第8話

 休日を利用して訪れたネットカフェで、賃貸物件の情報を検索する。洋食屋の二階、榊との暮らしにくつろぎは覚えるが、同時に、焦燥もまた覚えていた。このままずるずると居候し続けては、ますます出て行きたくなくなってしまう。

 最寄り駅や家賃などの条件を入力してあらわれた該当物件の一覧を見つめながら、あそこを出て行くのかと、ぼんやり思う。多くの客で賑わう店、食器の触れ合う音、榊の作る料理のにおい。テレビの音、交わす会話、傍にひとがいる気配。

 それらすべてを手離すのだと思うと、胸にぽかんと穴が空いたような気持ちになった。それは、以前の部屋を出て行くときには感じなかった思いで、杳はそっと胸元に手をあてる。いや、ひとりで住んでいた部屋ばかりじゃない。それよりも前、親戚の家を転々としていたときも、こんな思いは抱かなかった。

 居候を始めてまだひと月も経っていないというのに、当初は一日も早くひとりの生活に戻ること願っていた筈なのに、現金なものだと自分にあきれる。

 画面をスクロールさせていると、一件のアパートに関する情報が目に留まった。築年数は古く、職場までの距離は遠くなるが、家賃は以前までのコーポとほぼ同額で、間取りは前のそれよりも広い。ユニットバスではあるが、冷暖房完備となれば、申し分のない物件と言えた。これを逃す手はないだろう。早速不動産屋に連絡を入れ、内見の予約を取る。繁忙期ではないからか、明日にも行けることになり、通話を終えて、杳は背凭れに深く体重を預けた。

 部屋を見て、よさそうならばすぐに契約しよう。いろいろと煩雑な手続きがあるので実際に移り住めるまでには少し時間がかかるだろうが、とりあえず、一歩前進だ。もやもやと胸にわだかまる灰色の雲から目を逸らし、よし、と頷く。

 ネットカフェを出ると、外は橙色に染まっていた。数羽の鳥がさっと空を横切り、山の方へ消えていく。まだ梅雨は明けきっていないというのに、気温は既に夏のような顔をしてひとびとの額に汗を滲ませ、アスファルトからむらむらと熱を立ち昇らせていた。そんな中でも子ども達は実に元気で、小学生くらいの男子児童達が、次々とはしゃぎながら杳を追い抜いていく。どこからか焼き魚のにおいが漂ってくるのに、今頃家では榊が台所に立っているのだろうかと想像していると、


「杳くん!」


 今まさに思い浮かべていた人物の声がして、杳は驚きに足を止めて周囲を見回した。短い横断歩道を挟んだ向こう岸から榊が手をふっているのに気付き、目をしばたたかせる。信号が青に変わり、軽快な足取りで駆けてきた男に、


「なにしてんの?」


 今日は定休日で、彼は家でごろごろしていた筈だ。ラフな格好ではあるが、部屋着から着替えた榊はにこにこ笑って、「お祭り行こうよ」と杳の手を取った。


「お祭り?」


 突然の誘いと、がっしりとした大きな手に掴まれたこと、そのどちらに驚いたのか判然としないまま首を傾げると、近くの神社で夏祭りが催されているのだと説明された。


「小さい神社なんだけど、地元のひとにだいじにされてて、毎年この時期にやってるんだよ」


 榊は手を離すつもりがないらしく、歩き出した男に引っ張られる形で杳も足を踏み出した。


「ちょ、手!」

「んー?」

「離せよ」

「けど、杳くんが迷子になったら困るから」

「ならねぇよ!」

「じゃあ、俺が逸れたら困るから?」

「じゃあ、ってなんだよ。なんで疑問系なんだよ。逸れるほどのひとごみでもないし、迷ったところで自力で帰れるだろうが」

「いつもながら歯切れのいいツッコミだなぁ」


 榊は笑うばかりで手を解放するつもりはないらしく、杳をぐいぐい引っ張り、ついに神社まで到達してしまった。

 商店街から少し外れたところにある、住宅街の一角。緑に覆われたその場所は、小規模ながら参道沿いには数軒の屋台が出ていた。先ほど杳を追い抜いていった小学生の姿もあり、目的はここだったのかと知る。


