第2話

 杳の勤務する電器店がある商店街は、いつ舗装されたのか路面はがたがたと歪で全体的に古びていたが、拘りを持たなければここで衣食住のすべてがそろうほど、生活に必要なものが集まっていた。昼間はそれなりにひと通りもあり、そこそこの賑わいをみせている。

 そんな場所も、陽が落ちれば昼間とは違う顔を覗かせる。肩を寄せ合うようにして建つ店の大半はシャッターを下ろし、とっぷりと暮れた空の下で、街灯のオレンジがぼぅっと浮かんでいた。

 夕飯の弁当が入ったビニール袋をぶら下げて、がらんとした商店街を歩く。

 仄暗くて静かな通りをひとり歩くことが、杳は嫌いではなかった。

 等間隔に並ぶ橙の灯、どこからか流れてくる夕餉の香、自宅までの距離、その道程。

 昨日もその前も、明日もその先も、きっとずっと変わらないであろう日常を、杳はさびしいともむなしいとも思わなかった。きっと自分はこのままときを重ね、ただただ埋もれていくのだろうなと、無感動に想像するばかりだ。

 薄墨を流したような空に、申し訳なさそうにかかるか細い三日月に見下ろされながら、商店街を抜けた先にある住宅地に入る。行き過ぎる家々にあかりはともっているが、どこも静かで、いずれかの民家の庭先にでも居を構えているのか、蛙がぎろぎろと鳴く声がやけに響いて聞こえた。

 ゆるやかな坂の上に建つ古びたコーポは、周囲の街灯の少なさもあってか、暗がりの中に佇立する様はひっそりとしていて陰気だった。

 薄汚れたいかにもくたびれた外観と、駅やコンビニからも遠い不便な立地もあってか、住人はごく少なく、入居者募集と書かれた看板も色褪せ、錆びて久しい。

 家の扉を開けると、ぽかんとした闇に出迎えられた。就職を機に手にした、自分だけの居場所。誰もいない、こそとも言わぬ暗がりは杳を安堵させ、ほっと息をつく。

 キッチンと兼用の狭い通路を抜けた先にある和室に入り、行き場をなくして室内にうずくまったままでいた空気を逃そうと窓を開けてみるが、風はなく、内も外もむわむわと澱んだような熱が絡み合うだけだった。

 室外機を置くスペースがないから、というのもあるが、どうせ日中は家にいないのだからと、冷暖房の設備の一切が部屋にはなかった。それどころか、ここにはテレビやパソコンといった娯楽のひとつも置いていない。

 テーブルとカラーボックスがあるばかりの、面白味のかけらもない小さな、けれど自分だけの部屋。自由にふるまうことが許される、唯一の。

 台所へ向かい、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。それ以外にはろくに食材も入っていないちっぽけな冷たい箱は、オレンジ色のひかりと共にひんやりとした冷気を吐き出した。足もとがすぅっと冷えるのが心地いい。

 その冷たさと、すべてをすきにしていいのだという自由に、杳は深い安堵を覚える。




 幼い頃に両親を事故でうしなった杳は、親戚の家を転々としながら育った。それはつまるところたらい回しというやつであったけれど、だからといって疎まれていたわけではなく、どの家でも子どもがいればその子と同じように育てられたし、いない家ではかわいがって貰ったので、杳は自身の境遇を不幸だ不遇だと嘆いたことはない。

 けれどどの家も、そのときの杳の帰る場所ではあったけれど、けして親しみ深い、くつろげる場所ではありえなかった。

 そんなふうに考えていることが知られたら、これまで面倒を見てくれたひと達は気を悪くするかもしれないが、それが偽りのない杳の本心だった。

 今日からここがあなたの家よ。自由にしていいんだぞ。

 純然たる厚意からのことばだと理解していても、杳はいつも、それに応えてふるまうことができなかった。

 通されたリビングで座るように促されても、果たしてどこに腰を下ろせばいいのかわからず、自室を与えられても子どもらしく喜ぶことなどできなくて、恐縮を通り越して困惑を覚えてばかりいた。

