第5話

 夜は酔っ払いの声に悩まされ、朝は朝食のにおいで目が覚める、そんな不健全なのか健康的なのかよくわからない生活が始まって、三日が経過していた。榊のすすめで、夕食は彼が作り置いてくれた賄いを食べ、その後は自主的に店の手伝いをしている為、身体が慣れずに疲れる日が続いていたが、加えて杳を辟易させるのは、同居人である榊がなにかと杳に声をかけてくることだった。一緒にテレビを見ようとかコーヒーを飲もうとか、飽きもせず誘いにくるのだ。断ればしつこく食い下がってくることはないが、めんどくさいな、という気持ちは拭えない。


「どうよ、居候生活は。うまくいってる?」


 昼休憩中、向かいの席でざるそばをすすりながら問う麻生に、杳は咀嚼したおにぎりを嚥下してから「普通です」と答える。疲れるし、煩わしく感じる部分はあるが、口の悪さを受け入れられたことは杳をずいぶん楽にした。言いたいことを我慢しなくていいので、榊との会話はある意味気楽だった。


「普通ってなんだよ。問題ないんだろ?」

「はい、まぁ」

「なら順調でいいじゃねぇか」


 順調という表現は自身の心情と照らし合わせると適切な言い回しではなかったが、わざわざ訂正することもないだろうと、「そうですね」と頷いておく。

 問われるままに洋食屋での暮らしについて話すうち、彼の店の手伝いをしていることが発覚すると、麻生は片方の眉をあげて、「なんだ、俺の言ったとおりになってんじゃん」と言った。最初は冗談ではないと思っていた筈なのに、図らずもそういうことになっている。


「水島って働きもんなのな」


 感心ともあきれともつかない感想に、どうでしょう、と曖昧に首を傾げる。自身の心の安寧の為に手伝っているだけなので、働くことがすきであるかのような評価をされるのは微妙だった。


「メシはどうしてんの?」

「朝と夜、榊さんが用意してくれます」


 告げると、麻生は目を丸くして身を乗り出した。


「なんだよそれ、超いいじゃん。賄い付きの寮みたいで」

「そうかもしれませんね」


 繁盛店を切り盛りする男の料理は、凝ったものでなくても素人には出せない味をしている為、どれもおいしい。コンビニなどに頼りきりだった以前に比べれば、食生活は格段に改善された。それを思えば、少々構われるくらいがなんだという話だろう。おまけに、ごく短い実働時間であるにも関わらず、店を手伝ってくれているからと、滞在費はただにして貰っている。不満や文句など言える立場ではなかった。


「こりゃ、榊さんに礼のひとつもしなきゃだめなんじゃねぇの?」

「礼?」

「そ。惣菜とか菓子とかさ。なんか買って帰れば?」


 言われてみれば、麻生の提案は実にまっとうなものだった。そもそも、こういったことは世話になると決まったときに、きっちりとやっておくべきなのに、なぜ今までその考えに至らなかったのかと己の気の回らなさが悔やまれる。

 今更という気もするが、気付いたからにはやらないわけにもいかないだろうと、おにぎりの中身である鮭を見下ろしながら、なにを買おうか思考をめぐらせる。商店街の中には惣菜を扱う店があるが、プロの料理人相手に違う店のものを買って渡すというのも、なにやら嫌味っぽくて気が進まない。和風か中華であればいいという話でもなかった。ならば菓子だろうか。プリンがあったくらいだから、きっと甘いものはすきなのだろう。

 悩んだ結果、仕事を終えたのち、杳はすぐに洋食屋には戻らず、商店街の入口の方へ足を向けた。

 目的の品を手に戻ったときは、既にいつもであればとうに厨房で皿を洗っている時間で、なにかあったのかと尋ねられるのではと内心ひやひやしていたが、榊はとくに気にした様子もなく、杳はほっとしながら手伝いに入った。

