汚い鏡
merongree
前編
僕への執着の仕方においてその子は特別だった。その特別さの嵩のぶんだけ、僕が、その子を特別あつかいしたということはなかったけれど。彼の、あの特別さはその当時僕にとって、檸檬を齧るみたいになんだか新鮮だった。だからたまに思い出す。つぶった目の裏側に漂う、強い光線の痕跡としてただよう影を見るみたいに。好きとも嫌いとも感じることなく、自分の身体についている怪我の痕跡の痛みみたいに、ある特別な震えとして愛している。
でもどんな傷だろうと、最後はその痕跡を肌のうえで見失うように、彼の姿かたちもだんだん僕のなかで輪郭を失ってきている。そのことに、僕は自分の背が伸びてしまうことに抵抗しないのと同じように、今のところ何ら抵抗はせず、ただ見守ることにしている。彼はしだいに僕のなかで人間ではなくなり、あの僕を見つめていた目の、奥でしずかに軋んでいた歯車の音になりつつある。
また僕に触れるのをためらって、まるで彼じしん胸の奥で紐で縛っているかのようだった、あのしずかな動悸の音にも変わりつつある。確かに眼の前にあった彼の色彩や手触りは、その丸い記憶から剥がれおちるようにみるみる失われ、それらを受け止めていた僕の暗い筒のような身体のなかで、しんしんと降り続ける闇の一部になって収まっている。
いずれ見たものも聞いたものもぜんぶ、食べたものみたいにまるごと消化してしまうんであろう僕の、僕に無遠慮な身体の奥から、あえて彼という体験だけを拾い上げて、名付け直すことを僕は考えたりはしない。でもこんな風にときたま思い出す、それは僕が何度も経験しそうになった、僕の死にたいする僕が自分に許している抵抗の仕方だから。
彼との体験を思い出すとき、僕は彼に望まれたように僕の生がありえたことを想像する。そしてこんなに硬い手触りで、僕が生活していることが、そのときに起こった脱線事故の続きのように感じ、かろうじて受け入れることが可能になる。彼は僕にこんな風に利用され続けることに抵抗はしないだろう、僕に死なされたっていいぐらいに僕が好きだったのだから。
僕はあんな生活が出来ていた頃だったので、すべてがまだ背が伸びる前のことだったと思う。だから十二、三歳だったと思うが、僕ははっきりと自分の年齢を確かめたことがない。必要になるのはいつも見た目の年齢だけで、それは外套のように僕から引きはがすことが可能なもので、必要に応じて余計に増したり減らしたりしても良かった。
年齢は僕の裸ではなく、僕の外套だった。僕はただ生きて行くために、他人の視線を必要とした。そのためにはみすぼらしい、孤児のかっこうではいけなかった(そういう場合のほうがもてる場合もあるけれど、他人が孤児に払うお金なんて本当にしけたものだ。僕はより多く得るために努力することも、それで成果をあげることだって出来た)。
僕は娼婦をみてその格好や化粧の仕方をことごとく真似た。彼女たちのけばけばしさは、よく個性的だと見間違えられるけれど、それはよく見れば臆病さを感じるほど、何かに忠実な模倣だった。彼女たちが流行を作ったと言われることもあるけれど、それは決して彼女たちの方法が創造的であったからではないと思う。彼女たちの化粧は伝染病のしるしのように明るく不吉で、また誰の顔も同じように爛れさせてしまう単純な力強さに満ち、要するに誰にでも行える、病気に罹って起こるぐらい単純なプロセスであったから流行ったのだと思う。
なにしろ男の子であった僕でも、彼女たちの真似さえすれば、外套を羽織るみたいに自分のやせぎすな正体を包み隠すことが出来た。もともと母親似だったけれど、ともすれば眼ばかりが目立つとげとげしい顔立ちも、彼女たちを真似て甘ったるく力強い線を重ねてしまえば、猫が猫に見えるように女の子の顔だちに見せることが出来た。娼婦として見られるうえでとくに大事なのは、特別に見られることではなく、群にいる動物らしく見られることだ。
娼婦として生きる上で、僕は有利だったのか不利だったものか。身体がもともとそれ向きではないということはさておき、顔は特徴的すぎて重荷だったと思う。僕はもともとの顔だちが派手で、顔のなかに指輪を嵌めているみたいだったから、化粧によってはその血の匂いのするような特徴をうずめてしまう必要があった。そしてただ地味に見せるのではなく、何とか十六、七の少女らしく見せなくてはいけなかった。大人用にあつらえられた外套というものは、子供の丈に短く切ってしまったとこで何だか煙草を子供が加えているみたいに不格好なものだ。
僕の眼鼻はまさにそれだった。子供が持っていてもどうにも似つかわしくないのだ。それに男の子のものというより、どうみても女物のそれだった。それも、子供を産んだ女のような眼が、幼い僕には予め備わっていて、それが僕の年齢がはっきりしない理由の一つだった。幼いときから僕のそばにいた人たちでさえ、僕がいったい何歳なのかと思いながら僕を育てていたのだ。彼らの記憶のなかにいて、彼らを見る僕の眼は三つやそこらの子供のものではない。お前がひどくやけどをしたあの時、お前は一体いくつだったっけねと人が言い、僕の親も含めて誰もそのことをはっきりと答えられない。
しかし僕は、自分が大人用の外套を着て生まれたことを、こんなおびえたような大人の反応から教えられてゆっくりと理解していき、そのことを過剰に恐れたりはしなかった。いずれ僕には相応強い年齢というものが来る。初めて名前で呼ばれるみたいに、そのとき僕は自分じしんが何として生まれたのかが分かるだろう。
でも問題はそれが分かるより前にも人生があり、僕は自分を他人に許させて生かさせなくてはいけないということだった。僕は自分が、自分の身体の名前のように与えられている年齢に到達するより以前に、僕を生かすために適当な年齢に自分を見せなくてはいけないと一人で生きることになったときに知った。そのときから一生懸命に、それまで遊びでしていた化粧をし始めた。自分を生かすために役に立つと分かったから。
