後編

 だから彼がそのあとで戻ってきたことは、性懲りもない僕へのどうしようもない好意だったと言わざるを得ないだろう。彼はもう、馬鹿馬鹿しいぐらいに夥しい涙を落して、このときばかりは僕に謝った。彼が落とした涙が首についたとき、どうして涙というものはこんなに熱いんだろうと不思議に思ったのを覚えている。僕は彼が、僕への暴力のしるしに引き千切ったあとで、髪の毛がよけいに抜けて禿げてしまったりしていないかだとか、そんなことを漠然と心配した。彼はもはや、僕が彼をちゃんと見たりしないことを気にしてもいなかった。

 あんなに泣いて騒いでいたら、また誰かに密告されるよ、と思った。でもその場合に殴られるのはまた僕なのだろうか、と思うと、こんなに大げさに泣かないでもらいたいと迷惑に感じた。彼に抱きしめられるたびに、踏みつけられたときの情けない力の通った軌跡がみしみしと鳴って分かるようだった。僕は彼が僕に浴びせている言葉にはもはや関心がなかったけれど、彼が全身に残して行った力の足跡には目が行った。

 そして彼に向ってしがみつき、周りの誰にも聞かれないように注意して耳打ちをした。彼がしたその息を殺した返事の内容より、頷いたときの体重のかけ方を、僕は尖った針の先端でも見るみたいに注視した。僕をぎゅっと締めつけるみたいに抱きしめる、その最後の力の堆さについては、秤のなかの砂糖を眺めるみたいに調べた。僕は彼から降りかかる力を天秤の片方にかけ、もう片方には平均的な、僕に優しい大人の力を思い出しながらかけた。

 不思議に思われることに対し、僕じしんがその不思議に思う理由に共感できないとき、僕のほうが不思議に思い返す。どうしてそんなことが他人に、何の理由もなく信じられていて、僕はその病気に罹っていないんだろう。どうして僕だけが正常に物事を理解しているんだろうか? という具合に。子供の頃の僕に、味方になってくれる大人がいた、というのがその一つだ。

 僕がまだ小さかった頃の話をすると、決まって幾人か仕方なしに大人が登場するのだけれど、僕ではなかった他人というのはかならずどうしてか「ではあなたはそのひとの被害者だったんでしょう」というような反応をする。僕にはこれが不思議で仕方がない。確かに、僕は彼らに比べて金がなく、身体が小さく、暴力に訴えられればかならず僕は負けただろう(それに驚くと気絶する癖のため、僕は子供のころ実践によって自分を鍛えるという経験すらも手なかった)。でもそれだからって、そのはんたいである大人を征服できないということの証拠にはならない。むしろ僕は、自分の脆弱さが爪となり、尖った歯になって彼らの栄養のゆきわたった分厚い肉に食いついて痕を残すことが出来ることを、僕がはっきりと目覚めている間という短い間の経験だけでも分かっていて、幾人かはちゃんと征服していた。

 マトヴェイがその一人だった。といって彼は僕にとって、酸っぱくも辛くもにがくも何ともない人物で、人のいい牛みたいな感じの、食べるところは広大にあって、何となくのろくさく、でもどこか触れ方を間違えればうっかり踏み殺されて、でも殺意なんて明確な閃きに基づく殺人なんていうものとは縁がなく、ただ草を食うような習慣の過程で、不注意に僕を轢き殺してしまっただけなのだという風に周囲から片付けられるような、そんな人のいい男だった。年齢ははっきり聞いたことなんかないけど、だいたい四十半ばぐらいだっただろうと思う。奥さんも子供もいなくて、僕のような少女娼婦まがいを買ってもべつに波乱が起こるような基盤を持たないひと。

