第10話

 仕事を終えたのち、洋食屋の営業時間が終わるのを待って、杳は店舗二階にある男の自宅前に立った。今にもばらばらに砕け散ってしまいそうな勇気を必死で繋ぎ止めてはいるが、やはり怖気付く気持ちは拭えず、何度も息を吸っては吐き出し、どうにか落ち着こうと試みる。

 このあいだは、ひどいことを言ってすみませんでした。新しく入ったバイトの子のことを、本気で悪くなんて思ってません。ただ、ちょっと仕事で失敗しちゃって、くさくさしてて、つい八つ当たりしちゃったんです。

 これで最後にもう一度謝って、頭を下げようと、脳内でシミュレートする。仕事で失敗したというのは嘘だが、そこは方便というものだ。まさか本当の理由なんて言えないのだからしかたがない。

 けれど、それでは結局のところ謝罪になっていないのではないか、とも思えた。榊が怒ったのはバイトの女性を悪く言ったからなのに、彼女を貶めた本当の理由をごまかしたのでは、なお悪いことにならないか。もしもばれたら、決定的に軽蔑されるだろう。

 ならば正直に、理由は言えないと告げようか。彼女を本気で悪くなんて思ってない。詳しくは言えないが、八つ当たりをしてしまったのだと。

 納得はされないだろうし、ちゃんと理由を話せと迫られるかもしれないが、へたなごまかしを口にするよりかはいいのではないか。

 この期に及んで保身に走りたがる己を疎ましく思ったが、ばか正直にすべてを詳らかにして榊に嫌悪されたら立ち直れない。

 深呼吸を繰り返し、扉脇に取り付けられたチャイムを押すと、扉の向こうから軽やかな呼び鈴の音が微かに聞こえた。そのまま二秒、三秒と待つが応答はなく、緊張が最高潮にまで高まっていた杳は、五秒経って漸く、ん? と内心首を傾げた。気が弱っているときにはありがちのネガティブな思考が、居留守を使われているのではと囁き、先ほどまでとは違う意味で胸がそわそわと騒ぎ始める。

 けれど、家を訪ねることを予告していたわけではないし、不在を装うなんてことがあるだろうか。単純に家を空けていると考えた方がしっくりくるのでは。

 まさかいないとは予想もしておらず、少し時間を空けて再度訪問するべきか、それともここで家主の帰りを待つか、はたまた明日に持つ越すべきか、扉の前でうんうん悩んでいると、


「杳くん?」


 確認する声に、飛び上がるほど驚いた。目を向けた階段の下では、待ちびとであり家主でもある男が目を丸くしてこちらを見上げている。驚いたせいで心臓がばたばたと走っていたが、名前で呼ばれたことに、ひりひりするような安堵も覚えた。


「どうしたの?」


 言いながら階段をのぼってくる男の手には、コンビニの袋があった。歩くたびにがさがさと音を立てるそれに、なんとはなく責められているような気持ちになって、


「勝手に来て、ごめん」


 俯いて謝る。それはいいけど、と返した榊が玄関の扉を開けて中へと入っていく。取り残される形になった杳が、やはりまだひどく怒っているらしいと恐々としていると、


「なにしてんの? 入んなよ」


 玄関先で突っ立ったままでいる杳を促した。榊の性格からして、訪ねてきた相手を門前払いすることなどできないのだろう。腹を立てている相手にも気遣いを見せる男の対応に、感謝すればいいのか申し訳なく思えばいいのかわからず、ひとひとり立つのがせいいっぱい、という広さの靴脱ぎまでは踏み込んだものの、そこから動くことができずに立ち尽くす。

 謝らなければという使命感だけは胸の真ん中にあった。けれどいったいなにから謝ればいいのかがわからない。

 突然来たこと? 気を遣わせたこと? いや、それよりも今日のことをまずは詫びるべきだろうか。

 コンビニの袋の中身を冷蔵庫へと移し終えた榊が、「どうしたの?」と尋ねる。微かに床を軋ませながら歩み寄り、僅かに俯けた杳の顔を、軽く身を屈めて覗き込む。こちらを案じるような眼差しに、居たたまれない気持ちが突き上げてきた。

 腹を立てている相手の心配をするなんて、損な性分だと同情する気持ちと、怒っていても親切にできるところに性懲りもなく惹かれる気持ちとが混じり合い、胸が鋭く痛む。


「なにかあった?」


 いたわりに満ちたやさしい声に、鼓膜と連動したように胸も震えた。どんなふうに、なんと言って謝るか、組み立てていた算段がすべて吹き飛び、肺の間と咽喉がきつく絞られたように痛んだかと思うと、にわかに目の奥が熱くなり、それは滴となって表にあらわれた。