「結構賑わってるね」


 男のことばに、辺りを見回しながら杳は頷く。私服姿が殆どだが、中には浴衣を着て訪れている者もおり、薄暗くなり始めた周囲の中、照明代わりの提灯のあかりが祭りの雰囲気を盛り上げていた。

 それに気を取られて歩いていた為、疎かになった足もとの段差に気付かずつまずいてバランスを崩しかけたところを、ぐっ、と手を引かれて転倒を免れた。


「大丈夫?」


 思いがけないほど近くで声がして顔をあげると、榊と至近距離で目が合って、杳は息が止まるほど驚いた。抱き止められるような格好になっていて、シャツ越しに榊の温度を感じ取り、「わっ!」と小さく叫んで飛び退く。


「なに、その反応。傷付くなぁ」


 笑いながら言う男の声は、ばたばたと全力で稼動している自らの心臓の音にかき消されそうだった。頬や耳の先が、燃えるように熱い。


「手、繋いでてよかったね」


 いたずらっぽく榊は笑い、指先を絡めあわせるようにしてぎゅっと繋ぎ直されたのに、心臓も一緒に掴まれたような気がしてますます顔に血がのぼる。なぜいちいち動揺してしまうのか、助けられた決まり悪さと逸る鼓動が理解不能で、困惑しながら杳はそっぽを向き、唇を尖らせて憎まれ口を叩く。


「男と手なんて繋いで、客に見られて誤解でもされたらどうすんだよ」

「誤解って? 俺ときみがホモのカップルだと思われるってこと?」


 つまりはそういうことなのだが、直截な表現はなんだか生々しく響き、杳は自分から言い出しておきながら頷くこともできずに固まる。


「なにか聞かれたらそのときは、まだアプローチしてる途中なんですって答えるよ」

「はぁ?!」

「いやほら、まだカップルとしては成立してないからさ。誤解は解いておかないと」

「ご、誤解って、アプローチって、そもそも俺とあんたの間にはなんもないだろ!」

「なにもないなんてことはないでしょ。一緒に暮らしてる仲じゃない」

「それは、仕方なくだろ!」


 怒鳴ると、榊はおかしげにからから笑い、


「心配しなくても、杳くんの反応見てれば、いいおとなが子どもにちょっかいかけてるようにしか見えないって」


 言われてみれば確かに、ただじゃれているだけ、ふざけあっているだけにしか見えないかもしれない。いったいなぜホモのカップルと誤解されるかも、などという突飛な発想に至ったのだろうと、自分で自分に引く。そのくせ、誤解などされるわけがないだろうと決めきっている榊の態度に、なんとなく傷付いたような気もして、杳はますます混乱した。

 恥ずかしくて決まり悪くて、そっぽを向きながら「子どもじゃねぇし」と捻じ込むと、はいはい、と榊は笑ってあやすように繋いだ手を前後に揺らした。屈辱的なのに、手をふり払う気持ちには、どうしてだかなれなかった。




 広くない境内を見て回るのに、さほどの時間は要さなかった。鳥居の前にある社号標まで戻ってくると、「ちょっと待ってて」と言い置いて、榊は再び参道へと戻っていく。

 どこかからお囃子の音が聞こえてきて、香ばしいソースのにおい、威勢のいいテキ屋の声、歓声、すべてがひとつになって空へとのぼっていくのに、祭りの夜を実感する。

 藍色に染まる周囲の中で、ここだけは浮かぶようにくっきりと明るい。玉垣に囲われた聖域は、普段のこの時間はおそらくひっそりとしているのだろうが、今ばかりはひかりと賑わいに満ち、拝殿前の両端に鎮座し、鳥居の方を監視している狛犬も、どこかそわそわしているように見えた。

 綿あめを握りしめた子どもと親が、たこ焼きを分け合うカップルが、こちらの世界へと戻ってくる。誰もが誰かと一緒で、笑みを湛えており、神社の名が刻まれた丈高い石の前でひとり、杳がぽつねんと賑わいを見つめていると、ひとごみの中でも目立つ長身を見付け、安堵に似た感情が胸に満ちた。けれど、人波が切れた一瞬、隙間から覗いた、彼の傍らに寄り添う女性の姿に、心臓が竦み、知らず笑みを浮かべかけていた頬が強張る。朗らかに笑って親しげに榊の腕に手を触れている女性に、腹の底がかっと熱くなった。

