傾城の艶

武州人也

傾城の艶

 ある雨の日の暮れのこと。一人のみすぼらしい身なりの男が、あばら屋の屋根の下でぼんやりと寝転がり虚空を仰いでいた。

 その男――元は一介の徴税吏ちょうぜいり の身であった呂徳 りょとくは、都の反乱を逃れ成都の地に落ちのびていた。少しく持ち出した身銭は底をつき、草を毟り芋を掘り出して食い繋ぐより他はなくなった。そのうちに、彼の容貌もやつ れ果て、肉落ち、眼光炯々 がんこうけいけいとして、在りし日の頬艶やかな美男子の面影は既に見ることも叶わない。そこには唯、冬のかや のように枯れ果て草臥 くたびれた男がいるだけである。

 雨音は止むことなく、呂徳の耳を苛んでいる。れど、雲のない夜だに、得体の知れぬ虫や夜鳥、かわずの声けたたましく、眠りの妨げになること甚だしい限りである。

 ふと、雨音の中に何者かの気配を呂徳は感じ取った。よもや引剥ひはぎ の類ではあるまいか、と、先刻とはうって変わり、神経研ぎ澄まされた彼は跳ね起き双眸 そうぼう見開いた。呂徳が身構える間にも、その何者かは雨に打たれながら近づいてくる。やがて、目の前の者は、その姿がはっきりと、呂徳の目に捉えられるようになるまで近寄って来た。

 それは、色褪せた襤褸衣ぼろぎぬ を身に纏った、痩せこけた白髪頭の、しかし顔だけはまるで張飛ちょうひ 樊噲はんかい のように辰砂色しんしゃいろ に染まった老爺であった。その雨に打たれて全身雨露まみれた姿を見て、途端に、呂徳の心の中にある種の憐憫れんびん の情が起こった。この者も自分と同じ身の上で、孤独で家も銭もなく、雨を凌ぎにここへやって来たのではあるまいか、と。

 呂徳が警戒を緩めると同時に、眼前の老爺が口を開いた。

「先客がおったか。すまない。私も一晩、ここで雨宿りをさせてはくれぬか。」

 低くしわがれた、雨音の中では耳を澄まさねば聞くこと能わざる声であった。呂徳は頷きもせず、さりとて拒みもしなかった。ずぶ濡れの老爺は呂徳の隣に腰をおろした。

 手持無沙汰な二人は、――互いに薄倖はっこう の身と分かってか――やがて各々の身の上を話し始めた。自分は元は虎榜こぼう に名を記されて年月浅い小吏 しょうりの身で、都の乱から逃れる道中で身銭尽き、食うも困り果てながらこの地に流れ着いたこと。今は人の住まない小屋を直しながら職の手蔓を求めるところであると呂徳は話した。老爺は時折顎の白髭を触りながら頷いていた。

「左様であったか。ご苦労なことだ。実を言うと私も、この土地の者ではないのだ。」

 老爺は、何やら沈んだ面持ちで呟くように言った。

「信じてはくれぬであろうが、私も其方と同じようにおおやけに仕える者であった。」

 老爺は一息置いて続ける。

「かくは見えても、以前は陛下の侍臣じしんであった、と申しても、信を得ぬ事は承知である。どうか、このつまらぬ老人の独り言に少しく耳を傾けてはくれぬだろうか。」

 陛下の侍臣。その一言を聞いて、呂徳の心に驚懼きょうくが起こった。しかし、一拍置いて、それを証する者がない事を思うと、すぐに内心は平静に戻った。老爺は目線を落とし、項垂れながら次のように語り続けた。


 陛下は生来色を重んじ、常に美女に飽くことがないお方であった。後宮には西施せいし貂蝉ちょうせんにも劣らぬ佳麗かれいの多く存するといえども、自らの目に適う者を多年お探しになっていた。

 ある時、あんという家に安陵あんりょうという天下に並ぶほどの無い美貌の男子あり、と陛下に聞こし召した。思えばそれが、亡国のたんであったと言うより他はない。既に自らの求める者は女の中には無し、と半ば諦念に陥りなさっていた陛下の勅命により、陛下の御前に音に聞こえし美童が参った時のことは今でも忘れることはないだろう。青糸のみぐし氷肌ひょうきの上に映え、怜悧れいりな双眸は一度ひとたび巡らせば千人の心を虜囚とせんばかり。腰から腕、指先に至るまで柳の細枝のようにそびやかで、最早その美の前に於いては六宮りくきゅう粉黛ふんたいも色褪せるに任せる他は無い。男子に斯くの如き色香が宿るであろうか、と、ただただ目を疑うばかりであった。


