第6話 冬節の祭り

 祈りの人形に、魂の卵を込めて。

 冬の到来を祝おう。

 冬が春を呼び、春が夏を呼び、夏が秋を呼び、秋が冬を呼んで、そうして長い長い冬の後に再び春が来る。

 廻せ、太陽の輪、月の輪を。

 ぐるぐる廻って、飛び散らそう。秋と冬の狭間で魂を呼び、春の復活と木々の芽吹きを祝おう。家の戸口に胸の内に卵を詰めた人形を置き、冬が来る前の旅立ちを見送ろう。

 冬の先触れが空を駆け、白の淑女が凶鳥の翼を足下そっかで踏みしだき、その冷たく散らばった羽で全てを覆い尽くしてしまう、前に。旅支度を整えた人々を送り出そう。黄金色の麦藁敷き詰めて、遠き旅路を彩ろう。翡翠色の、クピムの水を汲み、不帰の門出を浄めよう。

 干し草を敷き、種を撒くように池の水を撒く、冬節の習い。ルーとソフィーは緑の服を着た小さな女の子の前で粛々と、感謝と祈りと願いの為に膝を折る。それを、銀色の魔法使いは背後で貝のように口を噤んで見守っていた。

 きらきらと、……きらきらと。

 放物線を描いてクピムの水が枯れた草と乾いた落ち葉の上に着地する。その端から、一つ、一つ、茸が生えるように次々と、影法師が姿を現わした。彼等は皆昔日せきじつの写し絵。水の一滴から蘇りてぞろぞろと彼らを取り囲み、ただ一人の目覚めを待つ。

 卵の中の、こごれる魂。輪になって手を繋ぎ、膝を抱いて微睡む魂魄を揺り動かす。

 旅立ちの時を知らせ、羽搏きの準備をしよう。

 ルーは何事かを呟きながら自分の唇を触り、その指で金茶の金髪の髪をした少女の眉間に軽く親指で触れ、次いで両目の脇を触り、首の後ろ、肩、肘、腕、手首、体中の間接を順に巡り、最後に薄い紅色の下唇をゆっくりと押すように触れた。

「我の手によりて創られしこの者は、永きこごみの眠りの後に、目覚めし魂の器となりて、現し身の瞳を開ける。軋む体躯は柔らかに、冷たき頬は温かに。目覚めの時は来たれり。芽吹きの時は来たれり」

 最後に高く少女の頭上に手を翳す。

 神の力が宿りし飛沫のひと粒が頬を濡らす時、胸の真ん中あたりからふわりと丸い虹が生まれ出た。俯き、うなだれていた少女の閉じ合わされた金茶の睫毛がゆっくりと開かれ、まなじりにうっすらと命の灯火が照った。

「おいで、シャルロッテ」

 影の一つに呼ばれて少女は起き上がり、差し伸べられた腕の下へ潜り込むように腕を絡めて寄り添う。はにかむように微笑んだ両のほっぺにえくぼが刻まれた。

 クピの池のほとり。ロッティの胸で生まれた小さな虹が、ふわりと空へ浮かび、広がりながら飛び散ると、冬へ向かおうとしている空気が、一瞬春に似た気配を辺りに滲ませた。

 この光は、何処から来るのだろうか。

 この、命の芽吹きを寿ことほぐ光は。

 銀の粉が霧のように舞っている。乾いた大気に白い息が泳ぎ、白い貴人の統べる冬が、もうすぐそこ迄来ているのがわかる。頭上より降る銀の粉は、まるで瓶の底に沈澱するように積もっていく。その層は早くもソフィーの背丈を越え、森の木の頂きに届こうとしていた。手を動かせば、桶に溜まった水のようにソフィーの手の周りをゆるりと動く。鈍く光るそれを見上げながら、ソフィーはこの不思議なものは何処から来るのだろうと思った。

