思わせぶり

 さっくんから、ついにお泊り温泉旅行のお誘いが来たのが、一カ月くらい前。

 さっくんは、いつも小説を読んでもらっているお礼に、なんて言っていた。

 きっかけも、行く場所も、大事じゃないとは思わないけれど。

 でも、今回だけは、それ以外の一番大事なところのまえでは、些細なことになってしまう。

 大人の男女が、ふたりで、はじめて、お泊まり。

 それがつまりどういうことか、わたしだって、さっくんだって、さすがに知っている。

 

 それからの一カ月は、落ち着かない日々だった。

 ふだんはしないのに、カレンダーに毎日印をつけてみたり。

 雑誌の美容健康情報がいつもより気になってしまったり。

 服の買い物であんなに長いあいだ迷っていたことなんてなかったし。

 毎日消しているけど、インターネットの閲覧履歴は誰にも言えない予習でいっぱい。

 旅行の前日は、遠足前の子どもみたいに、なかなか寝付けなかった。


 当日はその場の流れみたいなものもあって、夜にお部屋に戻るまではほんとうに楽しく一日を過ごすことができた。

 いよいよ緊張が高まってきたのは、さっくんの小説の話をしている最中に、仲居さんが夕食を片付けて、お布団の準備をしていったとき。

 わたしとさっくんは、広縁から、寝床の整えられた部屋を見ている。

 ふたつ並んだお布団を前に、わたしは冷静を装ってたけど、ほんとうは、声を出すことができないくらいドキドキしていた。

 ふつう、部屋で食事をするような旅館なら、お布団の準備が終われば、もう仲居さんが部屋を訪れるようなことはない。


 つまり、ここからさきは、朝が来るまで、ふたりだけの時間。

 ご飯もお菓子も観光する場所もない、お互いの存在そのものしか残らない時間。


 わたしは覚悟を決めて、ずっと頭のなかで企んできたことを、実行に移すことにした。

 さっくんとの関係が進んでからも、わたしはときどき、思わせぶりなわたしを意識的に演じてみることがあった。

 思わせぶりなわたしを演じることは、ふたりのあいだで交わすじゃれあいみたいなものになっていて。

 だけど今日は振り切るくらいに、思わせぶりに、さっくんに迫ってみようと思っている。

 

 わたしは心の準備をして、ゆっくりとさっくんのほうを向く。

 さっくんは、緊張した面持ちでこちらを見てる。心なしか、身体もこわばっているように見えた。


「さっきのつづき、ね」

「……うん」


 ふたりの声も、緊張を帯びている。

 ――まずは、仲居さんが来て中断していたさっくんの小説の話題の続き。

 小説の感想は、旅行中に伝える約束だった。

 伝えるべきことは、伝える。


「さっくんの文章は、すらすら読めるようになった」


 さっくんの小説は、シーンの構成もしっかりして、メリハリがあって、さいしょにちゃんと引き込むような仕掛けもあって、最後までしっかり読めた。

 お世辞ではなく、面白かった。

 小説としての、ひとつの出来上がりの形に、きちんとたどり着いている。


「だから、ここからはわたしの好みの、わがままみたいなものかもしれないんだけど」


 ほんとは、かもしれない、じゃなくて、夢もわがままもいっぱい含ませるんだけれど。


「わたしももっと、リードされたい、引っ張られたいなって、おもうの」

「リード……?」


 さっくんは首をかしげる。

 その顔は、真面目に小説のことを考えているときのさっくんの顔で、わたしはそのひたむきさを嬉しく思った。


「うん。いまのさっくんの小説は読みやすくなって、読み進めるのも苦じゃない。先の展開も読みたいって思う。その気持ちを、もっと昂らせてほしい」


 ここからさき、わたしが伝えるさっくんの小説への思いは、本音。

 思わせぶりな言葉のさきに、さっくんに想像させたいことも、本音。


「さいしょに気持ちをつかんだら、まずはしっかり、ていねいに。さっくんのお話の世界に、私を連れて行って。そしたら、お話が起伏するのとおなじように、文章も音楽みたいにテンポを緩めたり、早めたり……穏やかな場面はゆったり、緊迫した場面はせかすように、そうしたら、私はさっくんのお話の世界にどんどん、のめり込んでいけるの」