 何も子供が好きでそうなったというのではなく、また同性が好きでそうなったというのでもなく、彼はただ弱いものを一時的に保護しているのが好きで、そういう自分の志向からくる見ず知らずの他人の保護という習慣を、ただ一人の人間で埋め立ててしまうことがきらいだったからそういう生活をしていたのだろうと思う。彼はお父さんの持っていた酒場をそのまま引き継いで経営していて、僕は親の築いた生活を壊さない彼らしい選択と思って眺めていたけれど、見方を変えてみれば彼の酒場に来るのは彼にとって客でありはんぶん友人であり、三分の一ぐらいは家族と言っても差し支えないようなひとたちであり、ともかく一時的に停泊するひとたちばっかりだったから、彼にとっては先天的に彼の神経に合う環境を親に与えられていたということで、何も自分でそれらを破壊していく角なんか持つ必要がなくてああだったのかもしれない。

 彼は店の客を狙って来る娼婦のなかでも、とびきり頼りなさそうな、ぼろぼろになって傾いている家みたいな娘を選んできては、父親のような兄のような愛情を示し、庇護者らしくふるまって、また自分の正式な愛人であることを示すみたいに自分の店に堂々と立たせた。これが彼のする意地悪と言えばそうで、この仕打ちによりマトヴェイの恋人というのは大概すぐ、彼の友人たちにその出自をからかわれたり、仕事ぶりのまずさを叱られたりしてなぶりものにされた。

 彼女たちのうち少しでも反抗心を持てる者は、マトヴェイに対して泣いたり怒ったりして自分のされたことを訴えたけれど、彼と友人の間にはさまっている友情にひびを入れるほどその涙は強くなかった。ただ一時的に保護している弱った獣がいかに泣いたって、せいぜいマトヴェイにとってはそれを飼いならしている間のほんのつかの間の面白味にしかならなかっただろうと思う。

 彼は自分の友人たちの前に、恋人を堂々と立たせることを自分の誠実さだとほんとうに思い、また友人たちもそのように評していたけれど、実際彼女と彼の友人たちがそんな衝突を繰り返していても何もあきらめなかったところを見ると、自分の誠実さがどんな悲惨な家事を招いたとしても、そのことに何の責任も感じない人物だったんだろうと思う。彼はただ言われているような手順で小さな木に火をともしてやったのであり、それが油と結びついて他人の家を燃やすなどということは、他人の家と油との間に起こった悲劇なのであって彼には全然関連しないのだ。

 僕は、マトヴェイが繰り返すことを対岸の火事のように眺め、ほかの娼婦の狙う客にぶつからないように泳いでいたつもりだったのだけれど、客を掴みそこねてぼんやりしていたあるとき、うっかり彼に見つけられてしまった。僕は不思議なことに、彼がめのまえで情緒的に広げては閉じていく、あの弱った魚ばかりを狙った網に、まさか自分が引っ掛かるとは全然想像していなかった。それともあの角のような悪意のない、ただ事態にたいする身動きが鈍重なばかりに、酷い車みたいになって他人を轢き殺すあの誠実さの塊には、僕の知らないするどい眼がついていて、僕の身体には男性器があるという傷があることを見抜いていたのだろうか。

 

 何を考えてるんだい、と彼は僕におもねるみたいに尋ねた。僕は馬鹿なロマに乱暴にされた痕跡があるとは言え、それが自分が何かを考えた直接の痕跡にはならないと思っていたから、彼からこう問われたときには酷く悲しいような気がした。僕が彼に逢うときというのは、ほんとうにほんとうに誰も捕まる気配がないとき、このままだと子供に見つかって殴られるとかそういう恐れがあるときに、仕方なしに彼にしがみつくという具合で、お金を貰うのは僕であるにしても、安全な商品として僕が彼を買っているような感じがあった。

 彼が最初に僕を手に入れたとき、僕の身体についている傷は彼をさほど驚かさなかった。むしろ僕が不自然な理由でその商売についていることに、彼の関心の矛先が向かったのが分かったので、僕はしょうじきに「いまいる家に住み続けなくてはいけないから」と、たんなる自分の希望をまるで義務のようにいかめしく語った。彼のまえで言い張るには希望では頼りなく、ありきたりな弱者の悲嘆のように彼に栄養にされてしまう恐れがあり、僕じしんの義務であると言い張らなくてはいけない緊張を覚えたのを覚えている。

