第9話

 冷房の効いた店内から一歩出ると、外はくらくらするほど暑かった。いったいどこから聞こえてくるのか、蝉の声は空を覆うようで、空気も熱せられたように息苦しい。猛暑、酷暑、炎暑、あらゆる表現を用い、連日テレビでは、熱中症への注意が呼びかけているようだ。今日も配達に出る前、店長からくれぐれも気を付けるようにと念を押されている。

 麻生と共にそれに頷いて、車に乗り込む。車内は外の比ではなく暑く、サウナさながらで、すぐにも額に汗が滲む。


「配達、行きたくねぇなぁ」


 ひとりごとなのか、ぼやく麻生に、杳も内心同意する。もっとも、彼のそれは暑いからというのが理由であるが、杳は今日の配送先の中に、どうしても行きたくない場所が含まれているからだった。

 七月下旬の現在で、冷房機器の売り上げは既に前年を上回っている。いくつかの家を回り、暑さをしのぐ為の家電を届けたのち、「次は?」と尋ねる男に、余計な感情が混ざらぬよう気を付けながら、「榊さんのところです」と伝える。以前彼が購入したエアコンを届け、取り付けることになっている。


「おまえ、あれから榊さんとこに顔出してんの?」


 ハンドルを握り、前方に目を向けたまま問われたのに、いえ、と端的に答える。


「なんだよ、薄情だなぁ。世話になったんだろ?」

「まぁ」

「なんだかんだうまくやってると思ってたのに、やっぱ赤の他人との同居はストレスだったか?」


 一瞬ことばにつまってから、「そうですね」と応じた。榊は自分にとてもよくしてくれたし、だからこそ去りがたく思ったのだが、詳細を知らない麻生にその辺りのことを説明する気持ちにはなれなかったし、なにより、ひとりでいることを好むタイプである自分が、そうと知っている麻生に向かって榊を擁護する発言をすれば、不審に思われてしまうのではないかという疑念が拭えなかった。実際、居候が決まったときは面倒なことになったと思ったのだから、尚更だ。

 昼の営業を終えた店で、榊は待っていた。杳の方が仕事中であることを了解しているからか話しかけてくることはなく、身勝手にもそれを少しだけさびしく思ったけれど、二階へと案内される途中、小声で「久しぶり」と笑いかけられて気持ちは一気に舞い上がり、そんな自分を次の瞬間には嫌悪した。

 榊の自室は、以前と少しも変わりがなかった。ここで過ごした時間をついふり返りそうになるのを、工具箱を持つ手に力を込めることで堪える。

 ぎらぎらと暑いベランダに出て、室外機の撤去作業から始める。杳ひとりでも充分にできることなので、麻生は室内でその愛想のよさを発揮して、榊と世間話をしているようだった。

 室外機の側面にあるカバーを外し、スパナでバルブキャップを外す。冷房の設定温度を最低にして運転させ、室外機に取り付けられた二箇所あるバルブのうちの一方を閉めて部屋の中に戻ると、麻生が持っていた仕事用のPHSが鳴り、彼は短い詫びのことばを残して外に出て行った。飛び込みの仕事でも入ったのかもしれないとその背を見送っていると、


「新しい部屋には慣れた?」


 ふいに親しげな調子で話しかけられて、杳ははっと顔をあげた。榊が、親しみのある笑みを浮かべてこちらを見ている。


「あ、うん、はい、まぁ」


 敬語で応じるべきか、それとも今この瞬間だけは素に戻ってもいいのか、判断がつかず、応答はどっちつかずのものになる。


「そうなの? 俺は杳くんがいないことに、未だに慣れないのに」


 冷たいなぁと言わんばかりのせりふに、ひとの気も知らないで、と胸中でこぼす。本当はつまらないと、部屋も、冷蔵庫も、自分自身の内側も、がらんとしているのだと知ったら、榊と過ごした時間はこれまででいちばん楽しかったと知ったら、きっと彼は困惑して引いてしまうに違いない。


「これって今、なにしてるの?」


 ふしぎそうにエアコンを見上げる男に、ポンプダウンという作業中であることを説明する。


「室内機と配管パイプ内のフロンガスを、室外機に送って封じ込めるんです。ガスをそのまま排出すると、環境汚染に繋がるので」


 へぇ、と感心したように男は相槌を打って、それからその思いを滲ませた笑みをこちらに向けると、


「杳くんて、ほんとに電器屋さんなんだね」

「なんだよそれ」


 つい素に戻って眉を寄せると、嬉しげに目を細めて笑うのに、むっつりと唇を尖らせながらもどきどきと胸を騒がせていると、軽く身を乗り出してきた榊と間近で目が合って、口から心臓が飛び出しそうになった。