 わたしは立ち上がる。

 ドキドキが強くなって、耳のあたりが熱くなっていく。


「気持ちはどんどん昂揚して、進みたい気持ちはとまらなくなって、もっとさきに、さきに、って気持ちがはやって、わたしは夢中にさせられちゃって」


 声色をいっぱい使う。

 もうとまれないわたしは、もっともっと、思わせぶりに続けていく。

 二つの布団のあいだに立って、さっくんに、わたしと布団を意識させるように仕向けた。


「それでね……クライマックスが目のまえまで来たら……そこで、ほんのすこしだけ、テンポをゆるめて、わたしのことを焦らして?」


 ちゃんと、さっくんの目を見る。

 さっくんは、固まったままでわたしを見てる。

 気をしっかり持っていないと気絶しそうで、わたしはわたしの太ももを強くつかんだ。


「そのあと……突き抜けるように、おしまいまでつれていかれたら、私」


 ここで、ほんのすこし、溜めを作る。

 リハーサルどおり。


「きっと……とりこになっちゃうよ?」


 言いきって、わたしはさすがに恥ずかしさに耐えられなくなって、ちょっと笑う。

 動かないでいるさっくんの近くまで歩いていって、だめおしのささやき。


「お風呂、先に入ってくるね?」


 コーヒーと砂糖の比率を逆転させたくらい、甘い声を作って。

 わたしの声の熱さが届くように、息をたっぷり含ませて。

 そのあとは、着替えとバスタオルをもって、逃げ出すように部屋から出た。


「はっ、はっ……はっ」


 後ろ手で部屋の扉を閉めたわたしは、短く浅い呼吸を繰り返す。

 気が遠くなりそうだった。

 荷物を胸に抱えて、深呼吸。


「ふーっ……」


 ゆっくり、時間をかけて呼吸を整える。

 すっごく緊張しているけれど、いまのわたしの顔は、きっとどうしようもなく、緩んでいる。

 してやったり、とわたしはちょっといたずらに笑って、わたしは大浴場へと向かった。


 ほんとうにすごい小説は、読む人からその小説を読む以外の選択肢を奪う。

 自分の意志でページをめくり、読み進めているはずなのに、いつの間にか物語に夢中にさせられて、中断するなんてことが考えられなくなる。

 食事をするのも、お風呂に入るのも、眠るのも忘れて、ただただ先を読みたくなる。有無を言わせず、読まされる。

 読み手を惹きつけて離さない、恐ろしいほどまでの物語の魔力。

 物語が佳境に向かうにつれて、読み手の読むスピードと集中力はどんどん上がり、クライマックスを前にすれば、もはや読みたい気持ちに読めるスピードが追い付かないことにもどかしさすら感じるようになる。

 そしてついに最後のページにたどり着いたあとには、ほっと安堵の息をつき余韻に浸って、それからページをもどり、反芻したくなる。させられてしまう。

 技術と、努力と、経験と、方法論と、才能と、華と、それから著者と読者の相性と、ことばで説明できるものもできないものもすべて駆使した芸術品のような物語。

 そんな幸せな読書体験は、本屋で売っているベストセラーの小説でも、なかなかできない。

 どうやったらそんなものが創れるのか、それはわたしにもわからない。

 でも、もしそこまでさっくんの小説がたどり着いたら、そのときは本当に、わたしはさっくんの小説のとりこになってしまうだろう。

 ――せっかくなら、とりこになりたいと、思う。それがいまの、わたしの夢。


 いっぽうで、さっくんとわたしがたどってきた物語の、クライマックス前の焦らしが、今。

 これまでわたしが思わせぶりにしてきたとき、いつもさっくんはそれを乗り越えてきてくれた。だから、あれだけ思わせぶりにすれば、きっとさっくんは、最後まで走り抜けてくれる。走り抜けるしか、なくなる。

