第4話

 携帯にセットした目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めたのは、慣れのせいか、それとも鼻腔をくすぐる香ばしいにおいのせいか、どちらとも判断つけかねたが、視界に映る見慣れぬ光景に、杳は一瞬自分がとこにいるのかわからず戸惑った。

 二度、三度と瞬くうちに自らの置かれた状況を思い出して跳ね起きると、急いで着替えをすませて台所に顔を出す。

 襖を開ける音にふり返った榊が、「おはよう」と笑ってみせたのに、杳もぼそりと挨拶を返す。

 洗面所を借りて顔を洗い、そろそろとした足取りで榊の傍に寄る。


「なにしてんの?」

「なにって、朝飯作ってるんだよ。食べるでしょ?」

「え、なんで?」

「なんでって、ひょっとして朝は食べない派? ちゃんと食った方がいいよ。頭も働かないし、力も出ないから」

「いや、そうじゃなくて、なんで俺の朝飯まで用意してるわけ?」

「だって各々で作るなんて不経済だし。一緒に住むんだから、飯も一緒に食おうよ」


 榊と差し向かいで食事を摂る図を想像し、杳はげんなりとする。けれど、食事を各自で用意するなんて不経済だという榊の言い分は尤もだし、完成間近の朝食を今になって「いらない」などと突っぱねるのもおとなげないような気がする。

 ふと視線をあげると、榊がなにかを面白がっているように口もとをゆるめている。


「なんだよ」


 訝ると、フライパンから手を離した彼は、すい、とがっしりとした男らしい手を伸べ、杳の頭を軽くかき混ぜた。もう久しく誰にもされていない、まるでなでるようなその仕草に、杳は驚きに身を固くするが、


「寝癖」


 指摘に、慌てて両手で頭頂部を押さえると、男は楽しげに吹き出す。


「いやぁ、ゆっくり休めたみたいでなによりだよ」


 それは、家主よりも遅く起き出した上に寝癖が付くほど寝こけていたことへのあてこすりだろうか。


「悪かったな」

「なんで怒るんだよ。よかったって話だろ」


 既に作り終えていたらしいスクランブルエッグの乗った皿に、こんがりと焼き色のついたソーセージを添えると、「さ、食べよう」と杳を食卓へと促した。

 榊の用意してくれた朝食はシンプルなものだったが、卵はふわふわとしていてやわらかく、塩の加減もちょうどよかった。ソーセージも香辛料が効いていて、味が濃く、おいしい。食べ慣れている筈の食パンもどうしてだか普段よりもうまく感じられ、なにか、とくべつな小麦でも使われているのだろうかと考える。杳がスーパーで買う、賞味期限ぎりぎりの、半額シールが貼られたものではなく、たとえば、パン屋で仕入れたとか。

 あたたかな朝食に、平素は食パンをかじるのがせいぜいである杳は、久しぶりに食べるできたてのそれに、ひそかに感動する。

 半分ほど平らげたところで、「水島くんは」と榊が口を開いた。


「下の名前はなんていうの?」

「杳だけど」

「いい名前だね。杳くん、って呼んでいい?」

「なんでだよ」

「ハルくんとかの方がいい? それとも杳ちゃんとか?」

「どっちも嫌に決まってんだろ! なんで名前で呼ぶのかって聞いてんだよ」

「だって、水島くん、なんて他人行儀じゃん」

「他人だろうが」


 いきなり下の名前で呼ばれたことに驚いた心臓が、胸の内側でばたばたと走っている。パーソナルスペースにいきなり踏み込まれたようで、ざわざわするような、落ち着かない気持ちになる。


「なら俺のことも、下の名前で呼んでいいよ」

「呼ばねぇよ。なんだよ、ならって。話繋がってねぇし。あんたの下の名前とか知らねぇし」

「大誠だよ。大誠くん、って呼んで」


 誰が呼ぶか、と、杳は付け合せのレタスをばりばりと噛み砕く。


「照れなくていいのに」

「照れてねぇ! だいたい九つも年上のくせして名前で呼ばれようなんて厚かましいんだよ」

「だって、年下の友達に名前で呼んで貰えたら、俺も若返るんじゃないかと思ってさぁ」


 昨日は自分なんてまだまだ若造だと言ってたじゃないか。それに友達になった覚えもないと思ったが、もはや突っ込むのもばからしく、男を睥睨するに留めるが、彼は気にした様子もなくにこにこと笑っている。なにを言ってもむだらしい。