 僕に家族はおらず、いまの家に一人で住み続けるためには家賃を支払わなくてはならず、僕は自由であるために自分が打ち壊せるだけの不自由が同時に必要なのだと言い、彼はれいの夥しい、けたたましさのない広大な微笑をもって僕の要求を聞き入れ、ある程度僕に従いながら僕を抱いた。それから僕にありきたりの娼婦に渡すのと同じ程度にお金をくれた。

 僕は彼の、僕にたいする尊重の仕方が気に入ったし、それからはもっと小さな暴君のように彼にふるまった。もっともそれは彼の許容するところであり、言ってしまえば彼に気を許しているというような態度のサービスであったけれど、こういう遊びを無言のうちにやり始めると、僕と彼とのうえに「本心を語る言葉は要らない」という理解がむくむくと仕方なく生える雑草のように芽生えてくるのがお互いに分かる。僕は彼に、なぜ弱い娼婦ばかり狙うのかを自分の観察した以上に彼に問いただしたことなんかないし、彼も僕の商売の理由を家賃の支払い以上に確かめようとはしてこない。僕じしんの我儘が彼に赦されていると分かった上でのことだけれど大いに定着し、凝固して彼との間で特別な友情のようなものに変わり果てた頃だった。

 僕がロマに出会った後、初めて家賃の支払いでない理由で彼を訪ねたのは。何を考えている、なんて言い出したのは、彼がほんとうにその答えを知りたかったためではなく、僕がそれほど彼のまえで無防備に自分の震えを曝け出していることにたいする、彼からの思いやりに満ちた警告だった。僕は彼のまえで裸であることを恥ずかしいと感じたことなど一度もないけれど、この考えばかりは彼に打ち明けたあと、どんな反応があるかと内心恐れていたので、彼に指摘されると恐れを一本の感情に纏めることがままならず、こんな時ばかり子供の身体の生理に頼ってとめどなく泣きだしてしまった。それきり彼も追っては来なかった。

 彼は僕が泣きだしたからというような格好をつけて、あまり僕を踏み殺さないうちに止めた。まだ月が出ているうちにといって、僕を抱き上げて僕の家まで送っていくと言った。

 彼は僕が店に現れてから、僕をともなって店を開けていたし、ほかの客には少女娼婦だと思われている僕と奥でどんな話をしているかは、他の客に想像されているはずだったけれど、僕については他の女と少し違うところがあると何だか色んな娼婦をいじめてきた彼の友人たちにも分かるのか、好色な冗談を言ってからかったりはしてこず、むしろ僕をいじかねている子供のようにふくれっ面をして、僕から一線を引いたところで睨んでいるといった有様だった。

 僕が犬か何かのように彼に抱きかかえられて店の裏から出るときも、律儀に彼らに挨拶していくマトヴェイを見て、わざと僕に向かって何か言った客がいたけれど、マトヴェイでなく他の客に制されていた。やっぱり僕は他人にはいつも通りに見えるらしいと分かり、内心僕はその平凡な客に感謝したのだけれど。

 月があかあかと、なみなみと注いだ酒の面みたいにたっぷりと輝いていた。あまりにもくっきりと顔を出した月からは匂いまでしそうだった。マトヴェイが過剰なおせっかいでない代わりに、その晩に出ている月はまるで彼が用意して出したもののような人工的な感じもした。店を出るとき、彼は余分に上着を持ってきて僕にかぶせた。警官などに僕が見つからないようにするためか、単に寒いと思ったのかそのあたりの判別も彼のばあいだとどちらともつかない感じがした。彼は僕に何にも言わずにずんずん道を行った。

 僕はかぶせられた上着のおかげで、どの程度自分の家の近くまで来ているかが分からず、ただ彼の足もとを飛ぶように動く影ばかりを見つめていた。彼の靴のそばを通り過ぎていく空しい影というようなものに、自分じしんが蒸発するようなすさまじい速度で変わりつつあるように思えた。僕はほんとうに僕の望みのとおりに行動するならば、彼が道を行くのに抵抗し、僕を昼のねぐらである教会へと連れていってくれるように頼むべきだったのに、まるで声を失ったみたいにそうしなかった。声になるべき考えは僕の胸のなかにあり、それは言葉になって出てこず、雪が溶けて道路の暗い染みになるみたいに、僕の喉の奥の暗い影になった。