僕は自分を生かすために娼婦になり、化粧をし始めたと言ったけれど、それ以前の赤ん坊のころから続いている生活というものもあって、そのときから化粧はすることはしていた。そうは言ってもたわいなく、おもちゃをいじるように僕がしていたことの一つにすぎなかった。僕の顔というのは母親似だと話したけれど、似ているなどというものでなく瓜二つで、僕は自分が母の雛であると信じて疑わなかった。男の子が自分をすぐに戦わせ、英雄であると誤解するみたいに、僕はしょうらい大きくなったら母の姿になるものだと思い込み、望み、信じたし疑わなかった。男の子たちが木や石を持って戦うみたいに、僕は自分を鏡のまえに座らせ、母のように髪を結った。
僕と同じところに住んでいた女の子たちがおもちゃにするみたいに僕を着飾らせ、僕を女の子として扱ってくれたので、僕はますます得意になっていった。僕のお母さんもまた、生活のありとあらゆることにそうだった、あの無感動な態度を保持しながら、僕の女装をたまに手伝ったりしていた。
僕の名前も、物ごころついたときには女の子の名前で呼ばれていた。おそらくお母さんは、僕が男として成長してしまう未来を消極的に拒み、女の子になってしまうことをどこかで願っていたのだろう。僕を小さな女の子の姿に葬る呪いみたいに、僕を着飾らせ、僕を女の子の名前で呼び愛した。僕は、僕を取り巻くひとびとに可愛がられ、僕のこの日々に何の疑いも持たずに過ごした。幸福と名付けても全然いいころだったと振り返って思う。
七歳ぐらいの頃、他人が勝手に僕のこの生活に名前をつけた。いまだに誰だか分かっていないのだけれど、僕を本物の女の子だと思い込んだ誰かに誘拐されそうになり、殴られて失神している状態のところを見つけられた。
僕を見つけた、僕と同居していた女の子は顔が血だらけになっている僕をみて死んだものと思ったらしい。凄い悲鳴をあげられて僕は死体のようにけたたましく取り上げられ、早速調べられたけれど実際には一命は取り留めていた。顔に酷く痣が残ったぐらいで、あとお腹にも踏みつけられた痕があったけれど、そのほかは無事であるといことが調べられて分かった。
犯人は男の子には用事がなかったのだ。何故だかそのとき履いていた靴が片方出てこなかったので、あるいは足の先ぐらいは彼の気に入ったのかもしれないのだけれど。
僕は鏡をみて悲嘆にくれた。僕にとってその事件とは、女の子に間違えられたということでも、殺されそうになったことでも誘拐されそうになったことでもなく、ただ単に顔をひどく傷つけられたというだけのことだった。殴られて折られた歯は子供の歯だったから、またすぐ大人の歯が生えてくると慰められたけれど、子供の顔に残った痣が大人になっても残るのではないかと心配だった。
大さわぎする僕を鬱陶しがったおばさんの手助けで、湿布を当てたり氷水で冷やしたりしたけれど、鼻から眼のふちにかけて紫色のうすい影がどうしても残っていた。僕の心配はたかだか僕の顔の痣のことだったけれど、周りの大人の心配はそれとは別で、僕の存在がそんな風に彼らの生活に、突然の闖入者を招き、警察まで招いたりして騒々しさのたねになるという発見であるらしかった。
泣きべそをかいている僕は慰められるように隔離され、他の女の子たちやお母さんと共に寝る部屋で寝なくなった。僕は残されていた鏡のまえで、お母さんの化粧道具を持ち込み自分を白く塗った。誰にもその作業は邪魔されず、僕が大人しく声を立てずにいるという点でその行為は薦められるものですらあったと思う。
僕にとって最初の化粧は、他人に見せる自分を創造する行為ではなく、むしろその逆だった。他人に見つけられないようにと取り計らわれた独房のなかで、もはや自分しか見なくなった自分の悲しい顔から、自分の見たくない部分を隠ぺいするための小さな作業だったのだ。それが全くの逆になろうことなど、あの紫の痣と戦っていたといには全然考えもつかなかった。
それから僕が恋人を作る事件を起こし、いよいよ最初の事件ですら僕が他人を誘惑したかのような、そんな言い方さえされて、お母さんは僕を布でくるんで人目につかないようにしながらその家を出て行くことになった。それからお母さんとその恋人と僕との生活が始まり、僕とお母さんとの二人きりになり、それからお母さんを死によって失い、僕は一人で生活せざるを得なくなった。僕はお母さんが病気で動かなくなってから、お金を支払わなくては他人の家に住めないということを教えられて理解していた。
お母さんが死んだときには僕には何のお金もなく、ただ遺産みたいに彼女にそっくりの顔だけが残った。お母さんが死体になった瞬間から、僕はその顔がもはや死体のもので、彼女じしんのものでは永遠になくなったことを見て知った。その瞬間にまた、僕は僕じしんの、僕だけの秘密のように、僕だけの顔というものを手に入れてしまった。
もはや母と切り離されて、次第に成長していく僕の顔は誰に似ているものでもなく、僕じしんの創造物というほかなくなった。母の雛として生まれたかった僕が、母になる道を見失ったときに感じた恐ろしさは他の言葉でうまく言い変えられない。もしも母が生きていてさえくれていれば、僕は毎日母そっくりに化粧をしたと思う。でももはや母のない僕は、自分を何者にするかを自分で決めなくてはいけなかった。
もはや母になれない僕が選んだのは、彼女がとてつもなく嫌っていた娼婦に、自分の顔を似せることだった。失っていく記憶が現実に近づくことが永遠にない以上、記憶のなかの母に自分を似せようとして、どんどん違うものに自分を近づけて行く滑稽さを意識して自分で回避したのだろうと思う。僕はあえて彼女とは全く違うものに自分を近づけようとした。
またそれで母になる道を失った僕が、別の人間として生きて行く未来を受け入れようと試みていた。僕は自分の生活を創造することを一度放棄して、他人の生活の模倣をすることで、ともすれば自分を殺してしまいたくなる意識から自分を逃がそうとしていた。どうしてそれほど自分に自分を殺させまいとしたのか、はっきりとは分からないけれど、強いて考えるなら、お母さんの意志を継ごうとしたように思う。
お母さんは必ずしも僕に積極的に生きていてほしかったわけではないし、むしろ消極的に葬っていた感じもしたけれど、僕を生んだ以上は僕を育て、出て行くときも僕を連れ出して僕を生かしてくれた。自由、自由になる、ということを、教えるでもなく自分で服用する薬のように口癖に言い、金持ちでも貴族でもなく、環境から自分を自由にできる人間が一番えらいのだ、と僕に言ってきかせた。
