第63話 妖霊星(えうれぼし)
㈠
「あの変な魚ども、頭上を旋回するだけで襲って来んのぉ。」
忠助が太鼓を打ち鳴らしながら言った。この男の太鼓は、興が乗ると自分でも止められない。それは辺りが怪異に覆われても一緒だった。
「おそらく、お主の太鼓に魔を退ける何かがあるんじゃろう。悪いがそのまま叩き続けてくれ。」
洞窟の中から次右衛門の声が響く、それに応じたのは半左衛門の方だった。
「次右衛門殿、なぜ出てこぬのじゃ。」
「今、この現象について古い記憶を探っておる。集中するためにしばらく中にとどまる。半左衛門よ、悪いがしばらく魔物を近づけんでくれ。」
「承知した。」
半左衛門は洞窟の前に立ち塞がり、遠巻きに取り囲む蟇蛙もどきや猪もどきなどの妖魔たちに向かって槍を構えた。
我が仲間ながら、頼もしき奴らよ。
次右衛門は洞窟の中で微笑むと、遠い昔、京の都で陰陽道の修行に明け暮れた若き頃に思いをはせた。
㈡
次右衛門が京都の陰陽寮を訪ねたのは、元服間もない若いころだ。そのころ、平安の御世に威勢盛んだった陰陽道は、仏教の修験の技に押され、すっかり落ちぶれはて、陰陽師を志すものは無く、その学び舎である陰陽寮も、屋根や壁は破れ、地虫やネズミの徘徊するあばら家と化していた。
玄関で呼ばわった若き次右衛門に対し、応対したよれよれの布衣を着た陰陽博士賀茂真備は、陰陽道を学ぶなど止めておけと言った。こんなもの学んでも身の栄達につながらず、貰う仕事と言えば、辻辻の占い師や拝み屋と変わらぬものばかり、日々の食い物にも困るありさまじゃ。悪いことは言わぬ、不思議の術を学びたければ修験道でも訪ねなされと。
陰陽道の長老の自虐ともいえる物言いに、次右衛門はきっぱりと言い切った。それでも構わぬ、陰陽道を学びたいと。何故じゃとの問いには、短くこう応じた。
「この世の理を知りたいのです。そのためには、古来からの教えである陰陽道も知る必要がある。」
「知ってなんとする?」
真備の問いに、次衛門は清々しく応じた。
「世を救う方法を探るためです。」
変わり者じゃと思いながら、入門を許した真備は、その日から舌を巻くようになる。次右衛門の読書と吸収力の速さは、並をはるかに凌駕していたのだ。通常、陰陽道は才有る者のみ身に着けることができるが、それでも平均十年の修行が必要だった。しかも古来から伝わる書物には難解なものが多く、陰陽師の長である自分ですら理解不能なものがあるのに、この若者はその内容をどんどん理解していき、術もどんどん覚えていった。
「こやつは天才、安倍晴明様の再来じゃ。」
次右衛門の天才ぶりを示す最たるものは、ふたつの呪を一度に使いこなせたことだ。史上、あまたの陰陽師がいたが、ふたつの呪を同時に使えたのは安倍晴明ただひとり。次右衛門の評判は都中に鳴り響き、降魔の依頼は、数十年ぶりに朝廷からも来るようになった。風水の術を好んで使う次右衛門を、都の人々は「風の陰陽師」と呼びもてはやした。陰陽師の志願者もぼつぼつと現れて、陰陽寮は活気を取り戻しつつあった。
あるとき、真備は古びた本を片手に、頭をぼりぼり掻きながら、寮の中を所在なく歩き回る次右衛門を見た。
「珍しいの、何事で悩んでおる。」
「この記述が、何が書いてあるのか分かりかねているのです。」
「どれ、おお、これは晴明殿ですら手こずったと言われる珍本じゃな。何でも異国の書を写したものじゃとか。」
書の題名は「根冥御魂」とある。作者は「或葉雑都」と次右衛門が知る限り、この名は明人でも朝鮮人でもなく何国の人かも分からない。この本が最も奇妙な所は、名詞と動詞の区別が判然とせず、名詞らしいものも何を指すのか全く分からない点だ。
