第6話

 洋食屋の二階に居候してはじめて迎える休日、


「俺、今日出かけようと思うんだけど、杳くんも一緒に行かない?」


 差し向かいで朝食を摂りながら誘ってくる榊を、杳は胡乱に見やった。

 ここにいても気詰まりだからと、外で時間を潰すつもりでいた杳は、もしやその計画が見抜かれたのだろうかと怪しむが、彼はふしぎそうに瞬いたのち、


「予定入ってる?」


 小首を傾げられ、己のばかばかしい妄想に自分であきれて、杳は首を横にふり、男の申し出も断った。


「いい。俺、行かねぇ」


 残念だなぁと榊は落胆する様子を見せるが、彼といたくないから外出するつもりだったのに、その当人と共に出かけたのでは意味がない。


「それじゃ、いってきます」


 やがて、支度を終えた榊は、留守を預かることになった杳にひらりと手をふって、玄関を出て行く。彼の背を見送るのは、思えばはじめてのことだった。

 扉が閉ざされると室内はにわかにしんとし、それを意識したとたん、勝手に他人の家にあがりこんでいるような、えも言われぬ居心地の悪さが覆い被さってきて、まるで部屋そのものが意思を持ち、おまえは異物であると排除しにかかっているようだと、杳は足早に自室に引っ込み、これからの時間をここでどう過ごすべきか頭を悩ませた。

 梅雨明けも近い七月初旬の部屋は、まだ午前中だというのに既に暑く、涼を求めて窓を開けてはみるが、風は僅かも入ってこず、蒸し暑い部屋に、出かける直前に榊が言い置いていった、自分の部屋にあるエアコンをすきに使えという許可が頭を掠めるが、それに乗る気にはどうしてもなれず、小さく溜息をこぼす。

 留守を任された以上外出はできないし、なにより鍵を預かっていないのだから、そもそもどこへ行くこともできない。

 このままここで、家主が帰宅するまで時間を浪費しなければならないのか。畳の上に横になるが、思うより涼しくなくてがっかりする。

 深く息を吸い込むと、藺草のにおいが胸に満ちる。触れた畳は杳が暮らしていた部屋のそれのように毛羽立っておらず、さらりとしていて艶もいい。陽が高いからか、辺りは静かで、ときどき遠くを車の走る音が行き過ぎるくらいだった。

 自身の仕事を終えたのちに榊の店で立ち働いたことは、思うよりずっと身体に堪えていたらしく、深呼吸を繰り返すうちに少しずつ瞼が重たくなってくる。どうせ休日なのだし、もう少し惰眠を貪るのもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、さざ波のように意識をさらっていく眠気に、杳は身を委ねた。




 ただいま、という声が微かに聞こえて、杳はぼんやりと瞼を持ち上げた。榊が帰宅したのだと気付き、起きようと身じろぐと同時、頭がひどく痛んで顔をしかめた。おかしな姿勢で寝ていたせいかと思うが、気持ちが悪いのはどういうことだろう。


「どうした?」


 横になったままでいる杳を疑問に思ったのだろう、和室へと入ってきた榊が傍らに屈み、顔を覗き込んでくる。


「具合悪いの?」


 薄っぺらくて貧相な自分の手とは違う、大きくてごつごつとした男らしい手が額に触れるのに、思わず目を閉ざす。熱なんてない筈だが、そんなふうに扱われると、まるで病人になったような気がして落ち着かなかった。

 熱中症かな、と榊は呟いた。まさかそんなこと、と思うが、否定のことばを口にするのも億劫で、杳は緩慢に瞬く。


「ちょっとごめんね」


 断りを入れられたかと思うと身体を横抱きにされ、杳はぎょっと目を剥いた。


「ちょ、」

「すぐだから我慢して」


 さすがに声を上げるが、ぴしゃりと封じられてむぐりと口を閉じる。なんだよ偉そうに、という反抗的な思いが頭をもたげるが、頭痛と吐き気と熱中症ということばに不安を煽られて、ことばにすることはできなかった。いくらテレビのない生活を送っていたとはいえ、熱中症が命を奪う危険性を孕んでいることくらいは知っている。