僕は母によって与えられた、母の死という関係から自分を羽ばたかせたかった。僕の顔を何かに変えなくてはいけないとなれば、ここから生きていかれる人間の顔にしたかった。母の顔をあきらめるならば娼婦の顔が良かった。そうして強引にでも僕を生かすことが、すなわち母に似ることのように最後は思われたのかもしれない。僕が無我夢中でとっていた行動の奥にひそむ理由にたいする、願望を含んだ推測だけれども。
死者には棺というものがあるし、胎児にはまだ顔もみない女のお腹があるし、何にでもそれにぴったりの器というものがあるものだ。また胎児がお腹を蹴飛ばして女のお腹に痕をつけるみたいに、中にいる人間がその容れ物を変形させることだってめずらしくない。僕が、さいしょはお母さんとその恋人と三人で住み、それからお母さんと二人で住み、最後には僕ひとりになったそのアパートも、僕だけになったことで何だか顔かたちをそれらしく変えたように思う。部屋のなかに冷たい池でもあるかのように寂しく、寒々しくて、またその小さくて暗い池の面に、その部屋のなかを歩いている人間の姿が映り、それを見ている他人の目によって絶えず非難されているような空気が立ちこめていた。
支払いの期日になると、子供の僕がつかんで持ってくる何ともいえない不気味なお金を、大家のおばさんが黙って受け取っていた。痩せぎすでオールドミスのあまり気持ちがいいと言えない女のひと。おばさんというよりはお姉さん、と言ってやるべきだったかもしれないけれど、僕がその部屋を貧しくしているのと同様、彼女の内面が彼女の持つ外面を物寂しく見せていた。
僕のつかんできたお金を受け取りながら、馬鹿みたいに「あんたお金あるの、」としばしば彼女が尋ねる。僕はわらって、彼女にたいする意地悪なサービスのつもりで「ないよ、」と言ってやる。彼女は子供の僕を働かせて持っている部屋が、自分の財産に一つあるのがわずらわしく、願わくば僕に救いの手を差し伸べたがっている。そんなことは僕にはよく知れていた。
しかし彼女の援助を受け取ってやる気はさらさらなく、僕はなかば彼女にたいする当てつけのようだと自分で感じつつも、彼女には絶対に出来ない方法でお金をねん出し、彼女にたいする自分の独立を勝ち取っていた。この独立の方法は具体的にはとても困難で、化粧のように簡単に真似できることでないことを、僕は娼婦の女たちから学んで実行しなくてはならず、殴られるのとは違う酷い痛みや失神をいつも伴った。
でも、それぐらいの苦痛があることでなければ、飽きもせず僕はほんとうは要らないとまで言われているあの苦行を続けられなかっただろう。そしてあの苦しさのなかでも、次第にうまくやる方法を僕じしんが体得し始めて来たことも、僕があれを継続できた理由の一つではあった。
僕は平凡に、他人からお金を受け取ることしかできない、この大家の女こそ僕よりよっぽど哀れむべき不自由な人間と見ていた。僕は堆い苦痛のなかから取り出した、僕の自由をぴかぴかに磨く過程に没頭し、失神し、復活し、次第にうまくやる方法を自分で独創するまでに至った。
お金、お金! それは娼婦よりも、あるいはお母さんや僕の世話をしてくれた女の子たちよりも、それまで僕が手に入れた味方のなかでももっとも強力で素晴らしいものだった! 何しろ死んでいなくなることがないし、心変わりして僕の手のなかにありながら敵になってしまうこともない。いつもきちんと、そこに刻印された値打ちのかずのぶんだけ、正確に僕に忠実であってくれる。そして僕の代わりに他人に向き合ってくれ、僕を他のひとから自由にしてくれる、素晴らしい僕の兵隊。彼らは常に誰かの所有物であり、どこかの家の軒下に収まっている。
僕の家に彼らがいないのは、他人の家に留まっているしるしでもある。僕は他人のもとに赴いて、彼らを他人から引きはがして連れてこなくてはいけない。そのためには僕は自分の家に留まっているわけにはいかない。
だから、あの大家さんの目ざわりになるぐらいに、僕は出かけていってはしばしば他人を僕の家に連れてきた。でも、誰か他人と寝ていると、あんまりその家が僕だけのものであるという気がしなくなるから、なるべくなるべく僕は他人の家で済ませて、お金だけを持ち帰るように心掛けていた。だから、なるべくお客さんを捕まえるところは、遠いところが良かった。自分の足で歩けないぐらい遠くにいって、僕の身体を投げ込んできて、外套を脱ぐみたいに身体を脱ぎ捨ててお金とだけ帰って来ることが出来たらどんなにいいだろう。そんな風にも考えたりした。
僕は彼女にお金を払って借りているその家を、朝になるとふらふらと出て行く。それから昼間のうちは教会のまえに行って寝て過ごす。その辺りにいる他の浮浪児と紛れるためだけの目的で。目印に僕は真っ赤な毛布に身体をくるませて寝ている。目立ちすぎないぐらいに化粧をした顔を、毛布からそっとのぞかせていると、分かるひとには僕が特別な品物だとすぐに見分けがつく。あるいは僕じしんがそれだと分かっていないと考える大人もいて、僕にお菓子をくれると言ってくる場合もある。その場では僕は他の子供の目をはばかり、いきなり彼に飛びついたりはしない。でもそんなことをしなくても、お互いにそれと分かる目印の付け方がある。
僕は夕方になると、約束した大人の誰かとの待ち合わせに出かけて行く。だから教会の前では寝ない。そこは僕にとって単に他人と出会うための場所にすぎず、また他の浮浪児と違って自分の家というものがある以上、わざわざ誰に何をされるか分からない屋外で野宿する理由もないから。でも、他の子供と打ち解けず、浮浪児のひとりの振りをしていた僕は、彼らからは、寝ている間に彼らに小銭を奪われることを恐れて身を隠している、とても臆病で守銭奴の人間だと理解されているようだった。それで、僕はべつに良かった。