「約束を、守ったね。マニ・エト・ルー?」

 愛しいわが子を抱きながら、母親らしき女が人形師に向かって微笑みかけた。

「何にも、だ。

 私は何もしていないよ、ヘルマロッド。礼ならばソフィーに言ってくれ」

 それは、あの悲しげな顔をしていた婦人。かえらぬ娘を求めて啼いていた、曲見しゃくみの木霊。あの惨めで醜悪な影はなりをひそめ、今彼女は愛娘を腕に抱き、いとも幸福そうに笑っている。

 ヘルマさんもロッティも、猫がそうするように本当に嬉しそうに頬擦りをして笑っていた。ああこれで良かったのだと、ソフィーもつられて同じように笑った。寄り添う母娘おやこを横に押し、後ろに控えていた人垣から声が上がった。

「いいや、してくれたさ。私達は皆その子に会えた。マニ・エトが居なければ、その子に会えなかった。私らこそ、その子から色々なモノを貰ったよ」

「楽しくて、温かくて、愛おしい。何ものも代えられぬ。流行り病で身も心も死にかけていた里を、私らを、あんた達は救ってくれた。そのことが、今は良く分かる。私らは、あんた達を助ける事によって、自分らがなくしたものを取り戻したのさ」

 それは、見慣れた顔、かお。それが幾重にも幼子の前に重なりあう。全てが、ソフィーを取り巻き、一つの塊となって包み込む。温かい肱の中で、ソフィーは言葉無く俯いた。その中には、育ててくれた父母の顔。見知った老女の顔もあった。

「すまない、エイル」

 人形師は謝罪に目を伏せる。

「私は、自分とは正反対に位置するあんたの心の力を借りて、その裏に禁忌の力を封じた。私を否定するその力を利用して、忌わしい、呪わしい力を封じ込めた。私は、あんたに謝る言葉も無い」

「何をかね。ワシは何も恨みに思ってなぞおらんよ。ワシは、思い違いをしていたのかもしれん。ーーお前さんには確かに水を留まらせる力がある。それは流れを滞らせ、膿み腐らせるものとばかり、思っておった。だが、そうとばかりも言えんらしい。留まらねば、育むことも出来なんだ。

 ーーお前さんの中にその戒めがあるのなら、この先、道を過りはせんだろう」

 エイルは人形師の胸を指で突き、一つ意地悪そうに笑った。

「それに、道はもう見つけたのじゃろ? 見つけたのなら、歩くことさ。ひたすらね」

 ニヤリとする老女に、目を上げたルーが微笑み返した。それを受けて、エイルは今度は少女を見下ろす。

「愛し子や。気をつけて行くんだよ。お前さんの追手は手強い。呉々も気をお付け」

「エイルも」

「早駆けは得意さね! 魂となりては、日にく千里を行くという。白い翼も、追いつけるもんかね」

 いつもの調子で、鼻を叩いてみせる。同調するかのように、人垣と化した一団がふわりと軟らかい空気を放った。

 森の上の、天を突くように背の高い木に塞き止められて溜まっていた灰汁あくのような雲が不意に渦を撒き、おそらくその何倍もの層を重ねて、垂れ込め覆い被さっていく。

 遠い何処かで、高く、鳥が鳴くような声がした。

「おおぉ」

「ベルクだ! ――ベルクが来る」

「白い御方の先触れが――!」

「おぉ、恐ろしい――」

 口々にさざめき合い、一同は不安げに身を寄せた。

 風が巻き、太い唸り声をあげる。頭上で、刃物のような風が凶刃を揮い、その脅威で餞を行う一行を震わせた。

 ニオイガ、ニオイガスル。

 ムキダシノ、タマゴノニオイガ。

 ドコダドコダ、タクサンタクサンニオイガスル。

 カレカレ、ヒロイトレ。

 シロイオカタノオンマエニ、ナラベテソロエテタイラゲロ。

 シロノオカタノガンゼンニ、ナラベテソロエテタイラゲロ。

 ソフィーの耳に、けたたましい咆哮が届き、直感と共に希望を覆い尽くす不安が、彼女の背筋を貫いた。それは、紛れも無い凶鳥の声。幼子の脳裏に、あの警鐘が蘇る。知らず、ソフィーはルーの袖を強く握っていた。

「そろそろ、出発しなければ。狩人は手強い」

 銀色の魔法使いは身の丈よりも長い杖を掲げ、行く手の方を指し示した。

 それは、西の空。白く重い雲の彼方。一等流れの早い雲たちの先だった。その行く先を、幾重にも翼を広げた凶鳥が、羽ばたきを止めて鎌のように一団の頭上を掠めた。目覚めたばかりの幼子は、母親に抱えられるようにして一団に加わり、振り向きざま、最初で最後の感謝の言葉を恩人に送る。

 少女の言葉は音として空気を伝わらず、光りの粉のようにキラキラとこぼれ落ち、ふわりと形のみをあらわした。

 白い靄が宙を泳ぐ。溶けるように消えかかる瞬間、ふと渦を巻くように何かの形を成した。

 氷のような冷酷な風が、波の砕けるように手酷く弾き返された。不意の反発に、襲い掛かろうとする手が怯む。柔らかい、春の木漏れ日のような光とも匂いともつかぬものが一団を包んだ。

 それは、封じられし者の空蝉うつせみ

「オルフェリア……!!」

 ただ一人、その封じられた名を知る銀色の魔法使いが、手を伸ばして霞を捕まえようと空を掴む。拳の間から、煙のような物が零れ落ちた。恐る恐る拳を開き、穴の開く程見つめる。

「主よ、我が主人よ、貴方の希望、貴方の奇跡の欠片は、ここに在ります。我らが麗しき花。敬愛する輝かしき者。何という啓示、何という祝福。小さき花の花弁が、此処にあります!」

 銀の魔法使いは恭しく膝を折り、頭を垂れた。

「スワルロー?」

 幼子に名を呼ばれて、立ち上がる。だがその顔には未だ朝日を見上げるような恍惚とした表情が浮かんでいた。

「ああそうか、そうなのだな。これで漸く腑に落ちた。ここに在りし祝福も、あの花の心なればこそ。オルフェリア。そうなのだな、ミヌアトゥよ。」

 目を向けられた人形師は、初めて真直ぐにスワルロを見た。

たまなればこそだ。

 彼女はその身を委ねてくれた。この里の微睡みも、彼女の助力があればこそ」

 銀の旅人は得心して目を閉じ、薄く微笑んだ。

「ならば、いよいよ私の選びし道に間違いはないということ。私は幸運にも、正当なる者を見出した」

 小さなつむじ風がくるりと円を描いて出発を迎えた一同を包み込むと、ふわりと木の葉のように浮上させた。それは羽の形をしたようにも見え、また或いは大きな胡桃の殻に掬い取られたように、魂が軽やかに浮き上がる。

「では、追手の手の弛んだ今度こそ、本当に旅立とう」

 スワルロの言葉に、応えるように影達を乗せた浮き船が回転した。

「良いのか?」

 追い掛けずに旅立って良いのかと、ルーが短く確認する。二人の顔を交互に覗き込むと、スワルロはソフィーの小さな頭に手を置いて優しく撫でた。

「良いのだ。私はソフィーと約束をした。彼女は約束を違えたりはすまい? マニ・エトよ。それに私の役目は器を造る者を探し出す事。灯火はもう片方の役割。我々は、もうずっと長い事探し続け、答えを見つけられないまま、ここまで来た。そしてここにおいて、答えの欠片を見出せたのだ。これ以上の喜びがあるだろうか。

 私は、私の光を見つけた。

 後は、約定を果たさねばな。至福の園に帰還するは、その後の事」

「行コウ、魔法使イ」

 旅の一団から、すいと一組の腕がのび、スワルロを抱え上げるように半月の舟に乗せた。

「受け取れ!」

 スワルロが翻しながら外套を取り、ルーの頭上に放るように広げる。藍色の帆影が夕闇のような影をつくり、ルーの肩に収まる頃には、鮮やかな白色に変化していた。山羊の乳を溶かし込んだような裾が、ふわりと輝いた。

「そうか、君は白か。その衣は珠なるフューと、ミヌアトゥたるそなたへの祝福だ。それを羽織りし者には、我らが一族の加護があるだろう。その衣、我が肩にかかりし時は星々の間を埋める藍の色。我が主人の肩にあっては虹と輝いていた。私は、今迄に白を纏う者を見た事がない。それは生み出す者の色なのか? ミヌアトゥよ。

 ‥‥…いや、その答えを持つ者はこの世に居らぬのかもしれないな」

 ソフィーはマントの裾を握り、不思議に目を瞬く。ふわりと温かく、軽くて柔らかい手触りがした。頬擦りして、その柔らかさを確かめた。これまで触ったことのあるどの布にも似てない。まるで朝露にぬれる蜘蛛の巣を寄り合わせて作ったように、それは軽かった。

「それでは、今度こそ本当にお別れだ。

 君たちには花の加護がある。フューとミヌゥアトゥに祝福を」

 卵の黄身色した光の塊は、一度樅の木の上辺りまで跳ね上がると、半月の舟はつるりと塊の周りを包み、完全な球体となった。

「スワルロ!」

 ソフィーが身を躍らせて呼び止める。

「かあさん、とうさん、エイル、ロッティ、ヘルマさん、みんな、みんな――ありがとう」

 皆々に、心から、届くようにと。少女は両手を伸ばす。彼らはもう言葉を返してくれはしなかったが、代わりに一つ二つとその場で回転し、魔法使いが指していた西の空へと、飛ぶ星のように旅立っていった。幾重にもたれ込める雲が不意に切れ、一条の光がさした。その中に彼らが吸い込まれると、忽ち切れ間は流れて来た雲に隠されてわからなくなった。

 見送る幼子の目に涙が溢れる。

「ソフィー……」

 一緒に見送っていたルーが、膝を折ってソフィーの頬に指を添えた。

「友達が、行ってしまったね」

 ぐいと、幼子は自分の袖で涙を拭った。

「平気。私は寂しいけれど、でも悲しい思いをしてる人はいなくなったもの。だから、良いの。嬉しいの。だって、ロッティは友達だもの」

 彼女の瞳は確かに涙に濡れ、強がっているふうだったが、その顔に暗い翳りは無かった。

 空から、ゆっくりと重たいものを押すような低い音がして、二人は思わず雲を見上げた。それは、遠いのにとても大きく、地鳴りのように空を揺らした。

 無数の白い刃が、次々と風を切って地へ降り立つ。突風に塞がれた目を開けてみれば、大きな白い鳥が一羽、二人を見下ろすように居た。紅い紅い目をした白い鳥。それは確かにソフィーが会った、あの鳥だった。

「フュー、約束を守ったな。暖かな匂いがする。暁の時の匂いが」

「ベルク、私、ちゃんと約束を守れた?」

 白い鳥は、紅い瞳を糸のようにひき、その名の不吉さを微塵も感じさせないような温かな顔をした。

「匂いがするのだ。卵の孵った時の匂いが。あの、至福の時の輝きが、我の体を包む。お前は誰も為し得なかった事を、やってくれたのだ。お前は、我に答えを教えてくれた。我は、もうお前を脅かす事はできない。我は早き者の名を冠するが、お前達の早駆けには追いつけないだろう。歩みを止めぬ限り」

「猶予は?」

 ルーが割って入り、白い鳥が介入者を大きな赤い目でじろりと舐めた。

「あまり無い。白の御方の行幸は、もうすぐそこまで来ている。一番近い山の向こうまで。裳裾もすそを曵き、静々と我々の翼の上を、その白き足で踏みしだいて行かれるのだ」

 車を引くような低い音が、雲の中を這うように鳴っている。一同は空を見上げて時間のあまり無い事を知った。

 ベルクの、鐘のような声が響き渡った。

く駆けよ。もゆる光が、白の御方の目を隠している内に。効力がきれる、その前に。そしてあの池が月の影を揺れ映すうちに。

 疾く疾く駆けよ。我が我であるうちに。白のお方のめいは厳しい、あまりにも」

「ありがとう、ベルク」

 ソフィーが言い終わらぬうちに、白の鳥は一羽搏きをして宙へと浮くと、二羽搏きめには空高く舞い上がり、北へと帰っていった。ベルクの去った後に羽毛が降り落ちてくる。白い空を背景に落ちてくるそれは黒く見えたが、睫と瞼に降り掛かって初めて雪だとわかった。

 一つ、一つと、それは大地を埋めるように降り積む。空が、大地を埋め尽くす。二人はルーの家の前に立っていて、遠くで、チチュイチュイと巣に帰りそこねた小鳥が鳴いた。南に白く、森よりも高い所にぼんやりと光る物が有って、それが太陽だと判るのに少々時間を要した。白い太陽を背に、雪が黒く不吉によぎる。見上げていた目を辺りに転じると、白い布を広げ、薄く、しかし確実に全てを飲み込みながら、場所の分け隔てなく白の装飾がなされていっていた。

「本当に、ぐずぐずはしていられないようだな。

 我々も旅立たねば」

「え?」

 少女の問いかけには答えず、黙って小屋の戸を開けると、しばらくして中から大きな布製の鞄を一つ背に担ぎ、もう一つ鞄を肩から下げて戻って来た。

 ソフィーが困惑した表情で見上げていると、ルーは丁度手をおろした位置にある少女の、黄金色の髪を優しく撫でた。

「ソフィー、君がベルクやあの常命じょうめいの民としたのと同じように、私も約束をしたのだよ。だから、私も行かねばならない。約束を果たしに」

「でも!」

「ここにはもう何もない。何も。私が留まるべき理由も」

 金の揺り籠は壊れ、安息の地はかき消えた。少女はその時初めて自分のしたことの重大さに気づき、見る見る涙が溢れて大きな目がこぼれ落ちそうに顔を歪めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 止めどもなく涙が溢れ、流れ落ちるままに頬を濡らす。外套の袖で何度も頬を擦り、拳の甲を瞼に押しつけて泣いた。ルーはしゃくり上げて肩を上下させる幼子の前に膝をつき、優しくぽんぽんと背中を叩いた。

「大丈夫、大丈夫だ。君が謝るべき理由は何もないよ。これは、私が決めたことだ。もうずっと前に」

 気色ばんだ様子もなく、無理をするふうでもなく、ルーは自然に笑顔を浮かべた。

 そう。もうずっと前に、彼は自分の行く方を決めていた。青白き雷が、空を駆けめぐった夜に。自分の命運は金色の髪の娘と共にあると。暫しの安息の時を経ていよいよ動き出す、それだけの事なのだ。

「ソフィー、行かなくては。君は南へ行くのだろう? ならば、私と同じだ。」

 彼はソフィーにフードを被せ、深い緑の瞳で慈しむように微笑んだ。

 

 白い御方がやってくる。ベルクの羽を散らせ、神御裾を引き摺りながら、重く確かな足取りで、空を鳴らして冬が来る。

 二人は軽やかに、南へ向かって旅立つ。

 センリョウ、マンリョウ、ナナカマドの紅い実。それより紅い瞳の、ベルクの翼よりも早く、白の貴婦人よりも身軽に、フィルミの川を越え、フィルガンドの森を後にして、少女と人形師は南へ旅立った。

 遥か、南へと。

 卵の殻をすり潰した粉が、空から銀のように降り積もる。小さな吐息でも飛んでしまいそうなその粉は、舞い上がり、渦を巻いて彼らの姿を眩ませた。

 厚い雲の大きな舟が、幾つも幾つも流されては去っていく。時折、その重なりの向こうに斜に照らす光が漏れる。繰り返し繰り返し、光は隠され、光は差す。

 空から、花が散るように風花が降り積む。

 遙か天上はまるで、春かと思うほどに。




 フィルガンドの森の中、一層深い森に入る堺の目印に大きな樫の木がある。その下で細い一本道が二股に分かれている。その三叉路に、朽ちかけた木のポストが立っている。道の先には廃屋が点在し、名も知らぬ昔あったという里も、住む者はない。

 なのに。

 ヨアンはそのポストに手紙を届ける。

 彼の仕事は手紙を届ける事。大きな街から少し離れた自分の村に来た手紙や荷物をそれぞれの家に届けるのが、ヨアンの仕事である。吐いた息が白く染まり、足下で枯れ草がカサカサと音を立てる。先刻からちらつき始めた雪が、冬が来ると気持ちを急き立てる。