 そうして閉店後、二階にあがってから、「あ、そうだ」と、さも今思い出したという顔で、杳は榊に紙袋を突き出す。


「これ、やる」

「なに? あ、たい焼き! 嬉しいなぁ。ここのたい焼きおいしいよね」


 丁寧に作られた餡が、頭から尻尾までぎっしりとつまったたい焼きは、遠方からわざわざ買いに訪れる客もいるほど有名で、杳が行ったときも店の前には客が並んでおり、それゆえに帰りが遅くなったのだ。


「べつに。賃貸情報誌買いに行ったら、目に付いたから」


 今更世話になっている礼というのも妙だろうし、なにより恥ずかしくて、周到にもコンビニにも立ち寄って雑誌を購入していた杳は、あくまでも、たまたま、気まぐれで買ったのだということを強調する。

 そんな杳を榊は上目遣いで見やり、「今日さ」と笑いたいのを我慢しているような声で切り出した。なんだか嫌な予感を覚える。


「麻生さん達が夕飯食べに来てくれたんだ」

「……え」

「杳くんがまだ帰ってないって言ったら、俺への礼の品を買いに行ってるんだろうって」


 ……あの、おしゃべりクソ野郎!

 相手にそれと気取られぬよう、さりげなく礼の品を渡す作戦が台無しであるどころか、すべてを知られているとも知らずに、たまたま目に付いたから、などと気まぐれを装っていた自分が恥ずかしくて、羞恥と屈辱に顔を赤らめながら胸中で麻生を罵倒する。


「杳くんって、実は面白い子だよね」

「面白くねぇよ!」

「あ、しかもこのたい焼き、すっごいいい小豆使ってる、店でいちばん高いやつじゃない?」

「っ、うるせぇ!」


 そんなところにまで気付かなくていいと喚く杳に榊は遠慮なく笑ってから、「コーヒーいれるから、一緒に食べよう」といつものように誘いをかけてきた。断りたかったが、突っぱねるのも拗ねているようでかっこ悪いかと、ふてくされながらも浅く顎を引くと、榊は嬉しげに目を細めて、トースターの中に二匹のたい焼きを入れた。

 よく冷えたアイスコーヒーと、皮がかりかりに焼かれたたい焼きは、不機嫌のただなかにあってもおいしかった。

 決まり悪くて榊とまともに目を合わせられない杳が、雑誌に視線を落とし、熱心に物件を探すふりをしていると、


「どこかいいのありそう?」

「どうかな」


 ざっと見た感じでは、杳の考えている条件と合致するものはないようだった。間取りが好ましくても家賃が高かったり、逆に家賃が手頃であっても、今度は職場からあまりにも離れていたりと、まさに帯に短し襷に長しという感じで、先ほどからもどかしい気分を味わっていた。


「ま、ゆっくり探したらいいよ。こっちはいくらいて貰っても構わないし」


 本心っぽく言っているが、口先だけだろうと、おざなりに頷いていると、「ほんとだよ」と念を押された。


「杳くんといるの、思ったよりずっと楽しいし」

「なんだよ、それ」


 雑誌から顔をあげ、怪訝に見やると、年上の男は猫の子どもでも見ているような顔で笑い、


「誰かがいる生活っていいね」

「…………」


 他人との生活に窮屈さしか覚えたことがなく、他人の生活を少なからず乱した自覚のある杳は、彼が自分のどこに楽しみを見出したのかわからず、困惑する。理由はわからないが、むりに持ち上げようとしているのではないか。

 なにもとくべつなことなどしていないのに、楽しいだなんて、そんな資質を真実自分が具えているなら、親戚の家を転々とするようなことにはなっていない筈だ。


「そういう嘘、いらねぇ」

「嘘じゃないって。シャイなきみの心をどうやって開かせようかって、毎日あれこれ試すのは楽しいよ」

「は? なんだよ、それ」

「俺の些細なひとことで、取り澄ました表情がくるくる変わるのとか、見ててすごく楽しい」


 ……それはつまり、からかいがいがあるとか、そういうことを言いたいのだろうか。

 悪趣味だ、と思いながら、やはり一日も早くここを出て行こうと、杳は猛然と雑誌を繰り始めた。

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