また僕には信仰心を教えられたことはなく、毎日訪れていながら中に入ったこともない教会に、格別な思い入れはなかったのだけれど、過去にもった恋人のためにたしょう、僕のその生活をそこですることに後ろめたさがないわけでもなかった。僕が前に住んでいた家を追放されるきっかけになったのは、カールという口のきけない男が、僕をやはり女の子だと思い込み、暴力をふるって恋人にしていたためではあるのだけれど、彼は決して僕にたいして悪意があってそうしたのではなく、自分が尊敬する友達に教えられたことを忠実に繰り返して、思い出のなかにいる彼の友達に親しもうとしたのだった。カールが本当に心から愛していたハンスという友達は、もともと口のきけなかったカールを他の子供からずいぶん庇ってやり、彼の運命の手綱を握っていたという点で彼にとってほとんど神か、その代理人みたいな人間だった。
そのハンスが、カールがある女の子に好意を持っていることに気付き、彼女を愛する方法としてその暴力を彼に伝えた。彼はハンスの言うことを忠実に実行し、女の子はその暴力に驚いて失神し、彼はまたそれを中止させようとしたハンスによって性器を切られたということがあった。ハンスは、他の子供たちのまえで、絶対にしてはいけない暴力とその結果のデモンストレーションとして、カールを利用したのだった。
また彼はカールについて「みんなのために犠牲になってくれた」という言い方で、彼を利用して他の子供がしそうな罪をかぶせたということを公言し、自分の犯した悪さえ包み隠さなかった。怪我をしたカールは予定通り罪人として、彼らが住んでいた家を追放され、彼を拾った老人の手で、他の子供と隔離されながら成人した。
彼はずっとハンスに認められたいという慾を抑えかねていたのだろう。二階から落下して泣いていた僕を、巣から落ちた雛鳥のように連れて帰り、彼の知る方法で愛した。彼のそれが、子供のときに切られたものであったために僕は生き延びた。僕ははんぶんほどのそれと、それなりに上手くやる方法を仕方がなく身に付けた。
彼は相変わらず成人しても口をきくことが出来なかったから、僕は彼の事情を、彼の震える舌や歯にゆびで触ることで確かめていった。それから、彼がハンスをいまだひどく愛していること、ハンスが彼にしていることが、彼が信じられないものに対してほんとうは発揮したい暴力を、仕方なく向けているものだとカールには分かっているということ、ハンスが神と教会を好きであるということなどが、彼の震える舌から僕のゆびに伝わった。
カールと僕が発見されたのは、カールが僕を土に埋めようとしたときだった。僕が逃げ出すことを恐れた彼が、他人の眼から発見されないようにと土に埋めようとしたので、僕は驚いて大声を出して逃げてしまった。カールは僕を殺そうとしたのではなく、単に隠そうとしただけのことだったのだが、同じ土地で他にも女の子が殺されて埋められていたので、カールがまたしても他人の罪を着せられて捕まった。
たぶん、僕にしたことと、彼が幼いときに女の子にしたこととを調べられた上でのことだったから、彼はもう生かされてはいないだろう。最初は断種されて終わったけれど、たぶん二度めは生かされていない。
僕は彼の死に、貢献してしまった部分が大いにあるけれど、彼の被害者として引きはがされてしまったから、彼が最後どうなったのかは全然知らされず関わることが出来ていない。せめて彼を苦しめたくないと思うのだけれど、彼をいじめたハンスにたいする抑えがたい憎しみもある。
僕はこの仕事をしなくてはいけないと決めたとき、することのためにどうしてもカールとの思い出がよみがえった。カールが僕を喜ばせようとして、僕に綺麗な小銭を握らせたこともあった。そのことで僕のお母さんは、僕が売春したといって物凄く怒ったものだったけれど、警察なんかは僕がすくみ上がって言いなりになっていたという説をまるきり信じ、僕がお金をよろこぶほどの余裕を持って怪物みたいなカールに接していたとは考えなかった。
のちに僕はまるきり、警察が考えなかったような、そしてお母さんが憎んだような生き方を選んでしまうのだけれど、そのときに僕が他人と出会う所としては、なるべくカールの思い出がよみがえるような場所は避けたかった。教会は正直に言って、カールがしきりにハンスを僕に説明しようとして持ち出した場所で、そういう意味で僕は遠ざかっていたかった。
それにこのなりふり構わぬ、僕じしん決して嬉しいわけではない、自分じしんと他人を捩じ伏せるような行動の舞台として、彼がその美しさを説明しようとしていた教会のまえというのは選びたくなかった。この街で他人と出会おうとして、もっともよく他人が集まり、そして浮浪児に身を紛れ込ませることが出来る場所といえば、中央駅のまえか階段のうえのこの教会だった。
僕は初め、前者の方に居てすぐに敵を作った。彼らがどうして僕をみていきり立つのか、その理由も分からないまま、僕は彼らのからかいや投石から逃れるために、彼らを防いでくれる長い階段のある教会を選んだ。長い階段があることをしきりに言い訳にして。また相手を選ぶだけの時間だけだと言い聞かせて、そこでは商売はしないことを自分に課して、夕方になると必ず自分の身体をそこから引きはがし、階段の下で自分が選んだ大人と落ち合うのを日課にしながら。
駅前にいた街の子供から逃れてきても、教会の前だろうと僕は定住すると他の子供にけむたがられた。僕がしていることをはっきりと分からないまでも、他の子供と違うことぐらいはやはり彼らの目につくのだ。僕が朝、ふらふらと階段を上っていくと、僕が寝床にしているところに誰かが尿をかけている最中だったりする。僕が怒ったり、彼らに殴りかかったりしても、僕はひとりぼっちだし彼らはだいたい複数でいるしで、喧嘩をしても身体に痣を作ったりするだけのことだった。
僕が過剰に悲鳴をあげることで、教会を訪れている大人が止めてくれることもあったけれど、あまりにひんぱんなので次第に彼らのうちの誰も、この浮浪児の小競り合いに関わるまいとするようになった。僕は誰か味方を作るか、あるいは無抵抗でいるかしか、自分に傷を残さない方法がなくなり、もちろん後者を取った。味方を作ってしまえば、彼をつなぎとめておくだけの力が別に要る。