「毎日暑いけど、むりしてない?」


 熱中症を起こしかけたことをあてこすっているのだろう、口ぶりは揶揄を含んでいたけれど、瞳にはこちらを案じる色があり、杳はせりあがってくるときめきを飲み下しながらぶっきらぼうに答えた。


「べつに、平気」


 望みなんてないとわかりきっているのに、もう彼と自分の間にはなんの接点もないのに、それでも息をしようとする想いに苛立ちながら、


「そっちはどうなんだよ」

「どうって?」

「店。ちゃんとやってけてんの? 夜」


 昼間に働いている女性の紹介で入った、彼女の友人でもある女性とは一度だけ会ったことがある。杳がここを出て行く直前のことだった。おとなしそうな面差しを思い返しながら尋ねると、ああ、と榊は笑みを深め、大丈夫だよとはっきり請け負った。それに少なからずショックを受け、どうしてショックだったのかもよく理解できないまま杳は軽く笑い、ほんとかよ、と疑念を口にした。


「なんか、使えなさそうな子だったじゃん」

「……え?」

「とろそうっつぅか、仕事覚えんの遅そうっつぅか、一生懸命なんだろうけど、それが裏目に出て完全に空回りするタイプって言うの? 視野狭窄に陥って、周りが見えてなさそうな感じ。困ってんなら――」


 また手伝ってやろうか、と続けようとしたのを、「大丈夫だよ」と、先ほどよりも硬質な声が遮った。ぴしゃりとしたその口調にぎくりとして顔をあげると、榊が真顔で杳を見据えていた。怒っているとわかり、眩暈を覚えるほどの勢いで血の気がさがる。

 怒らせたかったわけじゃないと内側で誰かがいいわけした。

 不快にさせたかったんじゃない。ただ、少しでいいから自分のことを惜しんでいてほしかったのだ。

 杳くんの方が優秀だよ、杳くんがいたときの方が仕事が楽だった、杳くんがいてくれたらってよく思う。そんなふうに。

 ばかばかしい。幼稚で愚かな上、激しく傲慢な発言だった。自身が相手に望むことばを引き出したいあまりに、他者を引き合いに出して貶めるなんて。

 謝ろうとするが、声が出ず、表情を変えぬまま榊が「あの子はよくやってくれてるよ」と淡々と告げたところに、電話を終えた麻生が戻ってきた。

 その後榊が杳に話しかけてくることはなかった。再開された作業は滞りなく進み、新品のエアコンとの交換が終わり、辞去の挨拶をする段になっても彼はこちらを見なかったし、杳もまた榊をまともに見ることができなかった。

 怒らせたし、嫌われたと思った。それはそうだろう。よく知りもしない相手のことを平気で悪く言うような人間は、疎まれて当然だ。

 胸は痛まなかったが、途方もなく大きな穴が空いたようには感じた。それはあまりにも大きく、抱える杳自身よりも巨大に思えるのに、それに呑み込まれることなく自分が存在を維持し続けられていることが、ふしぎでならなかった。

 殆ど自失した状態で電器店に戻ると、


「なんかあった?」

「……え?」


 制服のジャンパーの胸元をぱたぱたと小刻みに引っ張って風を送り込みながら、麻生は小首を傾げて顔をして続ける。


「榊さん、なんか淡白な感じだったから。もっとおまえと、いろいろ話すもんかと思ってたけど」

「それは、俺が仕事中だから、気を使ってくれたんじゃないかと思いますけど」

「まぁそうかもしれんけどさ。でも、もうちょっと、親しいっつぅか、気安い空気みたいなのがあってもいいんじゃねぇの?」


 麻生は視線をあちこちにさまよわせてから、もう一度「なんかあったのかよ」とぶっきらぼうに尋ねてくる。


「なにかって?」

「だから、榊さんと。俺が電話に出る前は普通だったのに、戻ってきたらおまえ、この世の終わりみたいな顔してたぞ」

「この世の終わり、ですか」

「そ。今もおまえ、心ここにあらずって感じだし」


 そうなのだろうか、と思いながら頬に触れる。


「で、なんかあったのかよ」


 口調はぞんざいだったが、思いがけずまじめな声で尋ねられ、打ち明けてみようかと迷う。

 親をなくし、親戚の家に世話になりながらも、なるべく自分のことは自分でやるよう心がけてきたし、実際大抵のことは自力で対処、解決してきたのに、今自分は、榊とのことを聞いてほしいと思っている。それほどまでに追いつめられているのだとわかり、その事実にまた打ちのめされた。


