第11話

「や、やっぱむり!」


 仰向いた状態で体格のいい男に圧しかかられるというのは思うよりもこわいもので、狼狽して舌の根も乾かぬうちに音をあげるが、榊は「むりってなんだよ」と、あやすように笑うばかりで取り合ってはくれなかった。

 杳はともすると停止しそうになる思考を懸命に働かせ、どうにか行為を中断、あるいは先送りにできないかと、思い付いたことを口にした。


「あ、そ、そうだ」

「なに?」

「さっき、コンビニでなに買ったの?」


 心底どうでもいいことだったが、背に腹は変えられない。これを足がかりに、どうにか会話を発展させられないか期待したが、榊は杳の質問にきょとんとしたのち、楽しげに笑って、「明日の朝のお楽しみ」と答えをはぐらかした。今知りたいのだと食い下がろうとするが、


「待って、むり、むりだから!」

「今更遅いよ」

「やだって、あっ!」


 あれよあれよという間に服を取り払われ、腕や脇腹など、当たり障りのない場所を辿っていた手のひらが、合間に施された官能的なくちづけで兆し始めていたところに触れたのに、一気に危機感に似た焦燥が押し寄せてきて、ちょっとしたパニックに陥る。

 想いを寄せる相手に触れられたことで、はしたないくらいあからさまな反応をみせたことが恥ずかしくて、やめて、離して、と訴える。


「なんで? 気持ち悪い?」

「違う、けど、だめ」


 ばかみたいに昂って潤んだものをぬるぬると扱かれて、はじめて他人から与えられる快感に身悶え、今にも達してしまいそうになる。


「あっ! や、やだって、変になるから……っ」

「なってよ。もっといろんな顔、俺に見せて?」


 ねだったかと思うと、それまではゆるやかだったのだと思い知るほど手付きが大胆なものに変わり、あっという間にのぼりつめてしまった。

 そのように導いたのは眼前の男であるけれど、まるで粗相を働いてしまったかのような羞恥が解放された快感を上回り、杳はいたたまれなさのあまり気絶しそうになる。

 けれど、顔中に宥めるようなくちづけを落とす榊の熱は今もそのままで、勢いを失っておらず、引かれなかったとわかってふしぎな気持ちになった。


「杳くんの気持ちよさそうな顔見て暴発寸前になってる俺の方が、百倍変態的だと思わない?」


 自らを茶化すように榊は笑ったが、杳はきまじめな顔で首を横にふった。


「……ほっとした」

「うん?」

「同性だし、そういう、直截な反応見たら冷めるんじゃないかと思ってたから」


 あんな、ばかみたいな声を出したりして、気持ち悪いと思われたのではと不安だったが、榊の反応も、熱も、眼差しも、すべてがそんなことはないと杳の懸念を否定していた。


「冷めるどころか、燃え上がる一方だよ。杳くんこそ、俺がどんなにねちっこくても引かないでね」


 そのせりふに杳は少し笑ったが、こちらをリラックスさせる為の冗談でもなんでもなかったことは、ほどなく判明した。

 うしろを探られる異様な感覚に、何度もやめてくれと哀願したけれど、聞き入れては貰えず、それどころか必要なことだからと舌を這わされたときは、羞恥のあまりしんでしまいそうになった。

 すすり泣きながら洩らした制止のことばはことごとくいなされ、徐々に増やされる指に息も絶え絶えになり、漸く榊の熱が内側に潜り込んできたときには、身体も頭の中もぐずぐずにとろけたようになっていた。

 さいわい、つらいとか痛いということはなかった。けれど、圧迫感は指の比ではない。


「苦しい?」


 尋ねる男の、色めいて掠れた声にもぞくぞくと背中を震わせながら無言で否定する。全身どこも、ばかみたいに敏感になっていて、シーツにこすれただけでも官能を拾い上げそうになるくらいだった。


「榊さんは?」

「俺は苦しい。もう、早く動きたくて、杳くんのこと置いてけぼりにしてひとりで突っ走っちゃいそうなくらい」


 言って、ちらりといたずらっぽい笑みを覗かせるが、強ち冗談でもないだろうことは、身の内に彼の一部を迎え入れている杳にはなんとなくわかった。

 動いてもいい? と許しを請われ、返事の代わりに男の首に腕を回す。こちらの様子を窺うようだったのは最初の頃だけで、次第に動きは大胆なものへと変わり、いいように翻弄され、杳は甲高く裏返ったような声で意味をなさないことばを切れ切れに洩らすことしかできなかった。