 その後も榊はつまらないことを言って、杳はそれにつんけんと言い返し、囲んだ食卓は思いがけず賑やかなものになった。誰かとしゃべりながら摂る朝食は久しぶりで、こんなに疲れるものだったろうかと当時を思い返しながら仕事に向かおうとすると、榊に「いってらっしゃい」と送り出され、胸の奥にむず痒いものが走った。

 なんだこれ、と思いながら、家主になにも返さぬまま無言で家を出る。そわそわと落ち着かない気持ちで路地を抜け、空を見上げると、不可解なこちらの心情など知らぬげに、磨いたように明るい青が広がっていた。

 それに軽い苛立ちを覚え、眉間にしわを刻みながら、向かいの職場に向かった。




 洋食屋の裏口の前で、仕事を終えて帰宅した杳は、挨拶すべきか否か迷って立ち尽くしていた。いい歳をしてふざけたことばかり言う男に気を使うような真似をするのは業腹だったが、あれでも一応は家主だ。居候の身としては、最低限の礼儀は守るべきではないか。けれど営業中の店に顔を出してもいいものか。

 なんでこんなことで悩まなければならないのかと思いつつも無視できず、帰る前に仕入れた、夕飯の入った袋を片手にまごついていると、唐突に眼前の扉が開かれ、杳は飛び上がるようにして一歩後退した。


「なにやってんの?」


 顔を出した榊にふしぎそうに尋ねられ、どうやら扉の上部に取り付けられた擦りガラスに影が映り込んでいたらしいと気付き、不審者よろしくドアの前に突っ立っていたのを見られていたのだと知って羞恥に顔が熱くなる。


「おかえり」


 榊は気さくに笑って杳を迎えることばを述べると、あっさりと踵を返して厨房へと戻っていった。揶揄されるかと身構えていた杳は拍子抜けし、開かれた扉の前で少し立ち竦んでから、そろりと中を覗き込む。

 店の中は、うっとりするようないいにおいでいっぱいだった。もうもうと湯気が立ち昇り、油の弾ける音と食材を刻むリズミカルな包丁の音、それから客と店主の声が混じり合い、活気がある。繁盛していて結構なことだが、店にはスタッフらしき姿は見当たらなかった。

 二階にあがると、その喧騒はやや遠くなった。貸与された部屋に戻った杳は荷物を下ろしてから、ちょっと考えて再度階下へと向かう。


「あれ、どうした? なんかわかんないことあった? あ、ご飯食べにきたとか?」


 榊の問いに首を横にふり、杳は洗い物の溜まった流しの前に立つと、「スポンジ、これ使っていいの?」と店主に尋ねる。


「え、手伝ってくれるの?」

「まぁ」

「助かるけど、なんで?」


 忙しく立ち働く男の姿を目にしておきながら、二階でひとり、悠々と食事を摂る気になどなれないから、というのが本音であったけれど、捻くれたところのある杳はそのまま伝えることに抵抗を覚え、


「べつに、ただの気まぐれ」


 ごまかして、スポンジを泡立てた。ありがとね、という声に顔もあげず、暫く無心で食器を洗ってからそろりと榊を窺うと、彼は鉄製のフライパンを片手で操っているところだった。手前に引くと、中の具材がきれいに宙を舞う。重たい筈のそれを軽々と操る、まくられた袖口から覗く榊の腕にはしっかりと筋肉がついていて男らしく、なにか、見てはいけないものをうっかり目にしてしまったような気後れを覚えて、杳は急いで目を逸らした。

 皿を洗う傍ら、ホールの仕事にも回った。高校生の頃、ファミレスでバイトをしていた為、接客業務に大きな戸惑いはない。

 空いたテーブルを片付けていると、カウンター席に座る年配の客に声をかけられた。


「兄ちゃん、麻生電器店のひとだろ?」


 よくよく見てみれば、何度か自宅に配送もしたことのある男であると気付き、小さく頭を下げる。確か、村上といった筈だ。


「奇遇だねぇ。なに、転職でもしたの?」

「いえ、ちょっと、事情があって手伝ってるんです」

「村上さん、杳くんと知り合いだったんですか?」


 俎上から顔をあげた榊の問いに、村上はにこにこと頷いて答える。


「そうそう、前にパソコンを買ったときにね。あそこは取り付けもしてくれるから、俺みたいな年寄りは助かるんだよねぇ」


 個人経営の小さな電器店が生き残る為には、客のニーズにできるだけ応えていく必要があるとは、店長の言だ。そのぶん従業員の負担は増すが、そうしなければ大手の電器店にあっという間に競り負けて、店はひとたまりもなく潰れてしまうのだろう。