「……怒らせちゃったんです」


 逡巡したのち、視線を足もとに落とし、事情の一端を明かす。


「完全に俺が悪くて。ほんとに、ばかなこと言っちゃって」


 思い返すと本当に恥ずかしいと俯きを深くしていると、へぇ、と麻生が意外そうに口を開いた。


「失言するほど、あのひととはしゃべるのか」

「……え?」

「だって水島、ぺらぺらしゃべるタイプじゃないだろ? なのに榊さん相手には、うっかりばかなこと口走っちまうほどしゃべるなんて、仲いいんだな」

「そんなことは、ないと思いますけど」

「そうか? まぁどっちでもいいけど。悪いことした自覚があるなら、やるべきことなんてひとつだろ」


 杳は唇を引き結んだ。なにをすべきかわからなかったわけではなく、わかっているからこそ沈黙した。ぐずぐずすればするほど、謝りづらくなることは明白だ。けれど、またあの冷ややかな目を向けられたらと思うと、それだけで足が竦んでしまう。


「おまえ、友達いなかったろ」


 麻生が面白がっているような口調で指摘した。


「どういうことですか?」

「仲直りのしかたがわからずに、途方に暮れてる子どもみたいだからだよ」


 仲直り、なんて子どもっぽい表現だと思ったが、言っていることはおおよそ正しかった。親しい相手などいないし、誰かと口論になったこともない。さまざまな場所を転々としていたというのもあるが、どうせまたすぐに別れることになるのだとか、付き合いなんて誰も皮相的なものだろうとか、悟ったようなことを思って誰とも深く関わろうとしなかったのだ。けれどそれは達観しているわけでもなんでもなく、ただ怠慢なだけだったのだろう。

 明るみになった自身の人間関係の希薄さに羞恥に身を縮めるが、その点について麻生に揶揄するつもりはないらしく、


「さっさと謝っちゃえよ」

「簡単に言わないでくださいよ」


 それができれば、今こんなに悩んでも落ち込んでもいない。

 謝らなければならないのはわかっている。でも、いつ、どうやって謝罪したらいいのだろう。なぜあんなことを言ったのかと尋ねられたら? いや、そもそも会って貰えるかどうかもわからない。あちらの営業中に押しかけるのは論外にしろ、閉店後は疲れているだろうし、それを理由に断られる可能性もある。話をすること自体拒まれたら、打つ手はないように思われた。

 俯く杳の旋毛の上に、「あのさ」と麻生の声が落ちてきて、顔をあげる。彼は店内のどこともつかぬ場所を見つめながら続けた。


「俺がここに帰ってきたとき、親父とお袋に土下座したろ?」


 唐突な問いとその内容に虚を突かれ、返事が二拍ほど遅れた。はぁ、という困惑を多分に含んだ声に、麻生は横顔で笑って、


「小春がさ、音信不通にしてる確固とした理由がないなら、ちゃんと親と仲直りしろって譲らねぇんだ」


 そこで麻生はちらりと杳に視線を向け、


「……あいつ、親父さんなくしてるんだ。けんかして、心にもない暴言吐いて、それっきりになっちまったって。そのときのこと、今も思い出すんだと」


 はじめて知る情報に、相槌を打つこともできなかった。朗らかでしゃきしゃきしている彼女にも、触れれば痛い傷があるのか。


「そうは言われても、俺の親はふたりとも、俺の知る限りでは殆ど病気もしたことなかったし、ぴんとこないっつぅか、あいつが親父とお袋にちゃんと許しを貰わなきゃ結婚しない、なんて言い張るから、殆ど渋々帰ってきたんだけど」


 麻生はほろ苦く笑って、


「ほんの数年会わなかっただけなのに、久しぶりに親の顔見たら、ふたりとも老けたし小さくなったような気がしてさ。ここに戻りたいって、傍に付いていたいって、そのときになってやっと心の底から思って、頭下げたんだ」


 あのときの土下座には、そんな深い意味があったのか。


「うまいたとえじゃねぇけど、修復できんならとっととやっとけっつぅ話。このまま榊さんと疎遠になるつもりなら、むりに謝れとは言わんけどさ」


 それは嫌だと思った。恋心は必ず秘匿するから、叶うならば以前のような気安い間柄に戻りたかった。


「なにびびってんのか知らんけど、あとになって後悔するかもしれないことを思えば、今感じてる躊躇なんて、なにほどのことでもないんじゃね?」


 言って、ばしんっ、と音がするほど強く背中を叩かれた。衝撃に、一瞬息がつまったほどだった。気合の注入だと嘯いて笑う男を恨めしく見やるが、彼の話は杳になけなしの勇気を集めさせる契機になった。相手がどう出るかは不明だが、ともかくも踏み出さなければなにも始まらない。


「ありがとうございます」


 礼を言うと、麻生は一瞬驚いたように瞬いたのち、ははっ、と軽やかに笑うと、「そうやって、素直に謝ればいいんだよ」と、アドバイスとも激励ともつかないせりふを渡した。


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