愛は冷蔵庫の中に
砧たぬき
第1話
店内にディスプレイされた薄型のテレビではワイドショーが流されており、九州地方が梅雨明けしたと報じられていた。関東に本格的な夏が訪れるのはまだ少し先らしいが、こっちだってもう明けているのではないかと質したくなるほど、午前十一時の窓外は目映いほど明るい。
今年は猛暑になりそうです、と、痛ましさを滲ませながらもどこかひとごとのように予報するキャスターの声を聞きながら、水島杳は冷房機器の置かれたコーナーへと足を向ける。扇風機を吟味している三十代くらいの女性客が辺りを見回しているのに、なにか探しているのだろうかと声をかけると、彼女はたじろいだように何度か瞬いた。杳が声をかけると、とくに女性客はそのような反応を見せることがままある。たぶん、顔付きがこわいのだろうと、杳は解釈している。
殊更強面であるつもりはないが、目付きはあまりよくないし、薄い唇は大抵引き結んでいる上、愛想笑いを浮かべることもない。接客も仕事のうちなので、少しくらい口角をあげる努力をすべきなのだろうが、意図して笑っても少しも穏当に見えないことを、鏡に向かって笑ってみたことのある杳は知っている。
「扇風機のことを、聞きたいんですけど」
女性はこちらの様子を窺うように小さな声で切り出した。どの製品がどういいのかわからず、決めあぐねているらしい。
「寝るときに使いたいんですけど」
「それでしたら、こちらがおすすめです」
「わ、結構しますね」
杳が示した商品の値札を見て、思わずといったように女性が洩らす。扇風機とひと口に言っても値段はピンからキリまである。現に、そのとなりには安価な品があるのに、
「価格の違いはモーターの性能の差です。高いものの方が音が静かという特徴がありますので、就寝時にご利用になるときに向いています」
「そうなんですか。電気代は?」
「それは普通の扇風機と、正直それほど大きな差はありませんので、音が気にならなければ価格の安いものを選ばれてもいいかと思います」
淡々と説明すると、女性客は緊張した面持ちのままで、そうですか、と頷いた。
「最近の扇風機って、性能もかなりあがってるんですよ。風量も細かく設定できますし、いろいろ試してみてください」
横合いから挟まれた明るい声に視線を向けると、にこやかな笑みを湛えた茶髪の男が女性にリモコンを手渡すところだった。杳よりも五歳年上で、まだ二十代の半ばだが、彼は杳の務める麻生電器店の次期店主でもある。茶色く染められた髪はやや長く、軽薄なところがあるので、杳は彼のことをあまりよく思っていなかった。
「これは風が吹くタイミングをランダムに設定できて、自然に吹く風に近い感じにできるんですよ」
「へぇ、おもしろいですね」
杳にはなれなれしく思えてならない接客であったが、女性客は嫌がることなく、それどころかほっとしたような笑みすら覗かせて、麻生に言われるままぎこちない手付きでリモコンを操作し、やわらかな風を体験していた。
「結構よくないですか?」
「ほんと。風量の微弱っていうのも、ほんとに微弱でいいですね」
なにを言っているんだ、この女は、と聞いていた杳は思ったが、麻生は我が意を得たりといった調子で「そうなんですよ」と大きく頷いていた。
「中には風量を弱にしてても、ちょっと強めに感じるものがありますもんね」
「そうなんです。それにこれ、すっごく静かですね」
「でしょ? 人気あるんですよ、この商品」
女性客は麻生にすっかり気を許したように、あれこれと説明を求めたのち、少々値が張るが、細かな風量調節ができるものを購入し、配達の手続きをすませると満足した様子で帰っていった。
店先まで出てその背を見送っていると、向かいにある、古びた外観の店の前で掃除をしていた若い男が「こんにちは」と声をかけてきた。
電器店の向かいに店を構える洋食屋の若き店主は榊という。はじめて顔を合わせたときに自己紹介されたのでやむなくこちらも名乗り返したが、自宅のあるコーポの隣人の名すら把握していないというのに、勤務先の向かいにある店の店長の名を知っているというのも、考えてみればおかしな話だ。