 成人した男ひとりを抱えているにも関わらず、榊の足取りはまるで不安がなかった。となりの、彼自身の部屋へと向かい、ロータイプのベッドの上にそっと杳を横たえる。それからすぐにリモコンを操作すると、ややあってからエアコンから冷風が吐き出され、その涼しさに身体が弛緩する。


「はい、これ飲んで」


 一度傍を離れた男の手にはスポーツドリンクがあり、自力で起き上がるのも困難であった杳はそれを受け取ると、行儀が悪いと思いつつも横になったまま口に含む。タオルにくるまれた保冷材を首筋にあてがわれると、うっとりするほど気持ちがよかった。

 ドリンクを殆ど飲み干したところで漸く落ち着いたのを見て取ったのか、なにも言わずに面倒を見ていた榊が正面に腰を下ろし、「それで?」と軽く首を傾げた。


「なんでこんなことに? 暑かったら冷房つけていいって、俺言っといたよね」


 怒っているのだろうか。こちらがなにを言っても、どんな口を利こうと笑って楽しんでいるふうなのに、迷惑をかけたから。


「まだ本格的な夏じゃないけど、それでも熱中症になるんだよ」


 ぴしりと言われて、杳は怯む。

 そんなに怒ることないだろう、などと、いつもの憎まれ口を叩く気持ちは少しもわいてこなかった。ただ、どうしようという不安と焦燥に胸を掻かれながら、懸命にことばを探す。まっすぐで、嘘やごまかしを許さない視線に身を竦ませて、首筋にあてていたタオルを額へと移動させ、目元を隠し、


「……冷蔵庫が、開けられないんだ」


 凪いだ水面に、指先を触れさせるように告げた。


「冷蔵庫?」


 不審そうな声に、小さく頷く。


「子どもの頃に両親なくして、それから、親戚の家を転々として育って。どこでもだいじにして貰えたけど、今日からここがおまえの家だよ、とか、自由にしてね、って言われても、どうしてもそんなふうにできなくて」


 訥々と紡ぐ。こんな話を誰かにするのははじめてで、どんなふうに説明したらいいのかわからない。けれど、黙ってしまったらそこで話は終わりと見做され、榊がどこかへ行ってしまうのではないかと思うとことばをとぎらせることができなくて、考えがまとまらないまま、浮かぶに任せて続けた。


「リビングとか、どこに座ったらいいかわからなくて、風呂も、その時間以外に使うなんてむりだし、夜に、冷房かけたまま寝るとか、嘘だろって感じで」


 傍らの男は黙したままで、いつもみたいに茶化してこないから、聞いているのかいないのかわからないほど静かだから、杳はとりとめのない吐露を止めることができない。


「俺の家だけど、俺の家じゃないって、いつもどこかにそういう意識があって」


 それは遠慮と言うよりも、もはや頑なと表現した方が正しいかもしれなかった。そうして、それがもたらした結果がこれだ。そう自覚すると、自分で作り上げた壁の一部が、ほろりと崩れるのを感じる。


「……だから、いいって言われてても、冷房つけられなかった」


 ごめん、と、殆どささやくように落とす。

 榊はきっと、あきれたに違いない。そんなことで熱中症になりかけていたのかと、ますます腹を立てるだろう。身を縮めるようにして相手の反応を待っていると、ふいに頭になにかが触れて、杳は目もとを覆い隠していたタオルを外してベッド脇の男をそろりと窺い見た。やわらかに杳の頭をなでる榊と目が合うと、彼は仄かに笑んで、


