彼女のいる風景

ガジュマル

第1話


 何から話し始めたらいいだろう。

 これは彼女についての短いエピソードだ。

 その日は四月の早朝にもかかわらず、さしこむ光は初夏を思わせた。

 当時、高校三年だった僕はいつもの電車にゆられて高校に通っていた。

 僕は混みあった電車の中、担任のバーコード頭からうけた説教を思い出していた。

「おまえこの成績で大学にいくつもりなのか?」

 彼はそう言うと、手に持っている前回のテスト結果を事務机にたたきつけた。

 そのアブラぎった顔には、そんなに暑いというわけでもないのに汗が浮かんでいる。

 見た目、彼は非常に人間の嫌悪感をそそる。

 僕はというと彼の話を聞くふりをして、外の風景をながめていた。

 バーコードの頭越しの窓からは大きな桜の木がみえる。

 なんでも昔の戦争の爆撃を生き延びた桜だそうだ。

 花は散ってしまったが、その枝は夏を思わす淡い緑へと染まりはじめている。

 木のそばでは女子バレー部の発達した太ももが元気に飛びはねていた。

 口元に自然と笑みが浮かぶ。

 突然、視線の端から黒い物体がせまってきた。

 それがバーコードの剛毛をまとったこぶしだとわかった瞬間、僕の額でにぶい音がした。


 額にできた不快なこぶは朝になっても痛みがとれなかった。

 今なら体罰で問題になるかもしれないが、バーコードは自分の家の隣に昔から住んでいる。

 自分の子供の頃を知っている大人は最悪だ。

 今はもう記憶にない出来事を何度も聞かされるはめになる。

 僕ははれた額をさすりつつ、電車の外をながめた。

 小学校のころから見慣れた風景だ。

 いつもの風景、いつもの色、音、光……このままいつまでも続いていくかのような日常。

 窓ガラスにうつっている半透明の自分を見つめる。

 ふいに、このままサラリーマンになって、電車に乗っている自分の姿が見えた気がした。

 でかいあくびを左手でおさえこむ。

 なにげなく視線を横の方へとむけると、高校生ぐらいの女の子がこちらを見ていた。

 僕と視線がかさなると、彼女はあわてて視線をふせた。

 だが、しばらくすると意を決したように彼女は僕を見た。

 彼女の顔がわずかに赤くそまっている。

 これがコワイお兄さん系だったら、一秒を切る速さで視線をはずしていた自信がある。

 だが相手は女の子だ。

 中学二年から三人ぐらいの女の子とつきあったが、こんな感覚は初めてだった。

 朝日に照らし出されたその白い肌、少し大きめの瞳、すっとひかれた唇、つややかなストレートロングの黒髪、それに着ているブレザーがこの上もなく似合っている。

 僕は顔がにやけるのを必死におさえつつ彼女を見ていた。

 電車はいつものようにガタゴトゆれている。


 この奇妙な関係は、僕が彼女に気づいてからと言うもの、通学電車の中で毎日繰り返されるようになった。

 僕がいつものように電車に乗ると、それから三つ目の駅で彼女が乗りこむ。

 二人とも間に座席をはさんでただ立っている。

 決まった時間、決まった場所に。

 互いにそっと見つめ合う。

 彼女が降りるまでの十数分の間。

 適当な言葉が見つからないが、とにかくそこは彼女の場所だった。学校でも遊園地でも映画館でもなく、電車の中にあるこの場所が。彼女はまるで、そこにはめこまれるべきパズルのワンピースのようだった。