僕はあの大家のほかに、与えることによって僕の良いようにつなぎとめておく人間を持ちたくはなかった。あんまり無抵抗でいても彼らがなかなか僕を解放しないときは、僕は大げさに傷ついた振りをして急にうずくまったり、泣き方を変えてみたりした。初めのうちこそ彼らは驚き、手をひっこめたりしてくれたけれど、そのうちに僕になぶられていると感じたみたいで、あるとき彼らが街から呼んだ加勢の子供たちに、手ひどく殴られる羽目になった。僕から何をしたわけでもなかったのに、彼らはもとから黙っていた僕の何を恐れていたのだろう。
あまり泣いて目が腫れて、あとで化粧するときに障ったりすることを恐れて、僕がふたたび毛布にくるまっていると、「僕が何者か分かっている」大人の手つきで、そっと毛布を引っ張る手があったから、せめてそういう他人が手に入るならばいいやと思って、僕が顔をあげると、そこに子供がいた。
いつも僕に嫌がらせをしてくる周囲の子供の中には見かけない顔で、栗毛色の短い髪に汚れた顔をしていて、街の浮浪児だなと直感した。さっき僕を殴ったり踏みつけたりしたうちの一人だろうと思って、とっさに何かしても良かったのだけれど、むやみに抵抗して身体に傷が増えるのを恐れて、僕はただぼんやりと彼の身体が動くのを眺めていた。棒きれみたいな僕の身体を引き寄せ、彼が口の端に噛みついた。彼が接吻したのだと分かるまでにしばらくかかった。
痛くなかったか、と、平然と彼はたずねた。周囲にいる子供は、たびたび僕を殴る。僕のかたくなな無言、睨みつけるような態度が彼らを怒らせる。黙っている僕をさらに黙らせようと、もっとひどい暴力をふるうことのできる仲間を彼らが街から呼ぶ。彼らの仲間が街から呼ばれて階段を上って来る、それで僕を殴る。その暴力にどこまで参加しているのか分からないけれど、そのあとで必ず彼だけが戻って来る。それから、僕に痛かったかどうかを訊く。
「まるで大家さんだ、」と、内心僕はあけすけに嘲笑してやるような気持ちで思う。僕から家賃のお金を引いておきながら、それがどうやって生産されるのかを見ていると胸がわるくなり、自分がその犠牲をよろこんでいないような顔をする。たんに搾取するだけの覚悟がすわっていないまま、何かの拍子で自分が恨まれるのではないかとこわがっているだけじゃないか、と僕は勝手に解釈していた。「痛かったよ、」と僕はしょうじきに言ってやる。
でも、彼はそのあとでどう、自分の行動を僕に説明したらいいのか分からないでいるみたいだった。きっと彼は接吻さえどうしたらいいのか、よく知らなかったのに違いない。他の仲間に紛れて、僕を殴ったり踏みつけたりした後、僕に何と言ったらいいのか分からず、僕をいたわる言葉すら考えつかず、ただ痛くなかったか、痛くなかったか、とばかりうつむいて繰り返すので、僕のほうが次第にくだらなくなって笑ってしまうのだった。僕が笑えば、彼は自分が赦されたと誤解して喜んでもよさそうだったが、さすがに僕は自分を殴った相手にたいして平然と笑うことは出来ていなかったらしく、僕が声を立てると何だか彼はかえっておびえたような顔でそっと僕を覗き込むような顔つきをした。
後から彼が非難されるもとになる、僕たちの逢瀬というものは実際はこんなもので、彼はやって来ては困惑し、僕からの言葉をのぞみ、僕が彼の質問にただそうだと言ってやるだけのことだった。僕のほうでもべつだん彼にそれ以上の関心がわくはずもなかった。浮浪児がお金を持っていないことなんか火を見るより明らかだし、ただはねつけることで余計な波紋が僕の生活に訪れるのを消極的に拒んでいるだけのことだった。
彼は僕に、彼らに加わるなとも言われず、また自分で加わるまいともせず、たびたび頼まれてやってくる襲撃に加勢し、それから決まって引き返して詫びるでもなく、見舞いに訪れた。
「べつに痛くもかゆくもないよ、」といつもの通り言ってあげたあとで、「きみが子供だから」と付け足して説明してあげたことがある。子供に殴られるぶんには、べつに気絶はしないのだ。殺す気で殴っているわけでもないから。
「それに、もし気絶するほど殴られたとしても、お金を持っていない相手に嫌われたところで僕は怖くなんかないね」と説明した。彼は僕の仕事を理解していなかった子供らしく、どうしてかと尋ねてきた。だから僕も正直に言ってやった。
「僕がここにこうしているのは、僕にお金をくれるひとに会うためだから。そのひとに気に入られることのほかは全部何だっていい。きみたちに好かれようと嫌われようと、そのひとと僕との間に起こることには何の関わりもないもの。僕がここを使うと決めた以上、きみたちが何をしようと僕がここからいなくなることはないよ。僕が待つひとが僕に会いに来なくなること以外に、僕が怖がることなんかない」
彼は、とてつもなく悲しそうな顔をした。僕は自分についてかなりあけすけに喋ったものの、あまりにも自分の生活と何ら関わりを持たない彼について罵った気は全然していなかったので、彼のそのいかにも打たれたような顔つきは意外で目を見張った。
「じゃあ、もし俺がお前にうんとお金を持ってきたら、お前、俺のこと怖がるのか」
彼には慰めがいる、と思った。僕は子供ながら当時の生活のなかで、慰めの要る人間の真剣さ、というものにしばしば衝突して恐れを感じることがあった。彼らというものはまあ何と熱く、傷だらけで、周囲を自分の苦しみに感染させて巻き込むことに抵抗がないものだろうか。彼は、僕に気に入られたいという自分の希望さえも理解しておらず、ただ真似ごとみたいな硬い接吻をし、僕に自分が他の子供と違うことを分からせようとした。そのうちに自分の本意を、僕に怖がられたいことだと綺麗に誤解してしまった。
僕はこの理解にいまさら手を出すつもりがなく、また実際手の出しようがないということを分かっていた。もはや彼に、それは僕に好かれたいということなのだと教えてやるような気にもならず、ただ彼に向って「うん、」とだけ言った。彼にたいして僕がしてやれる慰めといえば、彼の望むとおり彼を怖がってやるということと、そのことによって彼が幸福になれると思わせてやることばかりだった。実際それは錯覚ではなく、殴っている僕が無抵抗に無感動にやり過ごそうとするのでなく、きちんと彼を怖がるそぶりをしていれば、彼は幸福になり得たのかもしれないけれど。