 それは同時に、わたしにとっても退路を断つことになるけど。さっくんは、優しいから、わたしに恥をかかせるようなことは、絶対にしない。

 ちょっとさっくんには申し訳ないけど、わたしだってすごく恥ずかしいんだから、おあいこだよね、と、わたしは自分勝手な言い訳をした。

 今日のわたしのひそかな目標は、さっくんをわたしという物語に夢中にさせること。とりこにさせること。


 時間が良かったのか、露天風呂にはわたしのほかに、一人しかいなかった。

 もともと小さな旅館なので、大浴場とは言っても、十人も入ればいっぱいになってしまうくらいの露天風呂。

 でもそのぶんお風呂はぜいたくなつくりになっていて、ヒノキのいい香りが硫黄の匂いに混じって鼻をくすぐる。

 もうもうと立ち上る湯けむりの中、かけ湯をすませたわたしは湯船の一角で、白く濁ったお湯に身体を沈めた。

 暖かくて、手足も伸ばせて身体の疲れも取れるけれど、やっぱり心は落ち着かない。

 しっかり身体を温めてから出れば、お風呂に入る前からのぼせるくらいに火照っていたのも、隠せるだろうか。

 わたしはさっくんとのここまでのやりとりを思い出して――


「……やりすぎ、だったかな」


 反省。ちょっと、煽りすぎたかもしれない。

 もし、さっくんがわたしに任せてしまって、わたしがリードするような雰囲気になってしまっても、わたしだってどうしたらいいかなんてわからない。

 さいしょは、誰でもはじめてだから。

 小説みたいにアドバイスなんてできない。

 うまくできなかったときは優しく慰めてあげるくらいのことしか、用意はできてない。


「……どうしよう」


 わたしの不安が少しずつ大きくなってきたころ、さきに湯船に入っていた女性がこちらに身体を向けた。

 白髪交じりで、顔にはいくつか皺が見える。六十代くらいとわたしは予想した。

 女性はにっこり笑って「こんばんは」とわたしに声をかけた。


「こんばんは」


 わたしも返事を返す。


「おひとりですか?」

「あ、はい……あ、」答えてから、わたしは女性の質問が、お風呂ではなく旅全体を指しているものかもと思い、付け加える。「えと……彼、と」


 ふだんさっくんのことをそんな代名詞では呼ばないものだから、わたしは自分で言って、自分で恥ずかしくなる。


「あら、そうなの。若くて羨ましいわぁ」


 女性は頬に手を添えて小首を傾げ、微笑む。

 わたしは愛想よくつとめて、微笑み返す。


「それでは、お先に失礼するわね。彼氏さんと、仲良くね」


 女性は穏やかにそう言うと、湯船から上がって、脱衣所へと歩いて行った。

 その後ろ姿を見送ってから、わたしは空を仰ぐ。


「そっか……」


 仲良く。

 それでいいんだ、きっと。

 旅先で見知らぬ女性からもらった言葉は、わたしの心をちょっと軽くしてくれた。



 ゆっくり時間をかけて温まって、全身をくまなくきちっと決めなおし、覚悟を決めて部屋に戻ろうとすると、予想外にも、脱衣所のまえでさっくんが待っていた。

 さっくんもお風呂上がりのようで、わたしよりも早く上がって、わたしを待っててくれたらしい。


「はい、これ、お風呂上りといえばのお約束」


 コーヒー牛乳の瓶を渡される。

 その表情は、部屋にいたときとはうって変わって、さっきまでのわたしの態度なんか意に介してないみたいに穏やかだった。


「あ、ありがと……」


 あまりにいつものさっくんで、わたしは困惑しながら、差し出された瓶を受け取る。

 冷たくて甘いコーヒー牛乳は、火照った身体をほどよく冷ましてくれた。