「読んでいると頭が痛くなってくるじゃろう。わしも若い時に開いてみたが、意味を読み取ろうとすればするほど、かえって前後の脈絡が不明となり読み手を混乱さすこと極まりない。一説によると砂漠の国の狂人が書いた本じゃそうじゃが、なるほどと納得したくなるような不可解さじゃ。」
異界についてや、異界の知られざる神々について、またそれらを呼び出す呪法などが記されているだろうと言うのはうっすらと分かった。
「ここに折り目がついていますのは?」
終盤に近い部分の端が折られてあった。
「はて、最近は開く者もいなかったはずじゃが?」
首を捻っていた真備は、はたと膝を叩いた。
「あ奴じゃろう、それしか考えられん。」
十年ほど昔、次右衛門と同じようにひょっこり陰陽寮を訪ねた若い男があった。芦屋動天を名乗るその男は、陰陽道を身に着けたいと言う。真備は次右衛門に言ったのと同じように修験道を勧めた。しかし、動天は薄く笑うと「修験道ならもう極めた。」と言った。その横顔は、ぞっとするほど美しかった。
陰陽寮に入った動天は、次右衛門同様に書庫に入って本を読み漁った。ほとんどの本はぱらぱらとななめ読みする。本当に読んでいるかと試してみると、一字一句間違えずにそらんじて見せた。
「あ奴も天才よ、しかしお主とは異なり、どこか禍々しい気を引きずっているような男じゃった。」
ある日、退屈そうに書を読んでいた動天が、ある本を食い入るように眺めていた。一通り読みつくすと、いくつかの部分を懐紙に書き写していた。書きながらぶつぶつと独り言を言っている。それは確かこういう内容だった。
「やっとじゃ、やっと見つけたぞ。異界を呼び覚ます術の書かれた本を、暗黒神を降臨さす術を。」
真備は、ぞっとして急いでその場を離れた。その翌日、動天は忽然といなくなった。
次右衛門は折られた部分の内容を確認した。そこにはどうやら、現世に異界を召喚する方法が書かれているようだった。芦屋動天とかいう男、一体何をしようとしているのだと思った記憶がある。今から思えば、芦屋動天こそ若き日の覇王太夫に違いない。すると、この異界は覇王太夫が呼び出したものであろう。確か、あの本の最後の方に、異界を戻す方法が書かれていたかのように思う。思い出せ、それはどんな方法じゃ。
㈢
「ちょっと!五郎丸聞こえないの。止まりなさいよ!」
紫の炎に包まれながら歩き出した、大弥五郎鎧の周りを飛び回りながら、鈴が叫んでいる。先程からうるさいほどに呼びかけているが、何の反応も無い。
「きやっ!」
左手の一閃をかろうじて躱し、鈴は大弥五郎鎧に向かって文句を言った。
「ちょっと、危ないじゃないの。あの勢いで殴られたら怪我どころじゃすまないわよ!」
大弥五郎鎧は素知らぬ顔で、森に向かって歩いていく。確かこの辺りは…、鈴の勘が当たった。次右衛門の籠っている洞穴を取り囲むように数百の妖魔の姿があった。その前には半左衛門が佇立している。化け物たちは何かを恐れるように洞穴に近づかない。大弥五郎鎧が近づくと、まるで、より強いものに道を開ける獣のように左右に開いていく。
「おお大弥五郎鎧、五郎丸か!」
忠助が太鼓を叩きながら嬉しそうに叫ぶ。
「確かに大弥五郎鎧じゃが…。少し様子が違うようじゃ。」
その半左衛門の下に、半べそをかき乍ら鈴が走り寄って来た。
「助けて!五郎丸がどうかしちゃった!返事もしないし、何か変なの。」
半左衛門は大弥五郎鎧をじっと見て、鈴の頭をそっと撫でた。
