挿話 人生は物語

 からだの内側も、吐く息も、まだ熱を残している。

 あたまはすこしぼやっとしていて。

 このまますこし落ち着いたら、お布団の暖かさに包まれて、きっと幸せに眠りに落ちてしまうと思う。

 けれど、わたしはもうすこしだけ起きていたいと思っていた。

 すこし残ってるにぶい痛みも、肌が触れていたところがしっとり汗ばんでいるのも、暗闇のなか、目のまえにいるさっくんの横顔も、ちゃんと心に刻み付けて、いつまでも忘れないようにしておきたかった。


 さっくんはわたしの視線に気づいて、すこし困ったみたいに微笑んで、それからわたしのほうに身体を向けて、静かに、口を開く。


「読子さん」

「ん……?」

「なんだか――最近ときどき、迷うことがあるんだ。読子さんと、いろんなとこへいって、いろんな経験をして――すごく楽しいんだけど、そのとき、頭のどこかでいつも、それを文字に起こしたらどうなるのかなって考えてるぼくがいるんだ。物語を書こうとしてるぼくと、そうじゃないぼくが、分けられなくなってるみたいで」

「ん……そっか」


 わたしはさっくんの右手をとって、指を絡める。

 さっくんの細くて長い指。きっと、さっくんはいつもこの指でキーボードを叩いて、物語を綴っている。


「読子さんとのことも、ときどき、書いてるときに頭に浮かんでくるんだ。それを辿ったほうが、目指す表現ができることもあるんだけど、でも、なんだか読子さんに申し訳ないような気もして」


 わたしは、さっくんの手をぎゅっと握る。


「たとえば、今日の、今夜のこととかも、かな?」

「うん。……きっと」

「……わたしは、だいじょうぶだよ。わたしとのこと、たとえば今夜のことも、わたしのことは気を遣わなくても……ううん、書いて。必要なときには、迷わずわたしとの体験を、想い出を使って、さっくんは物語を書いて」


 さっくんが黙っているので、わたしは続ける。


「一度体験したことを、体験しなかったことにはできないよ。わたしとさっくんが過ごした時間は、わたしにとっても、さっくんにとっても、消えない経験。小説を書いているのはほかの誰でもなくさっくんなんだから、そのさっくんが、どんなにその経験をなかったことにしようとしても、きっと無理が出ると思う。それなら、使って。活かして、書いて。わたしとの経験も、それ以外も全部。さっくんという人のぜんぶを使って、小説を書いて」

「……うん」

「さっくんの小説を読んだとき、ちゃんとさっくんを感じたよ。その中に、わたしとの経験かなって思うこともいくつかあった。正直に言うと、そのときはちょっと恥ずかしかった。けどね、それよりも、誇らしいなって思ったの。さっくんの小説の中に、さっくんの作る物語のなかに、わたしもいる。さっくんの小説の一部に、息づいているんだって」


 わたしは、さっくんの胸に、おでこをつける。

 強い確かな鼓動が、さっくんが生きてる証が、おでこを通して伝わってきた。


「小説を作るのはさっくん。だけど、そのさっくんの人生のなかには、わたしや、さっくんと関わる色んな人が息づいている。いろんな人との想い出が、さっくんの作る小説になる。……すごく素敵なことだと、わたしは思う。だから、書いて。わたしに遠慮なんて、絶対にしちゃだめだからね?」


 そう、きっと、人生は物語。その人の書く小説は、その人の、その人生でなくちゃ、書けない、その人そのもの。

 さっくんは、わたしに笑顔を見せる。


「……ありがとう」

「ううん」わたしはさっくんの胸からおでこを離して、さっくんに微笑みかけた。「大好きなさっくんの小説の中にわたしがいるんだよ。お礼をいいたいのは、わたしのほう」


 わたしがそう言うと、さっくんは目を丸くして、わたしを見た。

 しばらくそのままさっくんが動かなかったので、わたしはたずねる。


「……どうしたの?」


 さっくんはわたしから目を逸らして、恥ずかしそうに頬を掻いた。


「……うん、読子さんからそんなにストレートに好きって言われたことがなかったから、なんだか、恥ずかしくて」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「そっか」


 そのとき、わたしに悪戯心が芽生えた。

 ううん、悪戯心に乗せれば、素直な気持ちも出せると考えたのかもしれない。

 さっくんを恥ずかしがらせるという理由を盾に、わたしは、もう一度。


「好きだよ、さっくん」


 そう伝えると、さっくんはさらに恥ずかしそうな顔をして、口角を緩ませて、目を伏せた。


「ふふ、たまには、思わせぶりじゃない素直なわたしも、いいでしょ?」


「うん……」さっくんは目を伏せたまま、言う。「でも……ごめん、いいけど……いいから、我慢できそうに、ない」


 そう言って目を細く開き、繋いでいたわたしの手を、ぐいと自分のほうへ引いた。


「えっ、ちょっと、さっく、 っ……ん……」


 深い深い、静かな夜の闇の中。

 わたしの頭のなかには、明日、朝食までにちゃんと起きれるかな、と一抹の不安がよぎったけれど、とりあえず今は、まぁいいか、と深く考えないことにした。

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