「ひあっ、や、やだ、それだめ……っ」

「だめ? 浅いところされるの、気持ちよくない?」

「んっ、ばか! ばか、ああっ!」


 罵ったのかまずかったのか、ぐっ、と奥まで突き入れられて、背中が軽く浮く。


「奥の方がいい? どっちでも、すきな方選んでいいよ」


 そんなの答えられるわけがない、という意味を込めて首を横にふるが、ねちっこい、という自己申告に偽りはなく、動きを止め、選んでよ、とねだるように迫る。

 熱くて苦しくて堪らなかった。寸でのところで焦らされている、ぎりぎりまで高められて興奮しきったものを早く解放したくて手を伸ばすと、


「ひとりだけ先に気持ちよくなるつもり? ずるいよ」


 気付いた榊により阻まれ、指先を絡め合わせるようにしてシーツに縫い止められた。なにをするのだという不満を込めて見上げるが、彼は悪びれもせず笑って、


「杳くんがひとりでするところも見たいけど、それはまた今度ということで、どっちがいいか選んで」

「……へんたいっ」

「俺の方がきみより百倍変態だって言ったろ?」


 罵倒を心地よさそうに受け止めた榊に更に追い詰められ、杳はついに陥落し、羞恥心も理性も手放して、榊の問いに答えていた。


「……っ、どっちも、して」


 自分の方こそよほど変態ではないかと思ったが、リクエストに応じた男の様子は嬉々としていて、あきれても引いてもおらず、ほっとしながら杳は、与えられる快楽に身を委ねた。




 微かな物音がして目を開けると、部屋の中はうっすらと明るかった。数度瞬いて寝返りを打ったところで身体に違和感を覚え、どこかに行って、戻ってきたところらしい榊と目が合い、杳は一気に覚醒した。


「あ、ごめん、起こした?」


 昨夜のできごとすべてが脳内で怒涛のごとく再生され、顔に熱がのぼる。

 あられもない格好を取らされ、それ以上にあられもないことを、いくつも口走った。その内の半分くらいは榊に言わされたものだが、残りの半分は、はじめて経験するあまりの官能にわけがわからなくなった自分が自主的に言っていた。遺憾過ぎるがすべて覚えている。

 声もなく愕然とする杳に、榊は「おはよう」などと平然と笑いかけてくる。男の唇になにをされたか、なにを紡いだか、すべてが思い出されてしぬほど気まずいというのに、なぜそんなふうになんでもないような顔で挨拶などできるのだと詰りたい気持ちになった。それとも、恥ずかしいのは自分だけなのだろうか。

 くるりと背を向けて、布団の中に潜り込む。いつの間にか部屋の中は控えめに冷房が効いていたので、暑くはなかった。


「どうしたの? 寒い? それともどっかつらい? むりさせたかな」


 ベッドがぎしりと鳴った。枕元に腰を下ろしたのだろう男の問いのすべてに、布団の中で首をふる。顔を合わせづらいのだと察したのか、軽く笑った榊に布団ごと抱え込まれ、普段は服に隠れていて見えない、がっしりと逞しい腕に抱きしめられたことや、あたたかくて大きな手を何度も汚してしまったことをリアルに思い出して、杳は胸の中でいっぱいに「わーっ!」と叫んだ。


「そんなにかわいい反応されると、もっといろんなことしたくなるんだけど」


 昨夜はベッド以外でも、風呂へ連れて行かれてべつな官能を教え込まれたというのに、ほかにいったいなにがあると言うのかと、またなにかしたりされたり言わされたりするのかと思ってがばりと布団から顔を出し、


「む、むり! ぜったいむりっ」


 顔を真っ赤にして必死にかぶりをふる様がおかしかったのか、榊は吹き出して、冗談だよ、と杳の髪をなでた。そのまま何度か髪を梳き、


「来てくれてありがとね」

「え?」

「昨日。ほんとは俺から行くつもりだったんだけど、杳くんの家の場所、漠然としか知らないからさ。今日の朝にでも、出勤してきたところを捕まえて謝るつもりだったんだ。少しでも早く仲直りしたかったから、来てくれてほんとに嬉しかった」


