第7話
「お茶貰っていい?」
どうぞ、という了承のことばを聞いてから、杳は少し古い型の冷蔵庫を開ける。
相変わらず家人に許可を得なければそうしたことはできなかったが、抱えていた事情を明かした今は、それほど気負わずに行動できるようになった。
親がいないとか親戚の家で育ったとか、軽くはない話を聞かされ、ひょっとしたら引いたかも、腫れものに触るような態度を取られるかもしれないと危惧していたが、予想に反し、榊の態度はそれまでとまるで変わりがなかった。
変わらず陽気で、くだらないことを言い、杳の棘のある返しをにこにこと笑って受け止めている。
変わったというならば、むしろ自分の方かもしれないと、茶を飲みながら杳は思う。
榊と過ごす時間を、以前ほどには面倒に感じなくなっていた。今だって、一緒にテレビを見ようという誘いに乗って、バラエティ番組を見ていたところだ。
使い終えたグラスを洗って水切りかごに伏せると、榊の部屋に入り、男のとなりにそろりと座る。
ゆるく冷房の効いた快適な部屋では、世情に疎い杳でも知っているお笑い芸人が食リポをしている映像が流れていた。ぽっちゃりとした体型を売りとしているだけに、とてもおいしそうに食べる上にコメントは適切でありながら面白く、先ほどから何度もふたりの笑いを誘っていた。
これが映画やドラマであれば感想を話し合うこともあり、実に他愛もないひとときだが、くだらないと切り捨てるには惜しい時間でもあって、ひとりで過ごすことに快適さを見出していた筈の杳は、自身のそうした心境の変化に若干の戸惑いを覚えていた。
激辛料理を食べた芸人のリアクションに笑っていると、ふいに視線を感じて傍らに目を向ければ榊と目が合って、杳は目をしばたたかせた。
「なに?」
「いや、杳くんが笑ってるなぁって思って」
「なにそれ」
「会ったばっかの頃は、殆ど笑顔なんて見せてくれなかったからさ」
彼との会話も厭っていたことを思い出し、気まずい気持ちになる。
「ひとあたりもやわらかくなったよね」
「そうか?」
「お客さんともときどき話すようになったし」
「それは、まぁ」
他愛もない内容だし、それほど長い時間話し込むわけでもないが、業務とはまるで関係のないことでやり取りを交わすことは増えた。それは榊の店に限った話でなく、電器店の方でも同じことだった。購入する商品に関する相談を受ける傍ら、どうということもない雑談を交わす。榊や麻生ほどにはうまく話せないが、以前ほど客が固い顔付きのままでいることは減ったように思うし、杳自身、そうした世間話を煩わしいと思わなくなっていた。
「話しやすくなったし、ときどき笑うのがかわいくていいって話題になってるよ」
「なにそれ」
話題ってなんだ、野郎の笑顔がかわいいわけはないだろうと胡乱に男を見上げると、彼は「ほんとだよ」と言って、笑みを広げた。
「そんな杳くんの笑顔をすぐ傍で見ることができて、すげぇ役得だな、と思って」
なにそれ、と、今度は胸の内でこぼした。冗談を口にしているわけでも揶揄しているわけでもなさそうな榊の態度に鼻白んで、杳はそわそわと目を逸らす。男の笑った顔なんて見て、なにが面白いというのかと思うけれど、それを口にすれば墓穴を掘ってしまいそうな気がして、引き結んだ唇をほどくことができなかった。頬がじわじわと熱くなるのに動揺していると、どこかからドォンという低い音が聞こえてきて、榊と顔を見合わせた。
ドォン、ドォン、と、立て続けに響く、どこか覚えのある音に、
「そういや、花火大会やってるんだっけ」
と、榊が立ちあがって窓を開けた。東側に取り付けられたそこから顔を出した男に、「来てみなよ」とどこかはしゃいだ声で招かれて、彼から少し距離を開けた位置から外を覗こうとすると、
「そんなとこからじゃ見えないでしょ」
腕を掴まれ、ぐっと引き寄せられ、身体が男と密着する。薄いシャツ越しに温度が伝わってきたのにどっと心臓が跳ねるが、空が明るくなったのに目をあげた。