 呂徳は息を飲んで老爺の言に聞き入った。老爺は次のように尚も続けて語る。


 以来、安陵は断袖だんしゅうの歓一身に受け、昼夜問わず陛下の傍らに在った。陛下は睦む宵のあまりに短きを嘆いてか、日の高らかに登ってから起床なさるようになり、早朝の政務をなさる事もなくなった。次第に政治も弛緩し、野心ばかり虎狼の如くする奸官たちの横暴も愈々いよいよ甚だしく成り果てた。

 その最中さなか、憂国の志を忘れずにいた義臣たちは陛下の乱心を正す為に安陵の暗殺を企てた。まさにその内の一人が自分である。無論、企てが成功したとて、謀殺に加わった我々は陛下の怒りを買い族誅ぞくちゅうも免れ得ない。皆、自らの命はもとより一族の命運だに捨てる覚悟であった。

 まず、我ら一派は庖人ほうじんを抱き込み、安陵のはんにのみ毒を盛るよう命じたのであった。はたして安陵は眉目びもく歪ませ顔面蒼白、間もなくして席を退出した。然れど、「効あり。」と我らがよろこんだのもその晩までのこと。明くる朝には何事もなかったかの如く安陵は陛下に伴われて衆前にその姿を晒したのである。我ら一同落胆此処に極まるも、すぐに次の一計を案じた。

 我ら一派に衛士えじにして弓矢の名人、名は袁伯えんはくという者在り。我らはこの袁伯をして行幸中に安陵を射殺せしむと図ったのであった。袁伯は遠く離れた石壁に身を隠し、、剛弓引き絞って能々よくよく狙い定め放った。遠矢と雖も、袁伯の弓は強し。陛下の隣に座っていた安陵の胸にあたり、ぱっと空に紅の飛沫舞ってそのまま五体地に伏せった。陛下の慟哭と憤激天を衝くばかりに甚だしく、袁伯忽ちに捕まり、その日の内に袁伯は刑に処される所となった。我らは袁伯の報国に涙をそそぐも、翌日、安陵はまたそ知らぬ顔で陛下と共にあったのである。我らはまたしても頭を抱えた。

 二度の失敗を経て、我らも愈々以て苛立ち極まり、形振り構わなくなっていった。宴の最中、陛下の少しく目を離された隙を見て、偽勅を用いて安陵を裏庭に連れ出し、自分と武芸秀でたる男たち五人、彼を取り囲んだ。その明眸めいぼうで此方を射竦いすくめる安陵のも言われぬ色香に我らも少しく躊躇いを覚えるも、忠国の義心奮い立たせて彼を殴打し、四肢を裂き川に流してしまった。眼前で殺せば間違いはない、と考えてのことである。宴席に戻ると、陛下の御顔甚だ焦燥の色現れ、しきりに「安陵は何処いずこであるか。」と罵り叫んでおられる。我らが何も言わずにいると、宴席のとばりひらき、安陵の姿がそこに在った。先刻命を絶った筈の安陵を前にして、我ら一同、肌粟立ち、怯懦きょうだの心に苛まれ既に顔色を無くしてしまったのである。

 そうしている内に、我らの危惧していたことがとうとう起こってしまった。范陽はんよう藩鎮はんちんが突如として兵を挙げ、都への進軍を始めたのだ。賊軍の勢い衰えを知らず、六軍相次いで屈する所となる。賊軍の車馬の音は城下に迫り、侍臣たちは陛下をお連れして都を脱せんとした。然れど、その最中、常に陛下の傍らにあった筈の安陵の姿がどこにもなく、陛下焦燥し、「安陵を伴わなければ都を捨てることは出来ない。」との声を上げなさっていた。宮中の者をして安陵探させしむも、姿どこにも在らず。賊軍既に宮中に踏み込み、間もなくして陛下、臣、悉く捕縛される所となった。陛下は虜囚の身となった後も安陵の身を案じ嘆きつつ、次第に気狂い甚だしくなり、柱に頭を打ち憤死してしまった。私も朋輩ほうばいと共に虜囚となるも、幾月経て監視も緩み、遂に獄を脱し都を逃れた。社稷しゃしょくも妻子も朋輩も何もかも捨てて逃避を続け、江南こうなんの地へ落ちのびた。

 ある日、川辺にでて茅萱ちがやの類を毟っている折、葦原あしはらの中に何者かの姿を認めた。萱の茎踏みしめ近寄ってそれを見た時、私の内にこの上ない驚懼の心が起こった。葦原に不似合いな美しく着飾った服、その艶やかな髪、雪の降りたるが如き肌、冷艶れいえん極まる顔貌。見間違うことはない。その者こそ、かつて陛下の心を惑わし、私と憂国の義士たちが何度もその命を奪おうとした安陵その人であった。いくら天下に双無そうなき美少年と雖も、所詮は男子、少しくも年月経れば身体長しんたいちょう顔色がんしょく精悍となろう。然れど、その容貌の些か崩れたる所もなく、大水青蛾おおみずあおの宙舞いたるが如くその美を限りなく振り撒いている。