 突然ぼとぼとと涙を落とし始めた杳に、榊はぎょっとして「えっ、ちょっ、どうしたの?」とあたふたする。迷惑をかけたくなくて必死に止めようとするのに、まったく制御できず、それどころかますます量産されて、榊を困惑させた。


「……ごめん」

「え?」

「ごめんなさい」


 もう一度謝る。顎から滴をしたたらせながらしゃくりあげ、何度も何度も謝罪のことばを口にする。


「いや、なにが? 泣かないでよ」


 弱りきったように言って、榊が宥めるように背をなでる。こんなことをさせてはならないと、


「今日、ひどいこと言って」


 みっともなく湿った鼻声で説明すると、ほんの僅かの間を空けて、ああ、と榊が苦笑した。


「ごめんなさい」

「いや、俺こそ、嫌な態度とってごめんね」


 杳は一向に止まる気配を見せない涙をぐいぐい拭い、しゃにむにかぶりをふりながら、そちらが謝ることはないと訴える。


「ごめんなさい。ごめん」

「杳くん」


 ごめん、ごめん、と何度も謝った。今なら親に土下座した麻生の気持ちがわかる。あのときは、そこまでするかよ、と軽く引いたが、それほどまでに許しを欲し、同じくらいあの場所へと帰りたかったのだろう。

 榊に許されたかった。また以前のような関係を結びたかった。くだらないことを言い合いたいし、笑ってほしい。


「嫌いにならないで」


 バイトの女性について言及するつもりだったのに、震える声が紡いだのは、まるで意図していないことばだった。なにを言っているのだと誰かが叫んだが、一度折れた気持ちはすぐには立て直せず、顔を覆うようにして、「嫌いにならないで」と、嗚咽の隙間にもう一度懇願する。


「なに言ってるの、なるわけないだろ」


 鉄製のフライパンを容易く操る、がっしりとした大きな手が背中をあやすように叩く。


「だからもう泣かないで」


 すん、と鼻をすすり、そろりと顔をあげると、視線が合ったことに安堵したように榊が笑い、そのやさしい笑みにまたぞろ双眸に水分が集まる。


「謝るのはこっちの方だよ。ほんとにごめんね。変な態度取って傷付けて」


 背中に当てられていた手が、二の腕に移動する。シャツ越しにしみこんでくる温度はあたたかく、ほっとした拍子に涙がひと粒こぼれ落ちたのを、空いた方の手で拭われた。


「バイトの子のこと、本気で悪くなんて思ってねぇよ」

「うん。わかってる。杳くん、口は悪いけど他人の悪口なんて言ったことないもんね。あのあと、たぶんなにかの勢いで言っちゃっただけだろうなって思って、反省した」


 泣き過ぎたせいで、頭の中は、なにかがつまったようにぼんやりしていた。むくんだ目で榊を見つめ、彼の中に本当に憤りの残滓がないかを探っていると、「俺ってそんなにこわいかな」と苦笑される。


「泣かれるなんて思わなかった」


 感情が決壊してぐしゃぐしゃになった顔を、何度も手のひらで拭われる。けして自分のものにはならない手のぬくもりを感じながら、気が付けば「そんなのあたりまえだろ」とぼそぼそ呟いていた。


「すきなひとに嫌われたかもって思ったら、こわいに決まってる」

「……え?」


 短く問い返されて、己の失言に気付いた杳は、さぁっと顔から血の気を引かせた。気持ちを伝えるつもりなんて微塵もなかったのに、迂闊にも口を滑らせてしまった。

 頬から離れていく榊の手に、引かれたのだ、気持ち悪いと思われたのだと、悪い方向への妄想を先走らせて、真っ青になりながら踵を返そうとする。

 同性に思いを寄せるような変態と同じ空間になどいたくないだろう。同じ空気すら吸いたくないかもしれない。


「か、帰る! ます!」


 いや、もはやタメ口を利くことも許されない筈だと、中途半端な敬語を渡し、一秒でも早くこの部屋を出て行こうと焦っていると、


「なんだよ、帰るますって」


 失笑と共に、二の腕を掴んだままでいた男の手にぐっと力が入った。


「って言うか、帰すわけないだろ」


 え、と瞬く杳の眼前に、信じられないくらい近い距離に榊の顔が迫り、思わず目を閉じると、唇をやわらかなもので塞がれた。反射的に逃れようとするが、背中はすぐに玄関扉にぶつかり、そのまま縫い止められるようにして、二度、三度と呼吸を奪われる。