 扱いづらい子どもだっただろうなと、ふり返って杳は思う。おとなしく、手はかからないが、なにを考えているのかわからない、およそ子どもらしいところのない子ども。

 だからなのか、ひとつの家にあまり長く留まることはなかった。生来おとなしく、無口な気質である杳に無邪気さや天真爛漫さを装う芸当などできず、お互いに打ち解け合うことのないまま新たな家へと移り住むのが常だった。

 現在の勤め先である電器店への就職が決まり、自分だけの城を手に入れたときの喜びは深甚だった。

 最寄り駅から徒歩二十分、近所にコンビニはなく、明かりにも乏しいせいで夜は男でもひとり歩きを躊躇するほどに暗い、そんな場所に建つ老いたコーポであっても、これからはすきなときに風呂を使えるし、帰宅が何時になろうと食事をどうしようとすべてが自由なのだと思うと、なにか、ずっと足や腰に幾重にも巻き付いていた、目には見えない拘束が一気に取り払われたような解放感があった。

 なにもないけれど満たされている今の生活を、杳は気に入っていた。




 真夜中。ふいに目が覚めて狭い部屋の低い天井を見つめていると、外がいやに騒がしいことに気が付いた。睡郷から連れ戻されたのはこれのせいかと、いったいなんの騒ぎだと眉間にしわを寄せて布団に潜り込もうかと思っていると、嗅覚がなにかが焦げるようなにおいを拾って杳は動きを止めた。枕元に置いていた携帯で時刻を確認すれば、深夜二時を回っている。料理をするような時間ではない。いや、べつにしたって構わないのだけれど、これは調理の失敗によるにおいではないと内側の誰かが告げていた。


「火事だ!」

「消防車呼べ!」


 外から飛び込んできた怒号に、ばちりと回線が繋がったように目と頭が覚醒した。跳ね起き、足元から頭のてっぺんまで冷たいものが一瞬で駆け上がっていくのを感じながら、杳は立ち上がり、まろびそうになりつつ玄関へと向かった。外へと転がり出て、コーポの敷地外へと走る。

 燃えているのは斜め上の部屋であることを確認し、杳はぞっとなった。火そのものの勢いは思っていたほどなかったが、それでももはやバケツの水や消火器程度ではどうにもならない炎の姿というのはおそろしい。同じコーポに住むひとなのだろう、どこからか集まってきた野次馬達も、皆ぼうぜんと見ていることしかできなかった。

 遠くの方から、耳にした者を不安にさせるサイレンの音が聞こえてくる。喘ぐようにして吸い込んだ空気はきな臭さをまとい、夜をいたぶるように舐める赤を目の当たりにしているにも関わらず、嘘だろ、という思考に頭の中は埋め尽くされていた。漸く手に入れた安息の場がうしなわれる現実を受け止めかねているように、頭はまるで働かなかった。




 火事の原因は住人の煙草の不始末によるものだった。消防隊による容赦のない放水は杳の部屋にも累を及ぼし、とてもではないが住める状態になく、取るものもとりあえず、半ば追い立てられるようにして部屋を出ることになった。

 泊めてくれる友人のあてなどなく、やむなくその日はカプセルホテルに身を寄せ、穴蔵のような寝床で朝を迎えた。

 短い睡眠時間と、ショックが抜けきらぬままの朦朧とした頭で出勤し、店を経営する麻生一家に、己の身の上に降りかかった奇禍を説明すると、彼らは一様にぎょっとして、


「大丈夫だったの?」

「けがはない?」


 店長とその息子、それぞれの妻から案じられ、こくりと頷く。

 麻生の配偶者である小春は、出産を控えた身でありながら、店の裏手にある彼らの家の用事もこなしつつ、ときおり店にも顔を出して客の相手をする、バイタリティにあふれた女性だ。

 数年間音沙汰のなかったひとり息子が、突然籍も入れていない妊婦を連れ帰って来たのだから、さぞ肩身の狭い思いをしているのではないかと思っていたが、うまくやっているらしく、小春は義理の母親と、こわいですね、などと話していた。