「あのときは助かったよ。ついでに部屋の電球も付け替えてくれたろ?」

「そう、でしたっけ」

「そうだよ。交換するのに難儀してるんだけどどうにかならないかって話したら、こだわりもなさそうに頷いて、取り替えてくれたじゃないか」


 正直あまりよく、覚えていない。電球の交換くらいどうということもないし、せっかく電器屋が来ているのだからと、ついでに頼む客は珍しくもなかった。


「へぇ、やさしいね、杳くん」


 からかっているのかと、むっとして榊を見るが、男は思いがけず柔和な表情をしていて、杳は鼻白んで目をしばたたかせた。


「そうそう、愛想はないんだけどな、なかなかいい兄ちゃんなんだよ」


 なぜだか我がことのように胸を張る村上に、


「普段そっけないひとの親切な一面見ると、ぐらりときますよねぇ」


 客ではなく、杳を見ながら榊は言う。なんだよぐらりとくるって、とどきりとしたが、


「おっ、ギャップ萌えってやつかい?」

「村上さん、若いなぁ。けどどっちかと言うと、ジャイアン効果の方が近いかな」


 ジャイアンかよ。と言うか、ジャイアンはそっけなくないだろ。

 内心で思い切りずっこける。迂闊にも胸を騒がせてしまったではないかと腹立たしく思うが、なぜむかついてしまうのか、そもそもなぜどきりとしてしまったのかは、自分でもよくわからなかった。




「いやー、ありがとね。ほんと助かったよ」


 店を閉め、二階へとあがりながらかけられた礼のことばに、


「なんでバイトいねぇの? 雇う余裕ないわけ?」


 どういたしましてと返せばすむ話なのに、うまく素直になれない杳はつい憎まれ口を叩く。


「つい最近までいたんだけどね。辞めちゃって、今は昼しかいないんだ」

「なら早く募集すれば。あんまりお客さん待たせるようだと、離れてくんじゃね」


 尊大に返して、貸与された部屋に入り、食べ損ねていた夕飯を腹に入れようと袋を漁ってすっかりぬるくなった冷やし中華を取り出していると、


「あれ、冷蔵庫にしまっとかなかったの?」


 リビングからその様子を見ていた榊に問われ、杳は一瞬ぎくりとするが、すぐになんでもないような顔で頷いた。


「て言うか夕飯まだ食べてなかったんだ」

「あのときはまだ、腹減ってなかったし」


 自身の空腹を満たすよりも階下を気にかけたのだと思われたくなくて、嘘をつく。

 常温になった冷麺はまるでおいしくなかった。一緒に購入したペットボトルの茶もぬるく、疲れた身体がよけいに重くなる。


「お茶買ったの? うちにもあるのに」

「緑茶が飲みたかったんだよ」


 噛み付くように返し、それ以上の質問を拒むべく、食事に集中するふりをする。黙ってしまった榊に安堵していると、


「はい、これどうぞ」


 傍らからにゅっと手が伸びてきて、ローテーブルの上にプリンとスプーンが置かれた。


「なにこれ」

「今日のお礼」


 労働の報酬がプリンかよ、とか、甘いものはすきじゃない、とか、かわいげのない返しを胸中であれこれとこぼす。三つでひとパックになった、安価でチープなそれに、ふいに子どもの頃の記憶が底の方から浮き上がってきて、杳は瞬いた。ささやかで、どうということもない一瞬の映像だ。

 無言でプリンを見つめる杳に、「安い礼だなって思った?」と榊はいたずらっぽく笑い、


「今日のところはとりあえずそれで手を打ってよ。残りの報酬はまた後日にでも」

「いらねぇよ。礼とかべつに、そんなの貰う為に手ぇ貸したわけじゃないし」

「わかってるよ。俺がひとりでてんてこまいになってるのを見かねて、助けてくれたんだよね」


 誤ってはいないが、本人から指摘されると肯定しにくいものがあり、答えあぐねていると、


「冷蔵庫にアイスコーヒーあるから、よかったらどうぞ」


 言い置いて、榊は風呂へと消えてしまった。

 手元に残された、特徴的な形のカップを見つめ、アルミ製のふたをぺりぺりと剥がし、黄色い表面にそっと匙を入れる。すくって口に入れると、ふるふるとしたやわらかなそれは舌の上に甘くひろがって、なつかしい気持ちになる。

 底に沈められたカラメルはほろ苦く、コーヒーが合いそうだと思ったけれど、結局冷蔵庫を一瞥しただけで、榊の勧めに従うことはできなかった。


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