「確かにな。これは昔肝付城で戦った、怨霊を宿した大弥五郎鎧の雰囲気にそっくりだ。人ですら闇に取り込まれる中、鎧も魔を宿したのか?どうじゃ次右衛門殿?」
次右衛門の返事は早かった。
「間違いあるまい。強烈な禍々しい空気が洞穴の中まで入ってきおるわ。鎧に魔が憑りついただけでなく、これは強大な妖じゃな。」
大弥五郎鎧は神鼓の響きに怯むことなく、ずんずんと洞穴に向かってくる。
「そんな!五郎丸はどうなったの?」
鈴が悲痛な金切り声を上げる。
「中に入ってみぬと分からぬが、おそらくあ奴も魔に取り込まれておろう。」
「どうすれば助けられる?」
冷静な次右衛門に、いらいらしたように鈴が尋ねた。
「残念じゃが、魔に取り込まれたものを助け出す方など無い。あ奴が罪を犯す前に、我らの手で命脈を絶ってやることこそ魂の救いとなる。」
鈴がかっとなった。
「五郎丸を殺すってこと!そんなことは私がさせない。五郎丸は私が助けて見せる!」
そう言っている間に、大弥五郎鎧は目前に迫った。立ち塞がる半左衛門目がけ、右手を振りかぶって頭上から叩き付ける。咄嗟に転がって躱した半左衛門は再び洞穴の前に立ち塞がった。
「変化!」
そう言って蜻蛉を切った鈴は、一匹の虻の姿となり横腹空気孔から大与五郎鎧の中に入って行った。
「鈴が上手く侵入したな。何とか五郎丸を助けてくれよ。」
油断なく槍を構えながら、半左衛門が呟く。
まさにその時だった。足元の地面がぐらりと揺れ、妖魔ですら体勢を崩して倒れていった。
「地震だ!こりゃ大きいぞ!」
忠助が柵にしがみつき乍ら叫ぶ。同時に、次右衛門の籠る洞穴がガラガラと音を立てて崩れ、入口は完全に潰れてしまった。
「次右衛門殿!」
「次右衛門さま!」
半左衛門や忠助が必死に呼ぶが、洞穴内から返事は返ってこなかった。
㈣
「おほほほ、酒呑童子よ、これがなんだか分かるかい?」
覇王太夫の首が上空で愉快そうに笑った。
「この地震はお主の仕業か?」
「そうと言えばそう、違うと言えば違う。」
「面倒な物言いだな。」
酒呑童子のこめかみに青筋が立った。
「まあそう短気を起こすな。これは異なる空間を無理やり重ねたことで起きる地震、時空震さ。二つの世界は、調和しようとして地震を繰り返す。やがて、ふたつの世界は完全に混ざり、現世でもなく異界でもない新しい世界が生まれるんだよ。」
「魔界と人界が共存するのか?」
覇王太夫はアハハと嗤った。
「そんな単純なものじゃない。新しい世界だと言ったろう。酒呑童子よ、お前でも想像もつかない世界さ。もちろん、あたしもね。そしてその世界を最終的にもたらすのは!」
覇王太夫は天を、血のように赤い太陽を仰ぎ見た。
「あの赤い日が何かなのか?」
「馬鹿だねえ、よく見てご覧、あれは太陽なんかじゃないよ。」
酒呑童子は再び空を仰いだ。赤い太陽はゆっくりだが確実に大きさを増している。
「あれが日でないとしたら、一体なんだ?」
覇王太夫はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「あれこそは、この世に滅びをもたらす妖霊星!大いなるユゴス、旧き暗黒神を運ぶものさ。異界と現世が重なることで呼び寄せられたんだ。妖霊星の到来で、この世に本当の地獄がやって来るんだよ。」
覇王太夫の哄笑が空高く響き渡った。
奇叛天 ~きほうて~ 天に歯向かった男 宮内露風 @shunsei51
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