「昨日はどうしてたの?」


 店長の問いに、カプセルホテルに泊まったと伝えると、彼は頷いて、新たな住まいが見付かるまでは、勤務時間の融通を利かせると約束してくれた。


「それまでの間、うちに泊まって貰えたらよかったんだけどねぇ」


 禿頭をなであげながら言われるが、彼の家には今、息子夫婦も同居している。それでなくても、雇用者と勤務時間外も共に過ごすなんて御免被りたいので、むしろ身を寄せずにすんでよかったとすら思っていた。


「おまえ、こらからどうすんの?」


 開店して間もない頃はまだ客もおらず、手の空いた麻生に尋ねられた杳は、まだ決めていないことを告げた。当分カプセルホテルの世話になるかもしれず、貯金ががくりと減りそうで憂鬱だった。ネットカフェがあればいいのだが、生憎とその施設は近くにない。

 ふぅん、と気がなさそうな相槌を打つ麻生に、おまえが聞いてきたんだろうがと思っていると、店の自動ドアが開き、見覚えのある男が、なじみのない格好をして入店してきた。


「おはよう」


 榊は杳の姿を見付けると、ひらひらと手をふりながらにこやかに歩み寄ってきた。普段目にしているのはコックコートをまとった姿であるからか、Tシャツにジーンズというラフな私服だと知らない相手のように見える。


「おはようございます。今日はどうしたんですか?」


 顔なじみの来店に、麻生がふしぎそうに尋ねると、男は「部屋のエアコンを、そろそろ買い換えようかと思って、水島くんに見繕って貰う約束してたんです」

 説明に、得心したように麻生は頷くと、こちらへどうぞ、と榊を店の奥へと案内した。いっそこのまま麻生が担当してくれないかと思ったが、それを見抜いたかのようなタイミングで、「水島くんも、早く」と榊に手招かれ、やむなく彼らのあとについていった。

 店の突き当たりの壁には、数台のエアコンが陳列されている。洋食屋の店主はそれらをぐるりと見て、「どれがいいかな」と杳をふり返った。


「どこで使われるんですか?」

「どの部屋かってこと? 寝室だよ」

「暖房は使われますか?」

「暖房? いや、それは殆ど使わないかな」


 これから暑くなるという今時分に、なぜ暖房の話を持ち出されるのかわからないのだろう、ふしぎそうな顔で答える男に、エアコンの中には暖房の性能が弱い物もあるのだと説明する。それから部屋の広さや方角、求める機能の程度などを尋ねながら商品を絞っていき、最終的に中ランクのものに決まった。在庫が切れていたので、メーカーに注文し、商品が届き次第取り付けも行うことで話がまとまったところで、それまで殆ど口を挟まずにいた麻生が「そういえば榊さん」と話しかけた。


「昨日この辺で火事があったの知ってます?」

「火事? そうなの?」

「そうなんですよ。しかもそれ、水島の家だったんですよ」


 なぜか自慢げに暴露され、ぎょっとすると同時、苦々しい気持ちになる。こいつ、ひとの不幸を喜んでないか?