 浴場前の休憩スペース、竹でできた涼しげなベンチに二人で座って、黙ってコーヒー牛乳を飲むあいだ、わたしは落ち着かなくて、さっくんをちらちら見る。

 わたしの視線に気づいたのか、さっくんは手を止めて、わたしを見た。


「読子さん、ロビーにあったお土産コーナー、これ飲み終わったら見に行こうよ、夜遅くになると閉まっちゃうんだってさ」

「え? う、うん……」

「それから、卓球コーナーもあったよ、台が空いてたら、せっかくだからちょっと、どうかなって。ぼくはあんまりうまくないけど」

「……」


 さっくんはすごくさっぱりそう言って、さっきわたしが決死の覚悟で作ったムードを意に介していないみたいに思えた。

 わたしは、登ってたはしごを急にはずされたみたいに、どうしたらいいかわからなくなって。

 そのとききっと、ちょっと不満そうな顔を見せてしまったんだと思う。

 さっくんはベンチから立ち上がって、二人分の空き瓶を片付けると、まだベンチに座っているわたしの正面に立つ。


「せっかくだから、いろんなことして、めいっぱい満喫したいんだ。読子さんと、初めて来たんだし」


 穏やかな顔でさっくんは言う。

 そういってもらえるのは、わたしもとてもうれしい、けど。

 と「けど」を心のなかでつけたそのとき、わたしに右手を差し出したので、わたしはその手を取る。

 さっくんが手を引いて、わたしを立ち上がらせてくれるのかなと思ったけれど、そうではなくて、さっくんはわたしと手をつないだまま、自分の顔を座っているわたしの耳もとに寄せた。

 それから、わたしがそれになにか反応をする間もなく、耳元でさっくんが口を開く。


「そのあと、部屋でも……ね?」


 さっぱりしてるけれど、でもとっても甘い、高級な和菓子みたいな声で――

 ――。


 思考回路がショートする、という出来事を、わたしは生まれて初めて体験した。

 数瞬のあいだまっしろになっていた頭のなかに、いっぺんに情報が流れ込んでくる。


「あ、ぅ……」


 わたしはなにか言おうとしたけれど、自分が制御できなくて、ことばにならないうめき声だけが漏れた。

 わたしの両の頬も耳たぶも、燃え上がるように、熱い。

 心臓は短距離走のあとみたいに激しく跳ねてる。

 やがて、思考力がちょっとだけ戻ってきて、わたしはやっと、自分がなにをされたのかを把握する。

 ――やられた。返された。

 わたしがさっくんを昂らせて、ちょっと焦らして、クライマックスに持って行こうと思っていたのに。

 それを企図したわたしの昂りを、そのままそっくり利用して、まさに今、ちょっと焦らして。

 それから、一気に突き抜けられた。

 さっきわたしが伝えたとおり。

 しかも「思わせぶり」な言葉まで使って、返された。

 

 目の前には、ちょっと恥ずかしそうな顔をしたさっくんが立って、わたしを見ている。

 天然たらしなうえに、思わせぶりまでも兼ね備え、わたしの心をかき乱すさっくんは、こんどは、わたしの手を引いて、立ち上がらせてくれた。

 少し頬を染めたさっくんと、きっと真っ赤な顔をしているわたしは、手をつないだまま、ふたりで並んで、旅館の廊下を歩く。

 歩きながら、わたしは思う。

 欲目かもしれないけれど、さっくんのことばの力の成長は、早すぎる。

 とりこにしようとしたのに、とりこにされてしまう。

 わたしは、ひょっとしたら恐るべき未来のストーリーテラーの小説指南をしていたのかもしれない、と。


 でも、そのさっくんも、いまは、今夜は、わたしだけのもの――

 わたしは繋いだ手を、ほんのすこし、つよく握った。

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