 僕が上着をはねのけて周りの景色を見ようとしたとき、僕は自分でその動作がある行為の代わりになることを期待しているということに自分の動作の手触りで気付かされた。マトヴェイに、自分の行きたい先を告げる代わりに、僕は僕の行きたかったところを今一度確かめようとしていたのだ。僕の罪の告白にも近いこの行為は、僕がロマにたいして少しでも良心の呵責があるならば、ばっきりと堂々と、月が目にかぶさるぐらいにあからさまに行わなくてはいけない。はたして帽子を脱ぐみたいに彼の上着を自分からはぎ取ると、とても悲しいことに彼の肩の向こうに灯りに照らされた教会が凍ったように聳えていた。

 ただ照らされているだけの石の塊であるはずなのに、そのときははっきりと僕の肩を掴み、僕が動揺するぐらいに大声で僕を非難したような気がした。そこには僕が約束しておきながら、置き去りにされているロマがいるはずで、僕がこうして庇護者の腕に抱かれているそのときもなお、僕が言ったとおりに待っているはずだということ。仲間のまえで僕を滅多打ちにしたロマに確かに、僕は彼にだけ打ち明けるような内緒のそぶりで夜に戻って来るように言いつけた。

 彼は夢中で、ほんとうにいかめしく僕への忠誠心を頬に落としている涙の粒ほどにはっきりと露わにしてうなずくので僕はおかしくなったほどだった。彼に逢おうとして、その前に僕がよく知る家畜のような男を訪ねて半ば強引に自分を食わせたのは、ロマの石像にするような接吻の仕方をみて、ただの子供の僕の身体では彼の手に余ると感じたからだった。僕を踏みつける力の長さを推しはかっても、ともすれば女よりも使いにくい僕の身体を壊すのに、じゅうぶんな力とは言えない感じがした。

 ようするに僕は、彼に自分を投げ与える気で呼び出したのだけれど、彼に包丁を持たせて自分を裁かせるのではなく、自分ではない大人の力で予め自分をこなごなの血と肉の塊にし、スープのなかの原型を留めない魚の肉のようなものにして、彼の口のなかに自分というものの断片を押し込んでたっぷりと味わわせてやりたかった。僕の味によってそれが何かと分かるより前に、彼を内蔵から病気にするみたいに征服してやりたかった。

 これが、僕のロマにたいする思いで、僕がマトヴェイに隠そうとして露見していた企てのほとんど全部である。でも、僕が隠していたかったのはその企ての内容というより、僕がその企てを考え付いた理由だった。僕のゆびすら買えないロマから奪い取る金なんかなく、僕が彼を征服しようとする理由は僕に貢がせるためではありえない。だったらそれほど彼に執着する以上、僕は彼に恋慕していてもよさそうなものだけれど、僕は彼にたいしてそんな感情を持ったことはなく、もしかしたら恋慕へ昇華するかもしれなかった感情のむら気さえ、彼のあまりの子供らしさ、他愛なさのまえに何だか馬鹿馬鹿しく笑えるものに思えわれて糸の切れた首飾りの珠みたいにみんな失くしてしまっていた。

 ではどうしてこんなに、わざわざしたくもないことをやって、何でも本心を言い合わなくても済むようになった年上の友人にごまかしてまで、彼が抱けるような自分に自分を砕こうとしたのだろう。僕はストッキングを脱いだ女の足のように白く聳えている教会の壁を遠目に見ながら、彼に済まないと思うのと同時に、そんなところにいて庇護されている彼を死ぬほど羨ましく思った。

 どうしてもマトヴェイの目にその感情を隠したいと思った理由はつまるところこれだった。仲間に入らなくてはいけない仲間といて、彼らと共有のねぐらを持ち、群れで生きることが出来、他人の身体の味も知らずに生きているロマが、まるで僕の持たない視力を湛えている瞳を見るみたいに憎らしくてたまらなかった。そんな子供を汚す夢ばかりは、はっきりとこれは僕じしんの自由のための貯金なのだと言い張ったマトヴェイには知られたくなかったんだろう。