「うん、」と頷いたあとで、僕は彼に向って、僕のその肯定が自分の決意であることを自分に確かめるみたいに、言葉を付け足して話した。
「でも、それならほんの少しのお金ではだめだよ。ほかのひとがくれるぐらいのお金じゃ、僕はきみを怖いと思ったりしない。もし僕に持ってきてくれるなら、本当に僕が震えあがってしまうような、見たことがないぐらいたくさんのお金を持ってきてね。いままでに誰もくれたことがないぐらいに。そうしたら僕、きみを一番怖がると思う。きみを失うぐらいなら、自分のゆびだって切り落とせると思う。きみのほかに何にも怖いと思わなくなるぐらい、たくさんのお金を僕にちょうだいね」
きみを一番に怖がる、と言う言葉を言ったとき、彼が一番になるために頑張ってくれなくてはいけない、と僕は心のなかでもちろん考えた。僕はこれを彼とだけの約束にせず、僕の周囲でひそかに僕に手心をくわえてあまり痛く殴らなかった、僕と親しくしかねていた子供に早速同じ約束をした。それから僕にたいする嫌がらせをまだ出来ない、幼い浮浪児をつかって噂を振りまくように仕向けた。彼との約束を反古にしたようなつもりは全然なく、他の子供も参加しなくては彼が約束を実行できないと考え、むしろ彼に親切にしたようなつもりになっていた。
他の子供の会話から、とくに彼の行動に関することを分かれるようにしたいと考え、浮浪児の小さい子供に「あの男の子の名前は何ていうの」と尋ねた。僕という嫌われ者にたいして、軽い静止が彼らの間で働いたのをみたのは面白かったけれど、その制止のなかからロマ、という声がした。頬に噛みついたりされながら、また怖がると約束していながら、彼の名前を僕は分かっていなかった。彼が僕の畏怖を買うためにたくさんのお金を運んで来られるかどうか、その想像の素材になるまで彼は心底僕にとってどうでも良い存在だった。
具体的に彼が頑張れるように、僕は考えていままで始めたことがないことを始めた。子供を相手にするということ自体、僕には発想がないことだったけれど、彼らは集団になったり他に負けまいとすると、相手を凌ぎたいというただそれだけの理由で非常に頑張ったりすることは、かずかずの小競り合いに巻き込まれるうちに僕が経験的に理解していたことだった。僕は子供には売らなかった自分の身体を、部分的に売ることを始めた。ゆびいっぽんが二十ドル、奥歯を五十ドルで売りに出した。
彼らが一日ねばって、一ドルも集められないことなんかは分かっていた。要するにこれは他人から奪えということだった。お金が欲しかった以外にも、彼ら同士をぶつける仕組みにしたところに、当時の僕の考えがよく現れていると思う。僕は彼らがお金を持ってくることも期待していたが、それ以上にそれまで僕に向けていた敵意を、彼らの間で発散してくれるように仕向けたかった。そして手に入れることが困難になるほど、僕の値打ちが彼らの間で上昇することを期待した。
もちろん、誰も僕を買ってくれないのでは意味がない。僕はお前だけは無料にしてやると言い含めて、僕に関心を持っていると分かっていた子供に、仲間の見ている前で僕のゆびを買いに来させた。僕はさも彼から受け取ったようにお金を捧げ、彼らのまえで大げさに数えてみたりして、確かにぴったりそろっていることを確かめると、身体ぜんたいで声をひそめるような仕草をして彼をさらに近くに呼び寄せた。
階段のうえに座っている僕に、このときばかりは彼が糸のついた人形みたいに引き上げられ、従順に寄って来るのを見て、僕は自分じしんの力というより、僕がふだん自分を生かすためにやっているあの売春行為が、僕に加えた力の意外な側面を見たような気がした。
彼らがするように僕は他人を殴ったりしないが、あれをやっていることで僕はこんな風に彼らに恐れられるような、まるで大人の贋物みたいな力を彼らに向かって振るうことが出来るらしい。僕はそれこそ処女を扱うみたいに、僕の振るう力に何の抵抗も見せない子供を自分のところまで引き上げ、それから彼に口を開けるように言った。
彼が大人しく口を開けるのを、僕を殴っていた彼の仲間がまるで承認するみたいにじっと階段の上や、途中にいて見守っている。何と滑稽で自然なんだろうとおかしくなりつつ、僕は彼の口のなかにゆびを入れた。口を閉じて、というまで、彼は唾液を口の端から垂らしつつ正体のない影のようになって突っ立っていた。
僕は、こんなに無抵抗なものが自分に立ちふさがっているものの正体になったことがおかしく、ちょっと笑うことを我慢できなくなりそうだったけれど、促して僕のゆびを咥えさせたのち、ゆっくりとそのなかを掻きまわして、それから突然喉の奥を突いた。その子は無感動に階段に背面から倒れ込んだ。彼は自分の身体を支えることをすっかり忘れていた。その姿の滑稽さが子供たちの爆発的な笑いを誘い、その笑いの勢いが僕を彼にたいする勝利者にした。他の子供はみんな自分ならば上手くやると思ったらしく、自分が僕を買うと言ってそれぞれの巣穴に飛んで帰った。でもつぎの挑戦者はしばらく現れなかった。幼い子供の話では、その日金を掴みにいった子供は互いに奪い合って淘汰されてしまったらしく、喧嘩になって誰もひとりで階段を上がりに来られなかったようだった。それで僕には、全然良かった。
僕の目的は、あくまでもロマに正直に言ったとおり、僕にちゃんとしたお金を払いに来る大人にめぐり合うことであり、その間に自分の商品である身体をむやみと傷つけさせないこと、痣や何かを残させないようにしておくことだった。彼らの一部が喧嘩するうちに、僕という商品をさておいてすっかり険悪になっているらしいのは良い気味だった。彼らが険悪になること、彼ら同士がつぶし合って淘汰されていくことに僕に異存があるはずもなかった。
またそれほど仲間割れに至っていない連中でも、僕のゆびを買うために苦労することで、僕への執着を深めていっているようなのは傍目に見ていても面白かった。ただ僕を殴ることでうまく発散されてしまっていた、正体のわからない僕にたいする関心が、僕にお金を持ちこむ形で凝ってくれることにやはり異存はなかった。早く彼らの関心が金になればいいのにと思いつつ僕はしばらく夢のような平穏を過ごした。彼らとのやりとりが大人との間には何ら関係がないのだ、とロマに言ったのもやはり本当で、彼らとそんなやりとりをして平気で寝ている間も、僕の顔をみて僕に約束しに来る大人というのはやはりいた。そして大人に抱かれて階段を離れて行く僕を見て、やっぱりそれだけたくさんのお金を払いに来る人間がいるのだ、という噂が立ったことは、やはり僕の利益になった。