空に開く花は、建物が近くにあるせいで歪に切り取られていたけれど、それでも充分にきれいで、「わぁ」と思わず声を上げる。やや遅れて、低い破裂音が耳に届く。
「港の方でやってるらしいよ。お客さんが言ってた。行きたかった?」
「べつに。めんどいし、暑いし」
実際はひとごみが苦手で、すぐにひと酔いして頭痛を覚えるから行きたくないのだが、虚弱と思われたくなくて素直にそうとは言い出せず、かわいげのない答えを返す。黙ってしまった榊に、気を悪くしただろうかと思い、「ここからで充分」と早口で付け加えると、吐息だけで笑った気配がし、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜられた。気安いスキンシップに、不慣れな杳は身を硬くするが、相手が怒っていないとわかり、ほっと胸がゆるむ。
「もうすぐ夏だね」
外に目を向けると、ちょうど花が空に広がったところだった。夏と聞くと、記憶の底から浮上する風景があり、消えていく火花を見つめながら杳は口を開いた。
「……子どもの頃さ。近所の公園で夏祭りがあったんだ。そのとき俺を預かってくれてたひとが小遣いくれて、行ってみたことがあって」
視線の先の空が、一瞬ぱっと明るくなる。
町内会で開催される、小さな祭りだった。会場の公園は平素とは様変わりして、いくつかの屋台が並び、中央には櫓が組まれ、非日常的な空間になっていた。小さな子ども達が傍らを駆けていき、それに押されるようにして杳も公園に足を踏み入れ、学校の友達とも会い、学区内で行われているのだから会ってもおかしくはないというのに、学校の外で、普段は家で過ごしている時間帯に顔を合わせるのがなんだかふしぎで嬉しくて、互いにはにかんだ笑みを交わした。
ドォン、と、空が低音に震える。
「なにを買おうか迷って。なんかぜんぶおいしそうに見えて」
「ああいうときって、どういうわけか目移りするほどぜんぶがよく見えるよね」
傍らで、榊が笑みを含んだ声で同意する。
「目の前を走ってった女の子が、りんごあめ持ってたんだ。あれってどんな味がすんのかなって、食べてみようかと思ったんだけど、かき氷も気になって。青いシロップがかかったやつ」
「ブルーハワイ?」
「そう。それも食べてみたくて。けど、結局どっちも食べないまま家に帰ったんだ」
「どうして?」
「さぁ。なんでかな。迷うのが楽しかったのかもしれないし、迷い過ぎて疲れたのかもしれないし」
オレンジの火花が、流線を描きながらゆるやかに下降し、きらきらとまたたきながら消えていった。どうしてこんな話をしてしまったのか自分でもわからず、杳はごまかすように榊に話題をふる。
「榊さんは? 夏祭りとか行ったことある?」
「あるある。俺は小遣いなんてすぐに使っちゃう方だったなぁ。しかもすっげぇしょうもないことに。くじ引きみたいなのってわかる?」
「紐を引っ張るやつ?」
「そそ! あれでスッちゃうような子どもだったんだよ。ばか過ぎるでしょ」
大量の紐の前で、いったいどれが目当ての品に繋がっているのか、真剣に吟味していたのだと榊は明かした。その様子を思い浮かべるとおかしくて、つい吹き出してしまうと、男もつられたように笑って、アイスでも食べようか、と、カップ入りのアイスクリームを持ってきてくれた。
うっすらと霜をまとったカップは指先に冷たく、ぬるい窓辺では心地よかった。テレビからはなごやかな笑い声が放たれ、夜空には大輪の花が弾け開き、ふたりの間ではときどき、他愛もない会話が交わされる。
黒の中に火花が散り、きらきらと宙に溶けていく。口に含んだバニラは舌の上で溶け、胸の奥を甘く満たした。榊と過ごすひとときは、杳に窮屈さも苦痛も与えなかった。最初の頃こそ他人と暮らすなんてむりだと思っていたけれど、蓋を開けてみれば、彼との生活をそれなりに楽しんでいる自分がいて、あんなにうるさいと感じていた酔漢の声だって、今では気にならなくなっているあたり、図太くすらあるかもしれない。
一緒に食事をして、テレビを見て、どうということもない話をする。ただそれだけの、けれど以前の生活にはなかった日々の営みは、無色で無味乾燥の暮らしに慣れていた杳の中にさまざまな色をもたらした。
日向水のように心地いい温度の潤いに浸りながら、はたして自分は、ここへ来る前の生活に戻れるのだろうかとふいに思った。なにもかもが自由な、ひとりきりの生活に。
新たな家が見付かるまで、という期限付きのつもりだった。それは榊も同様で、だからこそ気軽に滞在の許可を出したのだろう。
それなのに今、自分はここでの暮らしを悪くないと思い始めていた。このままここにいられたらいいのに。
それはアイスと同じほど甘くて、同じほど脆く溶ける夢想だったけれど、くだらない妄想だと切って捨てることはできず、魚の小骨のように胸の奥底に引っかかり、小さな声でぷつぷつと、夢を呟き続けた。
本格的な夏の訪れを前に、電器店は連日冷房機器を求める客で賑わっていた。
「エアコンってこんなにたくさんあるのねぇ」
壁にかけられた横長の家電を前に、途方に暮れたように洩らす老婦人は、全部を杳に任せるつもりなのか、とにかくいいものが欲しいのだと言って、どれがいいかしらと首を傾げた。
「冷房も暖房も、今使ってるものはぜんぜん効かないのよ」
「適用畳数がどれくらいかは、覚えていらっしゃいますか?」
なにそれ、といった顔で首を横にふる老女に、少し考えてから口を開く。
「エアコンというのは、取り付ける部屋の状態によって、効き方が異なるんです」
杳は手近なエアコンを示し、「たとえばこのエアコンですと」と説明を続ける。
「適用畳数は冷房が八畳から十二畳となっていますが、これはすべての、どのような部屋であってもそれだけの広さに対応しているという意味ではなく、一戸建てであるか、鉄筋のマンションであるか、などによって変わるんです」
「まぁ、そうなの?」
頬に手をあてる婦人に頷き、取り付ける部屋の状態を聞き出して、最適と思われるものを紹介した。
「こちらの商品ですと、暖房性能もいいですし、省エネ性も高いのでおすすめですよ。フィルターの掃除もエアコン自身でやってくれるので、手間もかかりません」
「あら、賢いのねぇ」
素直に感心する老女の様子に、杳は笑って頷いた。
「それなら、これにするわ。取り付けもやっていただけるのかしら」
「もちろん、承ってます。予定が立て込んでいますので、少し日数ちょうだいしますが、よろしいでしょうか」
構わないわ、と了承する婦人を送り出し、店内に戻ると、意外そうな顔をした麻生が「やればできんじゃん」と上から目線で褒めてきた。
「なにがですか?」
「愛想。ちゃんと笑って相手できんじゃんと思ってさ」
先ほどの客とは、世間話らしきものもした。会話が弾んだかどうかはわからないが、気まずがっているような様子は見受けられなかったし、女性は最後まで機嫌よく笑っていたように思う。
「榊さんの愛想のよさがうつったのか?」
まさか、と杳は苦笑する。確かに彼は、いつも客と楽しそうに話しているけれど。
そういえば、雰囲気がやわらかくなったと、榊にも言われた。彼の影響を受けているのだろうかと考えていると、「ま、なんにせよ偉い偉い」と言って、麻生は乱暴に杳の頭をかき混ぜてきた。なにをするのだと慌ててその手から逃れ、乱れた髪を手櫛で直し、直しながら、榊にやられたときは、邪険にしなかったことを思い出す。硬直して、指先一本動かせなかった。
麻生も榊も、年上の男という点では同じだ。それなのになぜ、両者の間で異なる反応を示してしまったのか。気安さから言えば榊にこそ、やめろよ、なにすんだよ、と、邪険な態度を取りそうなものなのに。
不可解な自身の行動を何度も省みてみるが、ついに理由を探り当てることはできなかった。
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