 それに僕は自分の憎しみを、そんな形で成就することをまだ恐れていた。そんな風に成就したあとで、僕を知ったロマを背負うのは僕じしんであり、あの数を知らない人間が何かを数えたがっているようなもどかしさを湛えた眼の子供はいなくなり、また僕がその肉を必要としない家畜が増えるだけのことだった。ふいに僕には他人に向かって言うことが一つだけしかないような気になる。

 僕はただ彼女の不穏な化粧の仕方に魅かれて近づいただけの娼婦に、ひどく同情されてまるで自分ならば可能だとでもいうみたいに、あなたの生活を代わってあげたいと言われたことがある。そんなに僕は深くものを考えて言ったりすることが好きではないたちなのだけれど、そのときばかりは尾を踏まれた猫みたいに、あなたに僕の身体みたいな不自由さがない限り僕の自由はいちにちたりとも務まらないんだと叫ぶみたいに言った。

 彼女は僕の言った内容より、僕が大きな声を出したことに驚いていた。その欠伸するようなたいくつな反応は全然嫌ではなかったし、むしろ彼女を好ましく感じたほどだったけれど、僕はその人間から受ける被害を恐れるあまり他人を侵略しておきたいと考える癖において、あんまり羨ましいと感じる他人は除かなくてはいけないとこの時に思った。

 ロマを征服したあとでいったい何が残っただろう。僕は自分の自由の通る道を、金をかけて舗装して保護している。そこに彼が横切って猫みたいに魅かれ、僕の車輪の染みになって何メートルにも渡って僕の自由の行く道を汚していく。

 彼はそんな風に僕には不要なもどかしさだったと思って、マトヴェイが僕を寝床に置いた後僕はしんしんと闇のなかに溶けるように寝た。マトヴェイは出ていくとき、ドアの音を殺して閉めるまでの気遣いを示し、僕にとってこの眠りが、僕が彼に逢うまでに持っていた目的にたいして投げつける石みたいなものであることを痛いぐらいに感じさせた。半ば僕は意地になって、籠城するみたいにその眠りのなかに朝がふけるまで居続けて、僕を苦しめた意識は長い眠りのなかで諦めるみたいにようよう解散して行った。

 僕がつぎに目を明けると、もうずいぶんと太陽が高くなっていた。早朝はいつも、それまでゆったりとのさばっていた夜を蹴散らすみたいに靴音高く怒鳴りこむみたいな緊張でやって来るけれど、その音ももう遠くまで過ぎ去ってしまったみたいで、僕はこんなにたるんだ朝であれば緊張しないで済むと思い伸びをしながらその中へ出て行った。ある種の客に対しても、僕はこんな気安さでその前に出て行く場合があった。彼らが年老いている場合にだった。

 だらりと開きすぎた花というのは、美しいと言われるところまで回復する気配が全然なくて、安心して眺めることが出来る。朝がふけて、昼間の南中のような想像しさに達する前のみじかい時間というのは、人間が夥しくいるという街というそのものが好きでない僕が街にいられる短い時間だった。僕は道具箱の中にいれた化粧道具を見るみたいに、太陽に明るく特徴を照らし出されている昼間の街の家々の、建築の工夫をしらじらしく眺めたりした。

 道を歩きながらのんきな僕は、どうして僕がいつもよりこうも快活な気持ちでいるのかということを忘れていた。晴天が誰かの財産のようにのどかに広大に広がっていて、その誰かの持ち物みたいにどこか造形に共通したところのある雲が点々と可愛らしく、その広大さをかえって引き立たせるように点々と青い絨毯のうえを汚していた。

 僕は自分がいま吸っている街の空気の旨さというものが、何に依るものなのかやっぱり掴みかねていて、ふと記憶をたぐろうとするうちに、自分は起床したあとに散歩をする習慣があったことを思い出した。それは夜の間はたらいて、朝になって体内の血を描き集めてくるやり方が分からないうちに、うっかりと敵対する子供に遭うと抵抗できないことを経験してから、彼らに対抗できる身体にしておくためにする朝の準備体操だった。そのために自分が歩いているコースを、少し外れていることにも頭痛の鎮まるようにようやくはっきりと思いだしてきた。

