第3話
就業後、杳は荷物を手に暫く時間を潰したのち、頃合を見計らって榊のもとに顔を出した。店の扉を開けると、店内には客の姿はなく、調理場となっているカウンターの向こう側にいた榊が顔を上げ、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「よかった。来ないのかと思った」
はじめて足を踏み入れるキッチンさかきは、カウンター席とテーブル席が三つの、小ぢんまりとした店だった。料理をしていた名残なのか、それとももはや店内に染み付いているのか、なんとなくいいにおいが漂っている。
歓迎の印に夕飯をごちそうするから、と、朝、電器店を去る前に榊に言われていたが、仕事を終えたその足ですぐに向かいへと行く気にはなれず、ラストオーダー直前までぶらぶらしていたのだ。
どうぞ、と促されるままカウンター席に座ると、あてもなく徘徊したツケがどっと圧しかかってくるように足腰を重くした。
水と共に差し出されたメニュー表は、手書きの文字に、色鉛筆で彩色されたイラストが添えられており、素朴でぬくもりがあった。おまけに、どの料理もやたらとおいしそうに見え、ついじっくりと見入ってしまう。
「なに食べる? いっちょ、この店でいちばん高いビーフシチューとかにしちゃう?」
「俺、クリームシチュー派なんで」
ごちそうしてあげるなどと言われたことがない杳は、そわそわと落ち着かず、つい捻くれた返事をしてしまい、ひやりとするが、榊は「そうきたか」とおかしげに笑うだけだった。
べつにビーフシチューが嫌いなわけではなかった。単に、食べたことがないのだ。だから食べられるかどうか、判断できない。
「ならハンバーグとか? クリームコロッケなんかもおすすめだから、ミックスフライって手もあるよ」
クリームコロッケもまた、食べたことがない。ハンバーグはすきだが、ナイフとフォークをうまく扱える自信がなかった。
「オムライス」
「ひょっとして遠慮してる?」
この店でオムライスの価格は、それほど高く設定されていない。けれどべつにそれを考慮したわけではなく、単に食べられそうなものを選んだだけに過ぎなかった。
「してません。オムライス」
「かしこまりました。少々お待ちください」
つっけんどんな態度に気を悪くすることなくおどけて返すと、榊はさっそく調理に取りかかった。
さすがと言うか当然と言うか、榊の手際に迷いはなく、つい見惚れてしまうほどだった。鮮やかに野菜を刻みながら口を開く余裕すらあるようで、
「こんな時間までどうしてたの?」
「駅前をぶらついてました」
「荷物持ったまま? よく補導されなかったね」
おい待て、なんだ今のせりふ。聞き捨てならないことばが混じってたぞ。
榊の手元から顔へと視線を向け、
「補導って、あんた俺のこといくつだと思ってるんですか?」
「えー? 十八」
「二十歳だよ!」
思わず声を荒げると、
「えっ、うっそ、成人してんの? 見えねー」
伸び悩む身長をひそかに気に病んでいた杳は、苛立ちにこめかみを引き攣らせる。
「そういうあんたはいくつなんだよ」
「いくつに見える?」
「そういう返し、まじうぜー」
ひと差し指を頬に当て、小首を傾げる榊をぶった切ると、彼はちょっと面白がっているような顔をして、
「二十九だよ」
「は?! まじで? なんだよ、おっさんじゃん」
「なに言ってんの。二十九なんて、まだまだ若造だよ」
わかってないな、とでも言うように首をふり、男はフライパンに溶き卵を流し入れる。
よもや九つも年上だとは思ってもみなかった。けれど、考えてみれば彼はこうして自分の店を持っているのだから、それなりの年齢でおかしくはないのかと考える杳の鼻先に、香ばしいにおいが触れていく。
「はい、お待たせ。オムライスです」
供されたオムライスは、卵でご飯をくるんだ家庭的なものだった。かけられたトマトソースからは酸味のある香りが立ちのぼり、鼻腔と胃を刺激する。
「これは?」
オムライスの傍らに、揚げ物がひとつ、添えられているのに首を傾げると、榊はいたずらっぽい笑みを浮かべ、
「おまけだよ。クリームコロッケ」
これまで受けたことのないサービスを突然渡されて、どう返せばいいのかわからずまごつきながら、スプーンを手に取る。こんがりと揚げられたコロッケをおそるおそる割ってみると、さっくりとした薄い衣は容易く割れ、中からほわほわと湯気を立てるクリームがとろりとあふれ出た。それをすくってそろりと口に運び、杳は目を瞠る。やけどしそうに熱い真っ白なクリームはしっとりと滑らかで、微かに牛乳のにおいがする。クリームコロッケとは、シチューやグラタンのようなものを成形して揚げたものなのかと想像していたが、そのどちらとも違っていた。なんだか悔しいが、とてもおいしい。
どこにも破れ目などない、お手本のようにうつくしいオムライスも、卵の外側はしっとりし、内側はやや半熟でチキンライスとよく絡む。自家製らしいトマトソースも、これまで食べたことがないほどおいしく、殆ど夢中になって杳はスプーンを動かした。
気が付けば完食しており、顔をあげると、にこにこと笑っている榊と思い切り目が合って、杳は狼狽する。
「気に入って貰えたみたいでよかった」
「べつに、そんなこと言ってねぇし」
「完食しといてよく言うよ」
軽やかな笑い声の中に揶揄は含まれていなかったが、指摘に杳は顔を赤らめる。皿の上には米粒ひとつ、残っていなかった。
「腹が減ってたんだよ」
言外におまえの料理が気に入ったからではないと含めるが、
「そんなにお腹空いてたんなら、こんなぎりぎりじゃなくて、もっと早く来たらよかったのに」
尤もな反論をされ、ぐっと押し黙る。
「それにしても、水島くんって案外口が悪いんだね」
「は?」
「さっきから口調が崩れてるの、気付いてる?」
言われてはじめて、もはや素の状態で話していたことに気付いて青褪める。なりゆきで彼のもとに居候することになったとはいえ、親しい間柄ではないし、なにより榊は客だ。店にクレームがきたらどうしよう。
「す、すみません」
「なんで謝るの? 面白いからそのままでいてよ」
「……面白い?」
「うん。白けた感じでそっけなくされるより、ずっといい」
つまり、それまでの自分は彼に対して白けていてそっけなかったと言いたいのか。そのとおりだが、あてこすられると微妙に腹が立つ。
「もっと冷静なタイプかと思ってたけど、結構短気でがさつな口調だったなんて、新しい発見だなぁ」
「けんか売ってんの?」
「まさか。楽しんではいるけどね」
おい。
「ま、ともかく、家でも敬語使われると俺も肩凝るし、そのままで頼むよ」
九つも年下の、身内でもなんでもない相手にタメ口をきかれて不快がりもしないなんて、おかしなやつだと思う。
店を閉め、榊に先導されて店の勝手口をくぐると、路地に出た。正面には雑居ビルが建ち、壁面に取り付けられた看板が、営業中であることを主張するように、青や紫のひかりを夜の中に投げかけていた。道の奥にも店があり、軒先にぶらさがる赤い提灯や看板の名から、いずれも居酒屋の類であることがわかり、この辺りは夜行性らしいと、杳ははじめて知る。洋食屋の壁伝いに店の裏手に回ると、店で出たごみを捨てる為だろうポリバケツと、それから狭くて急な階段があった。そこをのぼった先にある二階は、雑然としていて、ひとが住んでいるという確かな気配と知らないにおいに満ちていた。
玄関を入った左手がキッチンになったダイニングになっており、左の壁際にセパレートになった風呂とトイレがあることを教えられる。奥に並ぶふたつの部屋のうち、向かって右が榊の部屋で、杳には左側が提供された。
「狭いけど、どうぞ」
言いながら、窓を開けるべく部屋の中へと踏み込む男に続いてそろりと顔を覗かせると、六畳の和室に迎えられる。片隅に、今は用のない電気ストーブがじっとうずくまっているだけの、さっぱりとした部屋だった。
「テレビは俺の部屋にしかないんだけど……」
「べつにいい。どうせ、もともと持ってないし」
口にした傍からしまったと思うが、榊は、おや、という顔を一瞬覗かせただけで深く尋ねてはこなかった。干渉しない主義なのか、そもそも興味がないのかはわからないが、どちらにしろありがたいことだ。
「家のものは、なんでもすきに使ってくれていいから」
杳は頷くが、それを実践することはないだろうなと内心でこぼす。榊とて、今度こそ社交辞令のつもりで言ったに違いない。
貸し出された寝具に横になる頃、緊張しているのか、疲れている筈なのに寝付けず杳は暗闇に目を凝らす。
車の行き交う音は遠いが、周囲には飲み屋が多いせいか、時折声量の調節を忘れたような話し声が届く。楽しそうなものもあれば怒っているようなものもあり、天井から下がる電灯の形、窓の位置、それからにおい、すべてがこれまでとは異なって、杳は落ち着かない思いで寝返りを打った。
助かったけれど、なんだか妙なことになったな、と、視線の先で青白く浮かんでいる壁紙を見つめながら思う。
ろくに知らない相手と生活を共にするなんてことが、はたして自分にできるのだろうか。身内とだって、ぎこちなくしか暮らせなかったのに。
測りかねる榊との距離感に、小さく溜息をつく。隣室からはなんの音も聞こえてこず、男は既に寝入っているのかもしれないと思った。明日も仕事だ。早く自分も寝たいと思うのに、通りを行き過ぎる、酔漢の大音量の歌声に顔をしかめて薄い夏用の布団に潜り込む。
けれどその程度では完全に防音などできず、耳も塞いだ。今日がたまたまうるさいだけなのだろうか。それともこんなのは、日常茶飯事なのか。女性のけたたましい笑い声が重なり、来たばかりだというのに、早くも出て行きたくなって杳は布団の中で身体を丸める。
新しい部屋を見付けよう。条件に見合う物件を探し出し、一日でも早くこの家を出よう。すべてを自分の自由にできる安息の場へと思いを馳せ、耳を塞いだまま杳は目を閉じた。
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