キッチンさかきは、気取らない、身近な洋食を庶民的な価格で提供する店らしく、昼時には列ができていることもある繁盛店だ。麻生家の面々も贔屓にしているようで、競合店ではないこともあるからか、関係性は良好だった。
社交的なタイプではない杳は、男の朗らかな雰囲気が苦手で、にこにこと笑いながら歩み寄ってくる榊に、めんどくせぇな、と内心でひとりごちた。さりとて、ここで背を向けて立ち去るわけにもいかない。
「毎日暑いね」
これからの季節、誰の口の端にも挨拶のようにのぼるせりふを榊は口にするが、本心かどうか疑わしいと胡乱な目を向けてしまうほど、彼の笑みは爽やかで涼しげだった。
身長はすらりと高く、料理人らしく髪は短めに整えられていて清潔感があり、瞳はくっきりとした二重をしていて、右目の下にあるほくろが、男をどことなく色っぽくも見せている。小さな洋食屋のよりも、おしゃれなイタリアンの店で働いている方がよほど似合いそうな容姿だった。
「これから電器屋さんも忙しくなるんじゃない?」
「そうですね」
「いいもの買うなら今のうちかな」
「そうですね」
「俺んちのエアコンがそろそろ壊れそうなんだけど、どれがいいか、水島くん、選んでくれる?」
「そうですね」
わざとというわけではないが、同じ相槌ばかり打つのに、榊は気を悪くした様子もなく吹き出すと、なんかなつかしい返しだなぁと笑っていた。なにがそんなに楽しいんだか。
「そろそろ仕事に戻ります」
「あ、うん、引き止めてごめんね。近いうちに店に行くから」
会話を切り上げると、拘りもなく男は頷いて自身の店へと戻っていった。やれやれと肩の力が抜ける思いで杳もまた店内に戻ると、商品棚を整理していた麻生が、「おまえさ、もっと愛想よくできんわけ?」と、こちらに顔も向けずに苦言を呈してきた。
一瞬、榊とのやり取りを聞いていたのかと思った。けれど、ちらりとこちらに目を向け、杳がぴんときていないのを見て取ったのか、先ほどの女性客のことだと、補足する。
「あのひと、軽くびびってたぞ。おまえが無愛想だから、質問しようにもできなかったんだろ」
いい加減、営業スマイルくらいできるようになれよな、と命じると、麻生は見事な笑みをひらりと浮かべて、新たに入店してきた客のもとへと颯爽と歩いていった。
残された杳は、なにを偉そうに、と胸中でむっつりとこぼす。表情が豊かなタイプではないのは確かだが、客には丁寧に接しているつもりだ。ちらりと麻生の方を窺うと、彼は本当に愛想かと思うような笑みで相手の話に耳を傾けているところだった。客の方もそうした態度を取られれば悪い気はしないのか、興が乗ったように話している。自分には、とても客のあんな表情を引き出すことはできない。
麻生はこの電器店の次期店主であるが、現店主である彼の父のもとでずっと仕事に携わり続けていたわけではない。それどころか麻生は家業を厭っており、継ぐことを拒んで、高校卒業と同時に家を出て、つい最近までただの一度も帰省していなかったのだ。
それが昨年、お腹の大きな女性を伴ってひょっこり戻ってきたかと思うと、家を継ぐと言い出したのだ。たまたま居合わせた杳は、腰を九十度に曲げて謝罪し、次いでその場に膝をついて頭を下げた男の姿にぎょっとしたものだ。土下座なんてはじめて見た、という驚きと共に、そこまでして家に戻りたいのかよ、という、なにか、理解の及ばない奇妙なものを目の当たりにしたような気持ちも覚えた。
杳の雇い主でもある麻生の父親は、息子の行動にはじめこそ頭を痛めていたようだが、やはり我が子が帰って来たことは嬉しかったのだろう、今では跡継ぎとして頼りにしている面もあり、それを見るたび、杳はなんとなく、白けるような、冷めた気持ちにさせられた。
胸に広がるもやもやとした暗いものは、掴めないくせにずっしりと重たくて、杳を憂鬱にした。
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