 僕は歩きながら自分の身体をようやく自分の頭のなかにはっきりと思いだして描こうとするみたいにいつも散歩をするのだった。そうしてあらかじめ自分の財産である身体をはっきりさせないと、昼間のうちに密かな交渉をして、またその交渉を目立たせないようにするためにまどろんでいる時、子供に襲撃されて自分の身を守ることが出来なくなるから。

 僕はふと、家のなかに忘れ物をした気がした。それからのんきに、教会の前にロマを待たせていたことを思い出すと、慌てて自分が階段へ向かって走り出したのを見た。僕は昨日、彼を憎しみから捨て去ったことまでうっかり忘れていたのだった。ただしその捨てた理由を感じたくないために、ひっしに階段を駆け上がった。そのせいで何も見ずに上がったのだろうと後から考えると思う。

 僕が階段を上がると、まるで待ちかねていたみたいに僕をいじめている子供たちがそこにいて、うわっとまるで幽霊でも見たみたいな声をあげた。ほんとうに僕を幽霊だと思っている子供もいるらしく、僕を見てなおほとんど死人が近づいてくるのを見るみたいに、叫ぶような悲鳴を身体から漏らす子供もいた。

僕は周りの子供の蒼白な顔や尖った視線にばかり惹きつけられて、むしろ自分の居場所のことを失念してしまっていたのだけれど、彼らが遠のいた後でふと自分の居場所を見ると、そこには僕のいつもくるまっていた真っ赤な毛布が、真っ黒なインクのようなものを大量に吸って膨れ上がっていた。

 髪の長い病気の女がそこにくるまって倒れているような感じであり、よくみるとそれは刃物らしいものでズタズタに引き裂かれていた。中に人間が隠れていないものか、丹念に執拗に調べられた痕みたいだった。昨日の夜と言えば月明かりもさえざえとしていて、遠目から見てもはっきりと教会の壁のいろまで分かるぐらいだったというのに、襲撃者には目がついていなかったのか、ずいぶん焦った暴力が集中的にそこに注がれていた。

 そこでまず最初の出血があり、僕がくるまっていた毛布は夥しく人間の血を吸い、刃物で切り裂かれたあと引き出された中身は、僕がいま駆け上がってきた階段のほうまで引きずられたらしく、黒々と人間の胴体ぐらいの幅で引きずられていた。ほとんど直線的に続いているところを見ると、引きずられる方に何の抵抗もなく、もうすでにただの出血する荷物になっていた可能性が高いように思われたけれど、あるいは抵抗さえしなければどこかで逃げおおせるという風にでも子供なりに考えたのだろうか。

 それにしてもいくら子供とは言え、全く動かない人間ひとりふんの肉の重さを引きずって行くのにはずいぶんと力が要ると思うのだけれど、僕を襲わせたのであろう子供の誰がこんな化け物を手に入れていたのだろうと思われた。

 僕の知る限り、僕のように主体的に商売をしていた子供は僕の周りにいなかったし、これほど執拗な暴力をふるう人間を雛のような彼らの誰かが掌握していたとも思えない。単なる変質者の犯行にしては、周りで寝ていた子供がそろって無傷で僕を見ているところを見ると、やはり僕ひとりを狙った暴力にしか思えず、僕がここで寝ているのは昼間だけのことで、夜には自分か他人の家に行くということを知らない街の子供の仕業という風にしか考えられない。

 街の子供であった場合、仲間の目にはっきりと分かるほどに僕をかばおうとしていた彼が、僕への襲撃を聴かされていなかったことは想像に難くない。でも襲撃者が街の子供の誰かであったなら、連れていく過程でロマであると気付きそうなものだけれど、全くその痕跡がないところをみると襲撃者とロマとの間に面識はなさそうである。

 また面識がないにしても、街のなかで少なくとも自分を生かしていたロマが全く抵抗もしていないというのはどういうことだろうと思って、僕は馬鹿馬鹿しい想像をした。僕はもしかしたら、その化け物だと彼に思われたのかもしれない。化け物のほうでは一生懸命、彼に向って言われたとおりの暴力をふるい、彼を粉々にして計画通りに連れ去ったのだろう。