とうとう僕の歯を買う子供が現れた。歯を買うだけのお金を手にしてきた、子供が。僕に向かって早くしろ早くしろとせがんでいたところを見ると、まだ僕に渡した時点ではほかに持ち主のいるお金だったのだろう。僕はいつも通り、受け取った後で合計金額を念入りに改めた。絶対に小銭が混じるものだから、慎重に数えないといけない。浮浪児の一人が独力で貯められるはずのないそのお金は、いつも誰かの手から強引に奪い取られた痕跡を残していて、まるで彼らそっくりで汚かった。彼らの飢え、争い、希望のなさを描いた短い絵みたいであり、彼らが何をしているのかを紙幣が僕に大声で、でもひっそりと密告しているみたいで手にするのが面白かった。最初こそ、仲良く僕にひどい言葉を投げ、石を投げつけていた彼らであったのに、今や彼らは貧しい以上にもう一つ別の病をそろって背負って苦しんでいる。
でも、発症したのは彼らであり、たとえ僕が火をつけたにしても、あかあかと燃えている彼らの身体に、生活に、たっぷりと燃えるだけの脂があらかじめ染み込んでいたのだと思い僕は罪の意識をなんにも感じない。それ以上に、彼らをこのようにしたのが僕のささいな歯やゆびであるということが面白く、僕はその快さに浸るためにとてもお金をゆっくりと数えた。彼らにしてみれば僕がすこし彼ら脅しているようにも、見えたかもしれない。
それにしても紙幣と比べると硬貨というのは、彼らにいかに乱暴にされてもその外貌を崩すことなく、冷たい鏡のように輝いていて、僕にはむしろ硬貨の方がえらいもののように感じられた。それは雌の貨幣であるように思われた。横顔を彫られている人間たちは、みな豊かな髪を女のように凝った纏め方をしていて、鈍い鏡のような丸い金属のなかにぼんやりと描かれると、豊かな乳房をもった女神のようにも思われた。女の子の人形遊びが好きだった僕は、硬貨の方をいちいち愛着をもって取り上げたり眺めたりしていたけれど、彼らには僕がいかにも用心しながら数えている仕草に思われたらしく、ふいに不安になったのか怒ろうとしたり、またそのことで僕の機嫌を損ねたら困るとばかりに途切れるように黙ったりした。
ふと夥しい硬貨の群れを見て、誰かが僕への贈り物のようなつもりで綺麗な硬貨をくれたのかとも思ったが、これはうぬぼれの強い僕の想像の失敗にすぎなかった。彼らは商品の僕を獲得したいとは思っても、誰も僕を喜ばせたいなどとは思っていないことぐらい最初から明白だった。散々の喧嘩の季節のあとで、僕は彼らの間で深い憎しみの対象になり、彼らのうちの鈍感なのがそれを愛着と間違えているといった具合で、誰も僕から関心を買いたいなどとは思っていないのだった。そんなことを最後まで考えていたのは、「僕に恐れられたい」と願い続けたあの頭のわるい子供だけだっただろう。
かわいそうな僕のロマ、彼の名前よりも、あのくぐもった喉の音や、怖々と触れてくる手つきのことばかりが、彼の名前みたいにはっきりと頭のなかを過る、僕に恐れられたかったかわいそうなただの子供。僕のお客さんにならなかった子供。
この、とうとう現れた歯を買いに来た子供、というのは誰だったんだろうか。ロマでもようやく名前を訊いて分かったぐらいなので、僕はあんまり他人のことをいちいちわきまえてはいないのだけれど、ロマでなかったことははっきりしている。
それから、そのときえらく天気が良かったことも覚えている。何だか血のように青い空が広がっていて、僕はとうとう現れた歯を買いに来るだけの略奪をしてきた子供に、何の感興も湧かずにただ向かい合っていた。正確に言うと、彼でなく彼の背後にそびえるように流れている青い空を、まるで血を流して横たわっている動物の血管の透けた腹のように眺めていたと思う。
それは僕にたいして想像という形でなく、空がそのように擬態しているかのように起こっていたことだった。僕も動物を見ているような気分であることを不思議に思うぐらいの神経の震えがあり、真っ二つにされた丸太の断面を見るようだ、とも自分で思い直した。
僕は、目の前の子供を突き飛ばすことが出来ても、自分が全然相変わらず無力であるということを、このそびえるような青空、何者かの死体のように動かしがたいこの真っ青な幔幕を見て感じていた。僕がたとえばこの子供をここで殺害しようとも、僕は自分にそのつぎの瞬間から起こることに何の影響もくわえられないだろう。何だかそんな気がして、僕は今からしようとしている征服がふいに馬鹿馬鹿しいものに感じられた。
話してきたとおり、僕は彼らの競争心をあおることで、僕に対して征服慾を起こさせ、僕の値打ちを彼らの間で上昇させることに仮に成功していた。誰も僕に好かれたいとは思っていなかったけれど、僕を手に入れたいと願っていることは確かで、彼らは僕を手に入れるための苦労を惜しまず、せっせと仲間割れもしていた。ここまで上がって来る者は、少なからず他の子供から略奪してきた、小さな征服者だった。
その征服者が、この階段を上がって来るときばかりは、不思議と大人にたいしてするように従順になる。僕は自分を強い者にしてくれるこの舞台装置を有難いものに思ったりもしたけれど、この歯を売る段になって何だか凄く馬鹿馬鹿しく思えた。僕の無気力さは見ている彼らに伝わり、僕を買おうとした彼は自分が弄られているように思ったのか、結構怒っていることが伝わってきた、あくまでも僕の機嫌を損じない程度にだけれど。
僕は確かに彼から受け取ったお金が足りていることを確かめると、彼をそっと手まねきした。ゆびを買った連中がみんな突き倒されていることを分かっている子供たちは、歯であればいったいどんなことになるのか、固唾を呑んで見守っていた。大半が、彼が無残に弄られて死体にされることを期待しながら。