 最早自分には守るべき社稷もない身であるが、心に僅か残った忠国の義が、沸々ふつふつと眼前の美童――否、人非ざる傾城けいせいの妖童というべきか――に対する敵愾心を抱かせた。私は河原の石を拾い、安陵に向かって足を踏み出した。安陵は私の姿に気づいてか此方を向くも、殺気立つ私に背を向けて逃げる素振りも見せず、口角吊り上げ微笑し秋波しゅうはを送ってきたのであった。私はその時、恐怖か、それとも色香に当てられてか、心中の敵意、憎悪忽ちに消え失せ、右手に掴んだ石を取り落としてしまった。いやしくも元は義臣と共に国を救わんと誓った身であった私は自らの頬を叩き心を奮い立たせようとするも、再び敵意抱くこと能わず、ただただ退くも進むも出来ぬまま立ち尽くすばかりである。

 全身肌粟立ち、冷や汗流し立ち尽くすも、私は声を震わせ、「なんじ何故なにゆえ陛下を惑わし国を傾けるか。」と問うた。安陵口を開いて答える。「いにしえの公、晋の計により見目麗しき美童数十人送られ、虞程なくして亡国の憂き目に遭う。其方ほどの者なら既に知る所であろう。」高く澄んだ、それでいて威圧を含んだ声であった。「我は人心を試すのみ。さらば忠義の者よ。」安陵は身を翻し、私の元を去ろうとした。

 「待たれよ。」私の脚はかせ解かれたかのように動き、葦原を駆け安陵を追った。然れども、肉落ちて骨皮ばかりの身となった私は満足に走り続けること叶わず、次第に息も切れ疲労甚だしくなった。安陵は時折此方を一瞥しつつ、嘲笑うかのように付かず離れずに逃げ回っている。

 とうとう、脚の鈍ること極まった私は動くこと能わず、膝抜け葦の上にたおれ空を仰いだ。最早胴潰れた蛇程にも前進すること能わず。その私に向かって、葦を踏み近づく足音が聞こえてくる。はたして、その足音の主は安陵その人であった。得ならぬ馥郁ふくいくが私の鼻孔をくすぐる。安陵はその流麗な、それでいて氷雪の如き冷気を帯びた伏目で私を見下ろし言った。「有象無象の下郎げろう、本来なら相手にすまい所だが、良いだろう。」何を思ったか、安陵は私の陽物を天に晒し、すべらかな細指でそれを撫で始めたのである。かつて命を奪おうとした敵の手によって陽物は忽ちに血滾り、怒れる眼鏡蛇のように鎌首をもたげ、先走りの滲み出でたるが繊指せんしを濡らした。それを見た安陵は嘲笑とも媚笑ともつかぬ笑みを浮かべ、顔を陽物の口に近づけてくる。抗おうと身を捩ろうとするも、疲労故か、それともその先を望む欲望故か、艶めかしく髪をかき上げ、青筋を浮かべ猛る陽物を咥え込む安陵に唯々身を任せるのみであった。精を搾らんと攻め立てる彼の技に敵うに及ばず、寸刻経て陽物脈打ち、口内に精を吐き出した。暫しの時を経て起き上がると、もう安陵の姿は何処にもなく、辺りを見渡すも、ただ萱の一面に広がるのみであった。

 嗚呼、もうどうでも良い。どうでも良いのだ。私にはもう、守らねばならぬ物など何もない。然るに、一時の快楽けらくに身を任せ、惨めにも嘗ての仇敵きゅうてきに精魂吸われ果てたとて、一体何の矜持を毀傷しようか。千の砦、万の帯甲たいこう革車かくしゃも、唯一人の艶童の馥郁に如かず。況や私のような匹夫をや。全て失いたる流浪の身にあれど、し望み叶うならば、今一度再び安陵とまみえんことを願うばかりである。私も――かつて陛下が閨を共になさったように――かの美童との享楽に耽ることを常々思わずにはいられなくなってしまった。


 雨はとうに止み、二人をじっとりと生温い空気が包んでいる。呂徳は、社稷を思う心ありながら自らの全てを打ち壊した仇に思いを馳せて恍惚とする老爺に言いようもない嫌悪を覚えた。然れど、と、呂徳は考えを巡らせる。後世の者達は陛下を、王朝の顛末を、この老爺を、全て一笑に付すか、或いはこれを訓戒として襟を正すのかも知れない。歴史とはいつもそういうものだ。然りとて、傾城の艶美に触れることは、この上ない幸せではなかろうか、と、この老爺の表情を見てそう思わずにはいられない。たとえその顛末がどのようなものであったとしても……。


 明くる朝、既にそこに老爺の姿はなかった。呂徳は密かに願った。苟もかの話がまことであるなら、願わくば老爺の所ではなく、自分の所にかの美童現れんことを。

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