「え、まじで? 大丈夫だったの?」


 目を丸くする榊に、杳は軽く頷いた。


「平気です。俺の家って言っても、コーポですし。火元は斜め上の階だったし」

「斜め上って、超近所じゃん。こわっ、あっぶね。え、けがは?」


 思いがけず真面目な顔で案じられ、鼻白みながら首を横にふる。貴重品もぶじだったし、不幸中のさいわいというやつなのだろう。

 杳の返答に、榊はほっとした様子で肩の力を抜いた。ただの顔見知りが無傷だったことが、そんなに安堵をもたらすことなのだろうか。


「災難だったね。じゃあ、これからどうするの?」


 尋ねられて口ごもると、「まだ決まってないんだろ?」と、麻生が言った。助け舟のつもりなのかもしれないが、よけいなことを言うなという気分だった。


「なんだ。そんなことならうちに来る?」

「……は?」


 これ食べる? とでも言うような気軽さで切り出されたことばの意味が咄嗟にわからず、傍らの男を見上げて短く問い返すと、


「俺の家、あの店の二階なんだけど、部屋ならあまってるし」


 なに言ってんだ、このひと。


「よかったらおいでよ」


 社交辞令……だよな、と、困惑しながら自問する。ここで、「それじゃあお願いします」などと言おうものなら彼はたじろぐに違いなく、もしも真に受けたらどうするつもりなのかと、見舞いのことばだけで留めておけばいいのにと思いながら断ろうとすると、「いいんじゃね?」ととなりに立つ麻生が妙案だとばかりに乗ってきた。なにを言い出すんだと目を剥く杳に構わず、


「出勤も超楽になるじゃん」

「そうそう。文字どおり目と鼻の先ってやつになるよ」

「遅刻の心配もないし、少々残業になってもすぐに帰れますしね」

「疲れて帰宅したところに、おいしいご飯だって提供できるし」

「お帰りなさい、ご飯できてるよ。今日はあなたのすきなハンバーグにしてみたの、みたいな?」

「いいですね、なんか新婚家庭みたいで」


 親しいという話は聞いたことがないが、楽しげに言い合うふたりの間に、「いや、おかしいでしょう」と慌てて割って入る。


「なにが?」


 きょとんとする榊に、なにがじゃねぇよ、と胸の内で舌打ちする。


「あなたと俺、知り合いでもなんでもないですよね。それなのに、なんでうちに来いとか気軽に言えるんですか?」

「冷たいなぁ。知り合いではあるだろ」


 そんなことどうでもいいだろ。


「昼間はこうして仕事してるんだし、寝に帰るだけの場所に安くない料金支払うのももったいなくない? うちならべつにただでもいいし、気になるなら格安で貸すよ」

「……本気で言ってんの?」


 どうやら社交辞令ではないらしいと感じ取り、つい敬語も忘れて問うと、もちろんと大きく頷かれた。むしろ、今の今まで口先だけのものだと思っていたのかと驚かれてすらいるようで、決まりが悪くなる。

 榊の誘いは、神経質なところのある杳にはかなり魅力的だった。ホテルの、常に近くに不特定多数の人間がいるだろう環境に、自分が長期間耐えられるとも思えない。けれど、だからと言って榊の家に居候するというのも、すぐには頷きにくい。


「なに、悩んでんだよ」


 不可解そうな麻生は、榊の申し出に既に乗り気になっていた。なんでおまえが乗り気になってんだよ、と言いかけた口の端が微かに震える。


「ホテルに長期滞在なんてしたら、いくらカプセルったって、宿泊費もばかになんないだろ」


 それはそうなのだが。


「でも、やっぱり悪いですし」

「遠慮するような上等な家じゃないよ」


 榊はのどかに笑うが、遠慮しているというよりも、ホテルの滞在費と他人と生活を共にするストレスとを秤にかけて、どちらの方がよりマシかを決めかねているだけ、と言った方が正しい。


「あ、そうだ」


 なにかをひらめいた顔をして口を開く次期店主に、杳は嫌な予感を覚える。彼は先ほどから、ろくなことを言わない。


「そんなに気が引けるなら、おまえ、榊さんの店手伝ったらどうだ?」

「は?」

「昼はむりだけど、夜なら平気だろ?」


 だろ? じゃねぇよ。朝から晩まで俺に立ち仕事しろってのか。

 自分のアイディアのすばらしさに悦に入る男に、ストレス値がじわりとあがる。杳は我慢を知っているが、けして気が長い方でもなく、計測器の針は早くもレッドゾーンに差しかかっていた。


「いや、それはいいよ。水島くんが大変だから」


 榊が苦笑して案を却下した。助かったと安堵すると同時、わかってるじゃないか、と、不遜に思う。


「それで、どうする?」


 小首を傾げて榊に返答を求められ、迷うが、断ればまた麻生が騒ぎそうだと思うと面倒くさくなって、結局厚意を受け取ることにした。居候生活にむりを感じたら、すぐに出て行けばいいだけの話だろう。

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