 そして僕は、ごく自然にその風景を好きになってしまった。彼女のいるこの風景をだ。その想いは日々を重ねる事に大きくなり、やがて耐えられないほどになってしまった。

 受験を控えていると言うのに、勉強などまったく手につかない。

 今の状況から抜けだせるのならと、僕は彼女に正直な気持ちを伝えることにした。

 いつもの電車がくると、今日は一つ前のドアに入りこんだ。

 僕は昨日の夜に考えたセリフを、彼女がいつもいる場所でぶつぶつ暗唱し続けた。

『おはよ。みない制服だけど、どこの高校?…って、いきなり話しかけるのもなぁ。やっぱメモったメアドを渡すほうが……』

 そうこう考えている内に、やがて彼女が乗りこむ駅にさしかかってきた。

 ブレーキとともに、ゆるやかなGが体にかかり電車は止まった。

 ドアは静かに開いていき、通勤客がどっと押し寄せてくる。

 しかし、入ってくる人々に視線を泳がせても、彼女の姿は見あたらなかった。

 僕のため息と共に、ドアが無機的な音を出して閉まっていく。

 僕は何度も話しかけようと試みたが、その日に限って、彼女はまるで知ってでもいるかのように、電車には乗ってはこなかった。

 それが二三度なら、まだ偶然ですまされたが、さらに回数を重ねても彼女に会えないとなると、不思議な気分になった。

 何しろ、僕が彼女と座席一つ分離れたいつもの場所に立っているときには、彼女は必ず電車に乗りこんでくるのだ。

 そのことがあってからというもの、なぜかしら彼女はだんだんと悲しげな表情を見せるようになった。

 そんなことをしないで、と言ってでもいるかのような寂しげな視線を投げかける。

 だが僕は、ただ、彼女にこの気持ちを理解してほしかった


 僕はある日決断をした。

 今までのことを考えてみると、彼女は僕が元の場所にいるときには確かにこの電車に乗りこんで来る。

 ならば、その彼女を見ているときに近寄っていって、この気持ちを告白してしまおうと。

 僕は、その計画を胸に秘めていつもの電車に乗った。

 すると、彼女は予想通りやってきた。

 僕は彼女を見つけた。

 彼女もこちらを見ている。

 僕は、ラッシュの混みあった中を彼女に向かい歩き出す。

 彼女がはっと息を飲む。

 まわりの人々を無理にかきわけて進んで行く。

 彼女の怯えた目。

 押された老人の非難の眼差し。

 青ざめる彼女。

 中年女性の香水。


 視線を彼女に据えたまま進んで行くと、彼女に体に変化がみられた。

 なにやら、彼女の体が青く光り始めたのだ。

 僕が近づくにつれ、彼女の人間的な存在感がだんだんと消え失せていく。

 そして彼女の前にきたとき、僕は呆然とした顔つきで立ちつくしてしまった。

 彼女の姿は、希薄な青白色の粒子によって像を結ばれていたのだ。少なくともそれは、人間と呼ばれる生物の姿ではなかった。

 僕の体よりもひとまわり小さい彼女は、その端正な顔で僕を見上げている。

 彼女の頬から、流れ落ちるものがあった。

 僕は、何か激しい後悔に胸を焦がされながら、彼女の顔へと、つっと手をのばした。

 薄い銀色をした涙に指先が触れると、そこから鋭い痛みがはしった。

 それは物理的な痛みではなく、彼女の哀しみの感情だった。

 彼女は僕の差しだした手に、両手を静かに重ねると、そっと目を閉じた。

 するとその手から、彼女の言葉にならない感情があふれ出してきた。




    ‥‥‥‥ハジメテノ‥‥出会イ‥‥‥‥同調‥‥


      ‥‥‥‥‥‥アナタノ瞳‥‥‥‥‥‥‥‥


    ‥‥‥‥‥光‥‥音‥‥ヤワラカナ‥‥風‥‥‥‥‥


   ‥‥‥‥‥‥心ノ鼓動‥‥‥‥‥‥‥共鳴‥‥‥‥‥


      ‥‥‥‥声‥‥‥春ノ‥虚空‥‥‥‥‥‥‥


    ‥‥‥‥‥‥‥アナタノ‥‥イメージ‥‥‥‥


      ‥‥‥‥ココロ‥‥‥‥ヲ‥‥‥‥‥‥


       ‥‥‥‥ワタシ‥‥‥‥ハ‥‥‥

 

        ‥‥‥‥アナタヲ‥‥‥‥‥




 彼女はそう告げると、朝の光の中へ溶け去っていった。

 まわりの人々は、まるで何事もないかのように顔を向けない。

 近くにいた赤ん坊が、急に泣き始めた。

 彼女が人でなかろうが、僕はかまわなかった。

 ただ彼女が僕の傍らにいてほしかった。

 そんな思いが、重い石ころのように胸の底で転がっている。

 僕は彼女が消え去った空間を、いつまでも眺めていた。



 それから数週間の間、僕は他人とのコミュニケーションがとれなくなった。

 言葉が理解できなくなってしまったのだ。

 文字は読めるのだが、発音される言葉がまったく理解できない。

 人の会話は、ボ-っという、何かくぐもった音の羅列にしか聞こえないのだ。

 多分、彼女とかわした会話に原因があると思うのだが、大病院の先生に話しても理解してもらえなかった。

 精神科のカウンセリングを受けるようにと言われ、僕はこの話をするのをやめた。

 2週間を過ぎたあたりで回復したのが分かると、やさしい両親はすぐさま受験勉強へと僕をかりたててくれた。

 僕は、バーコードや両親の心配をよそに、なんとか志望の大学に合格した。

 卒業式の日、「おまえのおかげで、5キロは痩せたぞ」とバーコード頭は言って、恰幅のいい腹を叩いてみせてくれた。

 その目は、こころなしか潤んでいたような気がする。

 今でも彼女が何者だったのかと言われると、僕は分からないと答えるしかなく、またその答えを探そうという気も起こらなかった。

 結局、彼女は彼女でしかなかったのだと、今ではそう思うことにしている。

 現在は、つらくも楽しい気楽な大学生活を過ごしている。

 毎日、毎日、ギターをやりにサークルへも行く。

 年に二三度は、小さなハコで小さなライブ。

 そこの遊び仲間とのファミレスでの雑談。

 ときにはクラブで、酒をくらってのパーティー。

 そのせいか、講義の半分以上は寝ていたりする。

 さして変化のない日々の生活。

 そんな中、ふと彼女のことを思いだす。

 電車の中にあったワンピース。

 彼女のいたあの風景を。


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