしかめる。

浩阮こうげん。主人をからかうのは船室なかでだけにしろ。だいたい偉ぶるというのは、どのようにすればよいのだ」

「とりあえず腕組んで眉根を寄せてくれていればいいんです。いくら頭の中身が姉君様のことばかりでも、それならば見ても判りませんからね」

 浩阮は爺の嗣子むすこ、把栩の腹心と言ってもよい存在だが、少し主人あるじ心情きもちに立ち入りすぎるところがある。 

 彼にとっての姉君への思慕は、腹心の伴人にも掘り起こされたくない、不可侵の女仙を想うように高潔にして高尚なものへの憧憬にも似た想いだった。いついかなる時に御会いしようとも、時の流れもよわいとも無縁かのような永遠の少女を思わせる儚さ、清楚にして可憐、それでいて大人の思慮深さと芯の強さを合わせ持った美しさ。

 もしも、何もかもすべてを投げ出さねばならぬときがいつかきっと来るのだとしたら、それは姉君のためなのだろうと思う。彼女の黒目がちで濡れたような瞳が、把栩にそう思わせるのだ。

「……まぁた。鼻の下が伸びてますよ、若。この半月の間に御会いになれますでしょう。そろそろ船室なかでそれらしい格好になってきてください」

 浩阮のいうそれらしい格好というのは、苧麻からむし肩衣かたぎぬではなく「揮尚きしょう若君きみ」らしい絹の大袖をいくつも重ねて、港に船寄せてから船室からゆったりと現れろ、ということなのだろうと察しがついた。

 浩阮は主人たる若君が十五を超えて未だに官位を授からないのは、奔放で気さくに過ぎる人柄に起因しているのだと勝手に思いこんでいる。

 浩阮の亡き母方の祖父は高位を賜っていたが官職を与えられず、そのままあらぬ疑いを掛けられて失脚したのだという。それでも位階を剥奪されなかったため、嫡孫すえである浩阮は二十一を数える来年には位を賜ることになる。そうなれば主人あるじのはずの把栩よりも公式の身分の上では上位となってしまうのだ。

 もっとも位を得ても官職がなくては王宮に出仕しても意味はない。名ばかりのことになるのだから、今までと何も変わることもない、だから気にするな、と把栩は妙な慰めをした。浩阮からすれば気にしてくれなくては困るのである。

「浩阮、姉君のことも位のことも、もう少し的の得たところで気にせねばならぬだろうが」

 位を賜ればそれに応じたろくが与えられる。それは浩阮が陸の港で交易あきなりに携わりながら暮らすには充分な額といえた。この大船ふねを降りれば行く当てのない父親のために今から隠居先を作っておくこともできる。己の伴人に、そういった考えが浮かんでもおかしくないことを把栩は承知していた。だが爺も浩阮も彼の大船ふねになくてはならぬ存在なのだ。

 浩阮が主人と官位の板挟みに悩むとすれば、本来そういった観点からの悩みになるはずなとだと把栩は思うのだが、浩阮はそのあたりの感覚がずれていた。

「若は昔から大変物分かりのよろしゅうございます。臣下の苦言を広くお聞きくださいますところとか、ね」

 折りよく主帆柱はしらの梯子に物見に上がった水夫かこの一人が大声を上げた。

 尚都が見えた、と。

 そろそろ船長おさは船室で衣服を改めねばならぬようだ。

 懐かしき慕わしき生国ふるさと、尚家の治める大都みやこ、伊都。大船ふねは歓声を上げながら波を滑るように進んでいく。

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