 ありがとう、と真摯に礼を言われ、胸が痛いほど熱くなる。散々に泣いたせいだろう、腫れぼったく感じる目で年上の男を見つめ、


「また、俺としゃべってくれる?」

「もちろん」

「俺が口悪くても、気にしない?」

「しないよ」

「……ときどき、ここに来てもいい?」

「いつでも」


 そっと、野生の動物に手を伸ばすみたいにこわごわと発した願いを、考える素振りも迷惑がる様子も見せず、榊はあっさりと叶えてくれた。


「ときどきなんて言わずに、すきなだけ入り浸ってよ」


 親戚の家を転々とする中で、いつも自分は、確かな場所を欲していた気がした。ここにいてもいいのだという、家族であれば無条件に与えられる目には見えない許可証を、両親をうしなったことで失効になってしまったそれを、誰か再び発行してはくれないかと、心のどこかで願っていた。


「俺も杳くんの部屋に遊びに行っていい?」


 胸がつまって声が出せなかったので、頷くことで意思表示した。熱くなった瞼をごまかすべく「トイレ借りる」と方便を口にしてベッドを抜け出すと、


「あ、冷蔵庫にミネラルウォーターが入ってるから、戻るときに一緒に持ってきてくれる?」


 榊の頼みに頷いて、部屋を出る。薄闇の中にぼんやりと浮かんで見えるキッチンにひたひたと歩み寄り、冷蔵庫の前で足を止める。

 夏の明け方はもううっすらと暑く、冷房の効いた部屋から出た途端、首筋に汗が滲みそうなほどだった。耳をすませると、どこからか蝉の声も聞こえてくる。今日も暑くなるのだろうな、と考えながら冷蔵庫の扉に手をかけ、手前に引くと、ぎぱっ、という独特の音を立てて仄暗い中に白いひかりを放ち、冷気を吐き出した。榊の注文したミネラルウォーターを探していると、見覚えのある小さなスイーツを見付けて、杳は動きを止める。

 波型のプラスチックカップに入った、プリンがふたつ。そのポップなカラーリングの蓋に、黒のマジックで文字が書かれている。急いでいたのか、やや乱れていてあまりうまい字とは言えず、ふは、と思わず笑ってしまい、同時に涙がこぼれ落ちた。

 白いひかりの中、『はるか』『たいせい』と、それぞれの名が書かれたプリンが滲んで見える。その場にしゃがみ込んで膝頭に顔を埋めていると、僅かに床が軋み、そっと、なにかが髪の毛に触れた。榊の手のひらだと、瞼を膝に押し付けながら思う。


「……ミネラルウォーターなんてねぇし」


 くぐもった声で文句を言うと、


「ごめん。そういえば俺、水道水でも平気なタイプだった」


 顔をあげると、榊は静かな笑みを浮かべて杳を腕の中に囲い込み、


「昨夜はそれを買いに出てたんだよ」


 それ、というのがなにを指しているのかは聞かずともわかった。そういえば、そんな質問をしたなと思い出す。


「ちゃんと謝って、仲直りできたら一緒に食べようと思ったんだ」


 冷蔵庫の中にちんまりと収められた、名前の書かれたプリンは、杳にここにいてもいいのだと言ってくれているようだった。目に見える形を取った許可証のようで、ずっとそれが欲しかったことと、幼い頃、テレビの映像に憧れ、どんな気持ちがするのだろうと想像をめぐらせていたのを、痛いように思い出す。

 こんな喜びがあるなんて知らなかった。胸がひどく揺さぶられ、痛くて苦しいのにこの上なく幸福で、プリンひとつでここまで感激するなんて、自分はどれだけ簡単なやつなのだと笑いたい気持ちになった。


「ありがとう」


 眼前のさいわいに向けて、いっぱいに感謝を込めた礼を渡す。

 薄暗かった部屋の中に白々としたひかりが射し込み、すべてのものの輪郭をくっきりと浮かび上がらせていく。昨日までとは違う新しい朝は、なにもかもを生まれ変わらせたみたいに、ぜんぶを瑞々しく輝かせてうつくしい。

 うずうずするようなしあわせを、ひとりではとても抱えきれなくて、どういたしましてと微笑む男にも持って貰おうと、分ける為に顔を近付けて、触れるだけのキスをした。

 日々はいつも同じ顔をしていて、ただただ自分の上を通り過ぎていくものだと思っていた。けれど今日は昨日とはまるで違い、明日もまた異なる顔でやってくるに違いなく、そうであったらいい、その日を榊と共に楽しめたらいいと思いながら、杳はお返しのように唇を寄せてくる男を抱きしめるべく、開けたままにしていた冷蔵庫の扉を、そっと閉めた。

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愛は冷蔵庫の中に 砧たぬき @415322

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