「そういうもんなんだ」

「え?」

「自由にしろ、すきにしろ、って、よかれと思って言ってたことが、逆に困らせてたとは思わなかった」

「厚意で言ってくれてんのは、わかるんだけど」


 慰めるように、二度、三度と榊の手のひらが頭の上を往復する。なでられることなど幼い頃以来で、子ども扱いされているようだと思うのに、ふしぎと腹は立たず、むしろ心地よさすら感じて、もっと触れてはくれないかと、身じろぎもせずそのやさしい感触を、じっと受け止める。どうやら怒ってもあきれてもいないらしいとわかって、自分でも意外なほどほっとした。


「それで前も、買ってきた夕飯を冷蔵庫に入れずにいたんだ」


 小さく肯定する。ことばにされるといかにもばかばかしいように思われて恥ずかしくなるが、ゆるやかに髪をなでる手付きは変わらなかった。


「事情はわかったけど、頼むから俺がいないときでも冷房だけは入れるようにしてね。朝は普通だったのに、なにがあったのかと思って肝が冷えたから」

「うん。ごめん」


 神妙に頷くと、この話はもう終わりだというように、榊が肩の辺りをあやすように叩いた。服越しに伝わる彼の温度はあたたかく、身体から力が抜ける。


「なにか欲しいものある? こないだのプリンでよければまだあるよ」


 今はいい、と断ってから、杳は少し笑った。


「なに?」


 たぶん、本調子ではないのが原因なのだと思う。迷惑をかけたこともあって、突っぱねることなく問われるままに口を開いた。


「……小さい頃、テレビ見てたら、子どもがプリンに名前書いてるシーンが流れてさ」

「名前?」


 天井を見上げ、先日思い出したばかりの記憶を再び取り出す。


「兄弟の多い家で、おやつの取り合いにならないように、プリンとか、ゼリーとかヨーグルトとかの蓋に、それぞれの名前書くのがルールだったんだ」


 ああ、と榊は微笑ましそうに笑った。

 ドラマだったような気がするが、ひょっとしたらドキュメンタリーの類だったかもしれない。そのシーンだけが妙に鮮明に、杳の中に焼き付いていた。

 宙を見つめたまま、「俺、それがちょっと羨ましくて」とそっと呟く。


「冷蔵庫っていう私的な空間の中に、自分だけのものが入ってるのって、どんな気分なのかなって、想像してみたり」


 言ってしまってから、あまりにも幼稚だったろうかと恥ずかしくなったが、「そう」と打たれた短い相槌の声はおだやかでやさしく、揶揄や嘲りの色はどこにもなかった。

 羨ましいというよりも憧れと表現した方が、より心情に近いかもしれなかった。杳には兄弟がいないので、両親が健在だった頃にもそんなことをした経験はなかったし、親戚の家にいるときは言わずもがなだ。

 ふ、と息をついた杳に、


「そのまま少し寝るといいよ」

「けど、ベッド」


 さすがに占領するのは悪いと思ったのだが、いいから、と押し留められる。


「どうせ今は使わないし。あ、添い寝してあげようか。それとも子守唄がいい?」

「どっちもいらねー」


 いいことを思い付いたというような顔での提案を即座に断ると、榊は楽しげに笑ってしゃきしゃきと立ち上がり、居間にいるから、と言い置いて部屋を出て行く、もうすっかり普段どおりの男に、いいひとだな、とぽつりと思う。彼の冗談に腹が立つときもあるが、こちらの気後れや気まずさを、こぼした水を拭うように、さっと取り去ってしまう陽気さには正直助けられている。

 もぞもぞと身じろぎながら、余裕がなくてまるで見ていなかった周囲をそろりと見回してみると、テレビと書架、それからデスクが目に入る。ペンスタンドからは色鉛筆がにょきにょきと顔を出していて、店のメニュー表のイラストは、榊の手によりこの場で生み出されたのだろうかと想像する。

