若君の帰還

 銀色の輝きが舳先へさきにあたっては砕け、飛沫しぶきをあげてはさらに綺羅綺羅しく光を照り返して来る。

 足元を渡るように波が起こって海船ふね航跡うしろへと抜けていく。

 水夫かこたちは楫子頭かしらの叩くに合わせかいを漕ぎながら、いつしかいつものように櫓歌うたう。

 それを聞きながら、海原の輝きを飽かずに眺めていた。高いところで一つに結わえ、布被せて括り纏めたはずの髪のほつれを、潮風がそっと撫でてはなびかせていた。

 どこまでも広くはろばろしい海原が、夏の陽射しを船縁ふなべりにはじかせているようだ。

 その眩しさに目を細めながら、だがこの豊かな海原のすべてを慈しむようにいとおしむように柔らかな笑みを浮かべている。

 彼はこの大船ふねの皆の中では一番若いけれども、水夫かこたちの主であり船長おさなのだ。それで、この海路うみじ路読みちよみのため舳先に在った。

 今彼がもたれている船首ふなくび装飾かざりや掲げられた大幟旗はたは彼のための図案である。黒地に金と真緋あけ刺繍ぬいで浮かび上がらせた獣の紋章しるしは彼のかばねに賜ったもの、だが彼自身が許された貴色いろは二色のみだから、彼の父のもののようには華美なところはない。

 遠目の利く者、否、そうでなくとも、この紋章と大幟旗を目にした者は南海に揺るがぬ王国の大船であることを悟る。またさらに訳知りの者などは船長までも言い当てるだろう。

 尚氏大僕しょうしだいぼく若君きみ大船うみふねである、と。

 彼の身なりは若君などと呼ばれる貴人あてひとのものではなく苧麻からむし肩衣かたぎぬ姿、だが帯差した短刀の鞘や柄に施された装飾かざりはそれに相応しい見事なものだ。

 彼は碧玉あおるりよりも深く、真珠しらたまよりもきらめく海原を思えば、貴色の許しも短刀の飾りも褪せて取るに足らぬものであることを知っている。……そもそも海原がなくば、それを渡ってこのようなたからを手に入れることさえもできぬ。

 港に残る者たちを豊かにするのはこの海原と、大船だった。

 そのために海原を越えて行く先の湊では、どんな大船でも歓待された。荷揚げを生業なりわいとする男達、もてなしの娘達、飯炊きのばば、品の目利きをする土祖じじ、皆こぞって水夫かこたちを取り囲む。……どんな端下の者でも異国とつくに珍玉めづたまの一つや二つを懐に持ち帰るから、それが目当てなのだ。

 ましてこの大船の目指す港は皆の生国ふるさと、その帰還かえりを祝っての宴は嘗烝祭あきふゆのまつりよりも盛大で華やかなものとなるだろう。

 水夫たちの漕ぎにも力が入るというもの、この辺りまでくれば帰路もあとわずかなのだった。あと一両日のうちには半年余りも離れた郷里の山並みが見えてくる。……そして残してきた愛しい人たちに逢えるだろう。

 彼は腰に下げた布袋をそっと手で触れる。布越しにわかるその形を確めた。この帰路の海で、幾度も繰り返したように。

「……若」

 呼ばれて、慌ててその手を放した。声の主は分かっていた。それで、気を取り直して命じる。爺じい、と。

「帆を張れ。風が出てきた。直に強くなる。うまくいけば帰りも早くなるだろう」

 髪に白いものが混じり、白い髭を蓄えた爺は、その髭をわざとらしくしごきながら感心したようにうなずいた。

「いい読みです、若。……もう爺めは用済みですかな」

「爺はこの船を降りては暮らすあてがなかろうが」

 爺はこの大船で一番の古株ではあったが、老人というにはまだまだ早い。代々の臣下で、若君きみの父が生れる前から仕えてきた爺は、波音とその揺れを子守代わりに海で育った。この爺に彼は海を学んだのだ。

 潮も空も船も帆も、恐ろしさも美しさも、果てなく奥深い海を知ることは切りがない。その難しさこそが海の魅力なのだということを何よりも教えられたのだ。

 爺のその嗣子むすこもまたこの船上にあり、彼の伴人ともびととして仕えている。生涯の殆どをこの海で過ごした爺には、ほかに身寄りもあてもなかった。

「なに、尚家しょうけ若君きみ把栩はく様にお仕え申していたと言いますれば、いくらでも隠居先が作れましょう」

 爺は笑いながら水夫を動かし始めた。帆を張らせるのだ。

 把栩は改めて空を見上げた。野分のわきのような大風となる雲は今のところ見当たらない。風があれば帆を張り助けにもなるが、強すぎてはいけない。大風は波を荒れ狂わせ帆を柱ごと折ったり、船腹はらに受ければ転覆することもある。この季節は気を抜くことはできない。

 腰下げた袋の中身は、把栩にとって失えないものであったから、この数日風雨のないことを密かに喜んでいた。

 程よい雨ならば飲み水にもなるし風で船足が早くなる。それでも把栩は風雨のないことを望んだ。いつもよりも本当に風雨の少ない航海わたりとなったのはそのためかも知れず、風に頼れないとき、水夫は潮を探し自ら漕ぐよりない。

 帆が張られて風を受け、早くなった船足にわっと歓声があがった。

 目指すは尚家所領の県都みやこ伊都いと。国の交易あきなりの間口として随一の栄えをみせる大都、把栩の父、托陽たくようの統べる港町まちである。今頃は条風きせつふうを頼みにした、海原を渡る交易船あきなりのふねが集い、その船首くびを美しく競いあって並べているだろう。

 その光景けしきは把栩の矜持を支える誇りの源、そして彼を主人あるじと見定めた水夫たち、伴人ら随従の誇りそのものだった。

 抜けるように青空に白い海鳥とりが数羽群れているのを見た。おかから離れ過ぎないこの鳥たちが、長い船旅たびの終りと始まりを告げる。始まりの別離わかれと終りの労いを。始まりの切なさと歓喜、快哉、そして終りの安堵と誇らかさ。船乗りでなくば味わえぬその感情の機微を胸に去来させる白い海鳥を、だが彼は訳もなく愛しいと思った。

 ……決して船旅の供とならぬ海鳥を、愛しいと思った。

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