傾城の艶
武州人也
傾城の艶
ある雨の日の暮れのこと。一人のみすぼらしい身なりの男が、あばら屋の屋根の下でぼんやりと寝転がり虚空を仰いでいた。
その男――元は一介の
雨音は止むことなく、呂徳の耳を苛んでいる。
ふと、雨音の中に何者かの気配を呂徳は感じ取った。よもや
それは、色褪せた
呂徳が警戒を緩めると同時に、眼前の老爺が口を開いた。
「先客がおったか。すまない。私も一晩、ここで雨宿りをさせてはくれぬか。」
低くしわがれた、雨音の中では耳を澄まさねば聞くこと能わざる声であった。呂徳は頷きもせず、さりとて拒みもしなかった。ずぶ濡れの老爺は呂徳の隣に腰をおろした。
手持無沙汰な二人は、――互いに
「左様であったか。ご苦労なことだ。実を言うと私も、この土地の者ではないのだ。」
老爺は、何やら沈んだ面持ちで呟くように言った。
「信じてはくれぬであろうが、私も其方と同じように
老爺は一息置いて続ける。
「かくは見えても、以前は陛下の
陛下の侍臣。その一言を聞いて、呂徳の心に
陛下は生来色を重んじ、常に美女に飽くことがないお方であった。後宮には
ある時、
呂徳は息を飲んで老爺の言に聞き入った。老爺は次のように尚も続けて語る。
以来、安陵は
その
まず、我ら一派は
我ら一派に
二度の失敗を経て、我らも愈々以て苛立ち極まり、形振り構わなくなっていった。宴の最中、陛下の少しく目を離された隙を見て、偽勅を用いて安陵を裏庭に連れ出し、自分と武芸秀でたる男たち五人、彼を取り囲んだ。その
そうしている内に、我らの危惧していたことがとうとう起こってしまった。
ある日、川辺に
最早自分には守るべき社稷もない身であるが、心に僅か残った忠国の義が、
全身肌粟立ち、冷や汗流し立ち尽くすも、私は声を震わせ、「
「待たれよ。」私の脚は
とうとう、脚の鈍ること極まった私は動くこと能わず、膝抜け葦の上に
嗚呼、もうどうでも良い。どうでも良いのだ。私にはもう、守らねばならぬ物など何もない。然るに、一時の
雨はとうに止み、二人をじっとりと生温い空気が包んでいる。呂徳は、社稷を思う心ありながら自らの全てを打ち壊した仇に思いを馳せて恍惚とする老爺に言いようもない嫌悪を覚えた。然れど、と、呂徳は考えを巡らせる。後世の者達は陛下を、王朝の顛末を、この老爺を、全て一笑に付すか、或いはこれを訓戒として襟を正すのかも知れない。歴史とはいつもそういうものだ。然りとて、傾城の艶美に触れることは、この上ない幸せではなかろうか、と、この老爺の表情を見てそう思わずにはいられない。たとえその顛末がどのようなものであったとしても……。
明くる朝、既にそこに老爺の姿はなかった。呂徳は密かに願った。苟もかの話が
傾城の艶 武州人也 @hagachi-hm
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