 ヨアンは、ポストに手紙を届ける。

 けれどもこの道でこれまで一度も人とすれ違った事はない。ただの一度も。

 なのに手紙を届ける。

 この先に、誰も住んではいないのに。ポストに手紙を入れる。不思議な事に手紙は次の配達までには消えている。誰が持ち去ったのか、ヨアンには見当も付かない。

 手紙はいつも暗い緑色の封筒に入っている。それが印。今日も他の手紙を届け終え、最後にあの手紙が鞄の中に入っている。

 ヨアンは手紙をポストの中に入れた。

 手紙は軽い音を立ててポストの底に落ちた。

 ーー彼らの仲間内では、ある噂があった。深い深い森は妖魔の森。森のポスト宛の手紙は、妖魔が取りに来る。金色の魔物が受け取る書簡の中には、ーー次の冬に旅立つ死者の名前が綴られているという。そうしてその名は森の主であるベルクに伝えられ、白き翼が魂を狩るのだという。

 確かに手紙はある。でも、受け取る者が不明なまま、消えていく。その不可解さが彼らを不安にさせ、この大きな森全体を包む冒しがたさと相まって、伝説を創り上げた。

 三十年の長きに渡って、フィルミの川と同じ色の手紙は、粗末なポストに届けられた。禁忌の森には隠者が隠れ住み、人外の業を繰り返す。その身の周りでは、死者が生前の姿のまま、営みを続けているという。

 ヨアンが立ち去りがたくポストの前に佇んでいると、不意に遙か前方でガサガサと音がした。驚いて、彼は咄嗟に後ろの草むらに身を隠す。なぜ隠れたのか、後々までも理由はわからなかったが、ヨアンは狼や狐が行き過ぎるのを待つネズミのように、息を潜めて目だけを皿のようにし、お化け樫の周りを見守った。

 下生えの草をかき分けて現れたのは、明るい金色の髪をした小さな女の子と、黒い髪をした見た事もない顔立ちの、つり目の男だった。二人は旅支度をしており、男は山羊の乳の色した外套の下に大きな荷物を背負っているようだった。親子程も年の違う二人連れ。

 女の子は、自分よりも二つ三つ年下くらいだろうか、くるくる巻き毛の長い髪が、風に揺れてふわふわと浮くものだから、頭の周りに金の粉をまぶしたかのように見え、ヨアンは夢の粉を振りまくという妖精かもしれないと思った。

 その子がポストをのぞき、手紙を取り出す。そしてそれをあまり背の高くない、そのために年よりも若く見えそうな、黒髪を後ろで一つ縛りにした男に渡す。手紙を受け取った男は、白い外套の下の鞄にそれをしまい、片手でいとも簡単にポストを引き抜くと、下生えの中に横に倒した。そして二人はもと来た道とは逆の方、二つに分かれた左の道へと歩き出し、数歩行った所で不意にかき消えた。

 不意のことに、二度、目を瞬かせる。幻だったのかと、驚いたヨアンは三叉路の真ん中に飛び出して遙かに見やったが、再び彼らの姿をとらえる事は出来なかった。

 帽子やマフラーの外に出た、むき出しの耳や鼻の先が寒さに凍えて痛い。消える間際に互いを労るように優しく微笑みを交わした二人の横顔だけが、ヨアンの記憶に一枚の絵のように留まった。

 朽ちた里の幽霊かとも思ったが、晴れやかなその笑顔には似合わない言葉だと思った。わかったのは、ここへ来るのはこれが最後になるだろうということ。横倒しにされた木の箱を見下ろしながら、ヨアンはぼんやりと二人の旅路の恙ない事を祈った。雪が、あるはずのない消えた二人の足跡を眩まそうと、その一つ一つの体を大きくして降り積む。

 これ以後、二度と深い緑色の封書が来る事はなかった。


                             **了**  

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マニル・エ・シュトラ(manil e syutora) 天音メグル @amanerice

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