 誰だよそいつ、と胸が叫んだ。ひとを待たせておいて、いったいなにをやっているんだ。榊がナンパしたのか、それとも女から声をかけてきたのか、今すぐ駆け寄って問い質したい気持ちになるが、なぜこんな粘性の強い、暗い憤りを覚えるのだろうとふと我に返り、自身の心を探ろうとしていると、奥底を覗き込むよりも早く、女性と別れた榊が戻ってきたことで自己分析は後回しになる。


「お待たせ」


 言いながら差し出された品に、なにをしていたのだと、詰ってやろうと構えていた杳は、虚を突かれて瞬き、深く、艶々とひかる赤いそれを見つめた。


「りんごあめ」


 ほら、と促すように割り箸を揺らされ、おずおずと受け取る。男のもう片方の手には、かき氷があった。上には鮮やかな青いシロップがかかっている。

 これを偶然だと思うほど、愚鈍ではなかった。覚えていたのかと、驚きに貫かれ、なにかを言おうとして、けれどことばが見付からず、唇は中途半端に開いたまま固まる。胸の中が、なにか熱いものでいっぱいになって咽喉もとまで押し寄せてきたのに、慌てて小ぶりのあめに齧り付いた。そうしなければ、熱が外へと溢れ出してしまいそうだった。


「…………」


 りんごあめは、どう表現したらいいのか、よくわからない味がした。あめの部分はおいしいような気がするが、中のりんごはかすかすしていてかなり微妙だ。りんごあめとはこういう食べ物なのだろうかと思いながらちまちま齧っていると、


「交換して」


 ひょい、と割り箸を取り上げられ、代わりに氷の入ったカップを押し付けられた。どういうことかと見上げると、


「知覚過敏だったの忘れてた」


 榊は肩を竦めて笑うが、杳はそれが嘘であると知っていた。氷の入った水を、造作もなさそうに飲んでいるのを見たことがある。

 きっと、微妙な顔をしてあめを食べていたことに気付いたのだろう。目敏い男だ。

 せっかく買ってきたのにと不平を述べればいいのに、おいしくないのかと確認すればいいのに、くだらない嘘なんてついて。

 なんでもないような顔をして杳の食べかけのあめを齧っている男の横顔に、またぞろ胸の奥が熱を持ち、渦を巻くのを感じ、肺の間が絞られたようにぎゅっと痛んだ。どきどきするようなそわそわするような、落ち着かない気持ちで下を向く。

 ストローでできたスプーンで、細かな氷をすくう。口に含むとひんやりとしていて、何味ともつかないふしぎな味が口に広がった。


「……さっきの」

「うん?」


 俯き、意味もなく氷をしゃくしゃくとつつきながら気になっていたことを尋ねる。


「女のひと」

「ああ、見てたの?」


 平然と言う榊に、どうしてそんなにあっけらかんとしているのだと、むっとする。


「昼間に店でバイトしてくれてる子だよ」


 明快な答えに、高い場所から唐突に突き落とされたような気持ちになった。

 榊の回答に、杳はほっとしていた。ナンパでもなんでもなかったのだとわかり、雇用者と従業員という関係だったのだと判明して、脱力しそうなほど安堵したのだ。ただの居候に過ぎないのに。向かいの店の従業員に過ぎないのに。

 彼が誰のものでもないとわかって、嬉しく思ってしまった。これは普通ではない。

 ああそうか、と、ことここに至って漸く杳は腑に落ちた。

 あの家を出て行くことを考えたときに胸がすかすかしたのも、榊が女性と一緒にいる姿に苛立ったのも、彼と彼女がとくべつな関係を結んでいなかったことに安堵したのも、男のやさしい嘘に熱が生まれたのも、理由はすべて、ひとつの解へと集約される。

 眼前の、鮮やかな祭りの色彩すべてが、モノクロームに変化していく。気付かなければよかったと、心底思った。

 青いシロップの味を感じなくなる。氷はただ冷たいばかりでひどく不快だった。

 となりに立つ榊を遠く感じた。殆ど触れそうな距離にいるのに、ぜったいに触れてはいけないと、戒めのように身体を固くする。

 ストローを口に運び、先端を、歯形が付くほどきつく噛む。そうすることで、恋心をころせたらいいのにと願いながら。




 こういうことは早い方がいいだろうと、祭りの帰りに、新たな部屋が見付かりそうであることを明かした。榊はちょっと目を丸くして、それから笑みを広げて喜んだ。


「よかったね。どの辺り?」


 まだ決まったわけではないと前置いてから、おおよその場所を伝える。そっか、と彼は頷き、それからさびしくなっちゃうなと惜しんでくれた。そんなのはただの社交辞令だと、ともすると喜びそうになる胸に言い聞かせ、


「俺はひとりに戻れてせいせいする」


 アスファルトに向けて嘘をついた。


「あのままあそこにいたら、いつの間にか店の従業員にされそうだし」


 自主的に手伝っていたくせに、まるで榊に強要されたかのような言い草だった。さすがに気を悪くしたかもしれないと思ったが、「あ、そのことだけど」と、なにかを思い出したような榊のせりふに顔をあげた。


「夜のバイト、見付かりそうなんだ」

「……え?」

「さっき神社で会った彼女の友達がバイト探してて、今度紹介してくれるって」


 裏切られたような気持ちになった。自ら手放そうとしていたのに、強引に取りあげられた理不尽さを覚え、どういうことだと詰め寄りたくなる。それを必死で飲み込んで、「よかったじゃん」とどうにか口にした。激しい類の感情を抑え込もうと苦慮するあまり、声音は色を削がれて平坦なものになる。


「やっぱりひとりで回すのはむりがあるよね。杳くんが言ったとおり」

「え?」

「お客さんを待たせるなって、さっさとバイト探せって、せっついたろ」


 言われて、店を手伝いながらそんなことばを投げ付けた記憶がよみがえる。あのときは本気でそうすることを勧めたのだが、それがここで返ってくるとは想像もしていなかった。けれど、これは渡りに舟と言うべきなのだろう。


「お互いよかったね」


 さも嬉しそうに笑う男に、苛立ちとかなしみの両方を覚えながら無言で浅く顎を引く。

 これでよかったのだ。榊にとっても、自分にとっても。

 言い聞かせながら辿る帰路は、苦くて重たかった。また新たな場所へと移り住む、それだけのことなのに、これまでに何度も繰り返してきたことなのに、なじみの諦観と共に、漠然とした不安に胸を覆われ、息が苦しくなった。

 自分はこの先も、海に打ち捨てられたペットボトルのように、波間をあちらこちらに漂い、さまよい続けていくのだろうか。いつかどこか、落ち着く場所ができるのだろうか。そこにははたして、誰かいるのだろうか。

 榊の傍は、今まででいちばん居心地がよかった。古くて狭くて、ちっとも静かじゃない、洋食屋の二階。

 食事をしながら、テレビを見ながら交わす、どうということもない会話。おはようから始まる、さまざまな挨拶。そのすべてを、自分はもうじきうしなうのだ。

 その日の夜のニュースで、関東地方の梅雨明けが発表された。もう夏だね、と榊が言った。本格的に蝉が鳴き始める頃、杳は彼の家を出た。来たときよりも少しだけ増えただけなのに、ずっしりと重く感じる鞄を手に入った新たな部屋は、榊のもとで使っていた六畳の和室よりも広い、フローリングのワンルームで、専門業者によるクリーニングを終えたあとということもあってか、よそよそしいほど清潔で、そうして静かだった。

 殺風景な部屋で、冷蔵庫の稼動音はひどく耳についた。それは酔っ払いの出す大声よりもはるかに小さい筈なのに、その微かな音をこそ杳はうるさく感じた。

 自分だけの場所を再び手にしたのに、喜びは内側のどこを探しても見付からなかった。杳の気持ちなどいっさい忖度せずに時間は日常を押し付けてきて、落ち着く間もなく以前よりも少し遠くなった職場へと通い、仕事をこなし、終業後はまっすぐに帰宅するという、無味乾燥の生活が始まった。洋食屋へは足を向けなかった。自分がいなくなったあの場所で、きっと榊は変わらず生活している筈で、杳がいてもいなくても、彼にはなんの影響もないのだということを思い知るのが嫌だったのかもしれないし、単純に、彼のいない生活に、一日も早く慣れようとしていただけなのかもしれない。

 ストローを噛むだけではころしきれなかった恋は、今もまだ杳の中で息をしていた。遠巻きにそれを眺めながら、早く絶えてくれることを、ひたすら願った。


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