 気配と温度が離れたのに目を開けると、窺うような顔でこちらを覗き込む榊と目が合い、杳はぽかんと男を見返した。


「……今の」

「キスだね」


 あっさり言われ、今更ながら男の唇が触れていたのだと、己のそれを覆って顔に血をのぼらせる。


「な、なんで、」

「杳くんのすきって、ひょっとしてこういう意味じゃなかった?」


 いや、そういう意味だけど。

 真っ赤になって黙りこくる杳に、榊は小さく笑って、


「よかった。俺もね、杳くんに悪いことしたなって、気になってたんだ。嫌われたかもって、心配だった」

「なんで? 腹立てるのなんて、普通だろ」

「普通ならそうかもしれないけど、俺にとって杳くんは普通の相手じゃないから」


 直前にあんなことをされておいて、普通じゃないならなんなのだ、などと聞くほど鈍くも底意地が悪くもない杳は、頬を火照らせて目を泳がせる。


「なんで、俺なんか」

「なんでって言われてもね」

「だって、愛想ないし、口も悪いし」

「俺はそういうところ、楽しいと思うけど。あと、案外気遣い屋さんで、自分の言動で相手が不快な思いしてないか、さりげなく気にしてるところとか、かわいくてすきだよ」


 すき、ということばに敏感に反応した心臓が胸の奥でどっと跳ねた。と言うか、気にしていたことがばれていたと知り、羞恥と屈辱に顔と頭の中が、かーっと熱くなる。


「帰るっ!」


 至近距離にいる相手に声高に宣言するが、「帰さないって言ったろ」と、笑いを含んだような、けれど低い声で言われ、再びくちづけをしかけられた。

 今度のそれは、ついばむようなやさしいものではなかった。唇を舐められ、動揺と混乱の極みに陥っているのをいいことに、歯列を割って潜り込ませた舌で上顎をなぞられて、小さな咽喉声が洩れる。

 自分のことでせいいっぱいという生活を送ってきていた為、杳にはこれまでとくべつに親しい相手というのを持ったことがなかった。当然くちづけも先ほどがはじめてで、舌で口内を探られるという未知の体験に、殆どパニックになりかけていた。


「ん、んっ!」


 堪らず男のシャツを掴むが、抗議とは受け取られなかったらしく、奥の方で縮こまっていた舌を絡め取られて甘噛みされて、背筋にびりびりと電気が走る。

 心臓がありえないくらいの速度で脈打っていた。内側から胸を強く叩き、このまま破裂してしまうのではないかと不安になるくらいだった。

 漸く解放されたときはすっかり息があがっていた。鼻で呼吸することなど思いも付かず、酸欠になったようにくらくらする頭でじろりと榊を睨め付けると、男は濡れた唇に弧を描かせて、「そんな目で睨んでも、えろいだけだよ」

 そう言う榊の方こそ艶めいた目をしていてよほど色っぽく、杳は視線をうろうろとさまよわせる。唇を尖らせてぼそぼそと、


「えろくねぇし」

「えろいよ。あんまりえろいから、キスしただけで引っ込みつかなくなったくらい」


 なんのことだと眉を寄せると、榊は不敵に口の端を持ち上げて、下半身を腿の辺りに押し付けてきた。ジーンズ越しにもその場所が僅かに反応しているのがわかり、驚いて身を引くが、扉に背を預けた状態ではそれ以上逃れることはかなわず、


「責任取ってよ」


 腕を引く榊に、靴を履いたままでいた杳は慌ててそれを脱ぎ捨てる。脱いでしまってから、帰るつもりだったのにと思ったが、彼の自室に連れ込まれて抱きしめられ、「すっげぇしあわせ」と、ひとりごとのように耳元でささやかれると、逃げ出す気持ちは失せてしまった。

 思いがけないくらい強い腕と、薄いシャツ越しに感じる、熱い体温。それから自分のものではない他人のにおいに、眩暈を覚える。

 抱擁をほどかれ、額と眦にくちづけたのち、「続けてもいい?」と確認され、


「……帰さないとか責任取れとか言ってたのは誰だよ」

「俺だね。けど、杳くんがほんとにむりなら我慢するよ。嫌われたくないし」

「……むりとは言ってない」


 あかりのついていない部屋の中は、外から差し込む僅かなひかりのみが頼りで薄暗い。その中でも、榊の瞳がきらめいたのはわかった。


「そのことば、忘れないでね」


 ロータイプのベッドに引き倒されながら渡されたせりふに、早まっただろうかと一瞬思ったけれど、噛み付くようにくちづけられて、すぐになにもわからなくなった。

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