 ロマはどうして何の抵抗もしていないのかと言えば、彼は苦痛を感じていただろうけれど、もしかしたら僕の復讐だと感じたのかもしれないのだ。この説はあまりに少し自虐的すぎ、却って砂糖菓子のように不自然でほんとうに出来ないような気もしたが、そんな場合もありえるなと思った。いまとなっては影も形もなくなり、ただゆっくりと動かされている血の痕跡になってしまっている彼には尋ねようもないのだけれど、もし攻撃したのが僕だと思ったのなら、僕を好きなくせに僕をいじめたことに負い目があったのなら、僕が暴力にたいして何も抵抗もしない家畜なんか気に入るはずがないことぐらい分かっていてほしかったなと思った。

 いったいどんな安楽な夢を見ていたのか知らないけれど、僕の毛布にくるまって眠っていたところを襲撃されたらしい彼は、暴力の雨のなかでうずくまって大人しく絶命して連れ去られた、ということしか僕にもはや知らせてはくれなかった。僕はしばらくその痕跡をぼうぜんとゆびでたどるみたいに眺めていたけれど、僕が生きているという風聞が伝わってこんな目に遭わされては困ると思ったから、無言のうちに階段を下りた。しばらく行くと聞き取れないほどの声とともに、小石が一つ背後から落ちて来た。

 降りてみると確かに、ロマの血はながながとのどかに続いていた。その上を、僕のかかとに当たった小石がぱらぱらと落ちて行った。僕はふと、かつて僕の歯を買おうとした子に歯を与えたのち、ここから突き落としたことを思い出し、「せめて彼の歯ぐらい」と思った。

 あのぐっしょりと血に濡れた毛布のなかには、髪ひとすじぐらい望めそうだったけれど、つぎに向かったらいよいよ僕の死に場所になりそうな所へ向かう気にはなれなかった。ロマの歯はまだ子供の歯があっただろうから、折れたり抜けたりして手に入り易いのではないかと思ってかがみこんだ。

 黒いふとぶととした帯の血のなかには、僕の期待したような彼の肉片らしいものは何ひとつなかった。代わりに上がってきた太陽の光に反射して、僕の好きな硬貨が見つかった。それは大ぶりな、紙幣にも値する硬貨で、僕のゆびを買うために集められたもののくず硬貨のなかにもこんな大きな硬貨は見つかったためしがなかった。ふと、僕の歯を欲しがっていたのはロマだ、と思いだし、彼のお金ではないかと思われた。

 階段を下りるほどに点々と、物言わぬ彼の身体からこぼれおちたと思われる硬貨が続いた。取り上げて拾ってみると、僕は彼の襲撃の現場に来ただけだというのに、何だかお金持ちになったみたいだった。他の子供はみんな血の勢いに驚いてよく見もしなかったみたいだけれど、拾い集めてみると、僕の歯の値打ちを超えてしまった。僕の歯の二、三本を買おうとしていたような金額で、いよいよロマらしく思われたけれど、こんなお金をたっぷり持っていったい僕から何を貰うつもりでいたのだろうと思うと何だか笑えて来た。きっと僕の尻の肉だ、と僕は自分を慰めるみたいに、つい口にだして言った。

 僕は彼の残した形見を、おもちゃで遊ぶみたいにつぎつぎと拾い集めて行った。階段をすっかり降りる頃には僕のポケットにみっしりと満ち、昨晩マトヴェイに貰ったぶんのお金とぶつかってぱちぱちと音を立てた。最後に拾ったお金は銀色の硬貨で、女のひとに見える豊かな髪の偉人が横を向いていた。僕はまるで鏡を見るみたいにしばらくその顔に見惚れた。僕はこんな姿になりたいというより、なる義務があるのだと思い、そして当座の自分の義務としては、僕のすむ家を維持しなくてはいけないことを思い出し、あといくらあれば次の支払いに足りるのか、家に戻って調べなくてはいけないと明るい道を急いだ。

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