 本棚にはレシピ本が並んでおり、一緒に小説や漫画、それからDVDも収められていたが、拘らない性格なのか、巻数は順番どおりでなく、てんでばらばらに並んでいるのがおかしくて、杳は少し笑った。

 榊のベッドは知らないにおいに満ちていた。吸い込むと肺の奥がうずうずするようで、それをいっぱいに抱えながら瞼を下ろす。冷房の稼動音と、居間から届く微かな物音に耳をすませるうち、杳はいつしか眠りに就いていた。




 目覚めると気分はすっかりよくなっていた。昼のひかりが射し込んでいた筈の室内は仄暗くかげっており、タオルに包まれた保冷材もすっかり溶けている。榊は夕食のしたくを始めているらしく、部屋の中にまでいいにおいが滑り込んでいた。今夜はどうやらカレーらしい。

 リビングに向かうと、コンロの前に立った男が「気分はどう?」と尋ねてきた。


「もう平気」

「そりゃよかった。ならさ、そこの紙袋開けてみてよ」


 示されたローテーブルの脇には、店のロゴが入った白い紙袋が置かれており、言われるまま開封すると、中からはジーンズとシャツが数枚出てくる。派手ではないが、遊び心のあるデザインのシャツを手に「これは?」と顔をあげると、榊はいたずらを仕掛けた子どものような笑みを湛えながら、「杳くんのだよ」と信じがたいことを言った。


「は?」

「店を手伝ってくれてるお礼。ほんとは杳くんに選んで貰うつもりだったんだけど、ふられちゃったから、俺チョイスになりました」

「いや、」


 問題はそこじゃないだろう。


「プリン以外の報酬はまた今度って言ったろ?」

「そうだけど、でも」


 杳は狼狽しながら手の中のシャツを見下ろす。たかだか数時間の労働の対価にしては過分だと思われたが、火事でろくに服を持ち出せなかった為、新たなそれが増えるのは助かることでもあった。

 もしかして、こちらの手持ちの着替えが少ないのを見て取って、礼と称して買い与えることにしたのだろうか。いや、さして親しい間柄でもないのに彼が自分にそんなことをする理由はない筈だ。


「なんで、こんなこと」


 殆どひとりごとめいた呟きを、けれど榊は聞き漏らさなかったらしかった。


「感謝してるんだよ。いつも疲れてるだろうに、なにも言わずに手伝ってくれて。おまけにすごい優秀だし、助かるやら感激するやらで、俺、いつも陰で涙拭ってるもん」


 嘘つくんじゃねぇよ、と思ったけれど、調理の手を止めて歩み寄ってきた男に手を取られ、心臓が胸の内で強く打った。火の傍にいたからか、榊の手はひどくあたたかく、冷房の効いた部屋にいた杳には熱っぽくすら感じた。

 下から覗き込むようにして「ほんとだよ」と念を押す男のきまじめな表情に、軽く身を引いて目をしばたたかせながら顎を引く。ここまでのことをして貰っておいてなにも言わずにすませることなどできず、シャツを見下ろして、


「……ありがとう」


 覚えたての異国語でも発音するようなぎこちなさで、礼を紡ぐ。またなにか、揶揄されるかと身構えていたけれど、榊は整った面にぱっと明るい笑みを広げ、どういたしましてと丁寧な返事をよこした。

 自室に戻り、多くない荷物の入ったスポーツバッグの前にしゃがみ込む。いつもふざけた発言ばかりしているくせに、いきなりこんなことをされて、ひどく調子が狂った。

 胸の中に抱えた真新しい衣類からは独特のにおいがのぼり、胸の奥がそわそわと疼く。たぶん自分は今、嬉しいのだろう。小学生の頃、学年があがると配布された、傷ひとつない教科書を前にしているような気持ちだった。

 それをうまく表にあらわすにはまだ素直さが足りなくて、せめてと杳は、贈られたシャツを丁寧に畳み直した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る