僕が彼の首の後ろを掴んでいたので、子供たちはいっしゅん僕が彼を締め上げているものと期待したらしかった。喜んで僕の方を覗き込んだ連中が、僕が彼に接吻しているのを見つけて酷い悲鳴をあげた。僕はまるで石になったみたいに硬直した彼の身体を掴み、強引に自分の口元を押しつけ、舌をその口のなかに入れた。
彼が全く何も分かっていないのは明白で、だから身体をまさぐるのとほとんど同じぐらい馬鹿な苦労をしたのだけれど、舌で触って促してやるうちに、ようやく彼の舌が僕の歯に触れた。僕はさらに彼にだけ分かるように合図し、舌の先で僕の奥の歯に触れるようにと促した。
子供たちは僕が彼にしていることを見て、理解が出来ずに泣き叫ぶみたいな声をあげていた。僕にはあんなにもあっさりと、ある日突然降りかかってきたあの暴力から、どうしてこんなにも遮断されて守られている子供たちがこれほど多くいるのだろうと思うと、僕はふいに彼らが妬ましくも感じられた。名前の分からない、ただ硬直している男の子である彼の舌が僕の歯に触れようとした瞬間、僕は彼に応えるみたいに彼の口の端を噛んだ。その痛みに抵抗しようとした彼があおむけに倒れた。歓声が噴水のように起こって、目の前の青空が真っ二つに割れたような感じがした。
久しぶりに誰かに蹴飛ばされて目が覚めた。僕はあんまりしばらく殴られていなかったもので、何だか夢でも見ているような気がとっさにしたほどだった。既に僕が突き落とした子供も、歓声をあげていた子供もいなくなり、僕の周りに定住している子供もなりを潜めている時間だった。僕はうっかりと夕方まで寝過ごしてしまったものだと気がついた。僕を蹴飛ばした人間の後ろで、あかあかと夕焼けの太陽がかがやいていた。僕は彼を見るより、あれが沈みきるまえにここを出なくてはいけないのだと漠然と思ったりした。それからもう一度彼に額を蹴飛ばされてまた我に返った。太陽のために全然顔が見えていなかったのだけれど、僕を蹴ったときによくよく顔をみて、それがロマなんだと分かった。
彼の全身に、彼がそうしなくてはならない理由が滲んでいる感じがして、その後のことは平凡な成り行きであるような気がした。彼がどういう理由に駆られているにせよ、僕にとって気になるのは、このあとどれぐらい傷をつけられるかということだった。約束はしていなかったが、そこに行きさえすればどうにかなるという当てがある日だった。そう言えば、僕の事情をゆいいつ分かっている彼は、ほどほどにして僕を解放してくれたりしないだろうか。
ロマはそういう僕の声が聞こえでもしたみたいに、また僕を無視するみたいに、いきなり僕の首のあたりを踏みつけた。とっさに僕は息が出来ないと感じ、また身を守るために毛布をかぶりなおそうとして伸ばした手をさらに踏みつけられた。彼に少なくとも、この暴力の動機があることは明らかで、僕はとっさに凄く何となくだけれど、彼は僕のゆびなり歯なり持ち帰ったり、確かに僕を征服してやったというしるしがない限り、彼らのいる群れに帰れないのかな、と漠然と思った。
僕はそう理解しながら、確かめるようなつもりで彼の顔を見ようとした。そのとき自分が、懇願するみたいな目つきになっていないかとすごく心配だった。そうして怖々と自分が秘めているものを怖れつつ彼を見上げると、彼は可哀想になるぐらいに、彼を縛りつけているものを露呈していた。それから僕の頭蓋骨を蹴飛ばすみたいに顔を蹴って、倒れ込んでうずくまった僕の胴をさらにめちゃくちゃに踏みつけた。 それだけでなく、彼は僕に向かって汚い言葉をたくさん並べた。そのなかに売女、をさらに酷くした言葉があって、彼がその言葉を忌み嫌っているらしいこととか、彼の僕にたいする触れ方にへんな恐れがあることとかからも、誰か良くない他人が彼に僕のしていることを吹きこんだのだと理解が出来た。またこれは彼の個人的な報復のようなものではなく、彼の背後にいて笑いを抑えながら見ている連中に向けて示されているものなのだとも、理解が出来た。
つまり僕は彼らを焚きつけ過ぎ、彼らに喧嘩させすぎ、僕との接触をあんまり高価なものにさせすぎた。僕の周りで寝ていた子供の誰かが、街の子供に、僕がしばしばロマとは接触していることを知らせたのかもしれず、またロマの不注意で僕にたいしてあんまり乱暴しなかったことを見つけられていたのかもしれない。
いずれにせよ五十ドルで売っていた僕の奥の歯を、ロマだけがこっそり受け取っていると分かったら、あれほど戦争していた彼らにしてはみれば面白くなかったのだろう。彼らはロマを袋叩きにしてもよさそうだったと思うが、もともと仲間だったロマを苦しめるよりは、彼らをうんと苦しめた僕を痛めつけさせ、またロマに潔白を証明させるほうが彼らのやり方にそっていたのだろう。
僕はロマが知らされた言葉を聴いて、傷つくというより可笑しくなった。彼らがいかに、僕が簡単に触れさせられた危険さから守られていたか、その単純な罵詈雑言からはかられて、そのことのほうが間接的に僕を苦しめた。僕はロマに攻撃されたことで、ロマを憎いとは思わず、むしろあんなに苦しげに僕を殴らなければ帰れない立場のあることに同情した。彼の家というのはつまり金で買うものでなく、振る舞いによって仲間に借りている実に不自由なものだった。
僕への殴打でようやく自分の居場所を取り戻せるというのなら、全然殴ったらいいのだと思った。僕が手に入れたいものと彼はそもそもかかわりがないのだから、彼の気の済むようにしたらいいのだと思った。でも、それにしても彼は僕を殴るだけで、巣に帰れるのかと思うと、ふいに彼を妬ましく感じた。それから誰かがはやし立てる声がして、ロマはその命令を聴くのを躊躇したみたいだった。
僕は正確に、彼らのうちの誰かが何といったのか分からなかった。でもその代わりにロマが選んだのが、僕の髪の毛を引きぬくことだった。僕はお金を持ってこないやつには、髪の毛いっぽんだって渡さないと宣言したことがあり、これだけでも屈辱と言えないことはなかった。ロマは僕の頭を踏みつけておいて、僕が背中まで垂らしている黒い髪を掴んで引き千切った。何だかずいぶん大げさな音が耳元でしたように感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます