出立前夜(2)
穣が腹いっぱいに替え玉ラーメンを詰め込んでいる間、どうにも手持ち無沙汰になって、幹太はカウンターへと手を上げた。
「おっちゃん、中生と餃子のセット」
「あいよ」
店内に客は穣と幹太の二人しかいない。壁掛け時計の秒針の音さえ聞こえてきそうだ。カウンターに数席、テーブル席はない。ショーワ・スタイルと店主が呼ぶ畳の座敷席に、低い机が三卓。それだけの小さな店だ。入り口の漫画は何度か入れ替わりつつも、基本的には幹太たちの世代のタイトルばかりだ。表紙をテープで補強したべたべたの漫画が数冊、今も背をこちらに向けている。
小さなラーメン屋を見回しながら、幹太は細く小さく息を吐いた。机に向き直ると箸を取り、餃子を一つ口に放り込む。視線を上げると、何か言いたげな穣と目があった。「すぐ返すから」と言い、もう一つに箸を伸ばす。
「悪餓鬼かんちゃんが、いっちょ前にビールねぇ」
「勘弁してくださいよ」
どん、と机に置かれたジョッキと、皺だらけながらもしっかりとした店主の腕。幹太は苦笑いを返しながら、ジョッキを自分の元へ寄せた。背が曲がり始めた店主の背中を見送ると、きんきんに冷えたジョッキを一気に煽る。悪餓鬼だったのはいつの事だ。この店の壁に穣とこっそり落書きをしたのは中学生の頃だし、いまだに消さずに取っておいてあるおっちゃんもおっちゃんだ。と、心の中で親愛を込めた悪態をつきながら、視線の端で落書きを捉える。
中学生にもなって流行の漫画の下手な落書きなど、なかなかに幼稚な真似をしていたものだ。今思い返せば、本人たちはこっそりとやっていたつもりでも、カウンターからは丸見えだったのだろう。見えていなかったとしても、二人ともこの席を定位置と決めていたのだから、すぐにばれるのは当然だっただろうに。代金を支払う段になって散々怒られ、一発ずつ拳骨はもらったものの、学校にも親にも連絡はせずに赦してくれたらしい。
そのおかげとでもいうのか、壁の下半分は数十年の間に子供の落書きだらけだ。まあ、巡り廻ってこの席のこの落書きは、ある意味、世界的有名人の幼少期の落書きということで価値が出そうだから、店主の眼が確かだったのかもしれない。
落書きから目を戻すと、その「世界的有名人」は麺をすする手を止め、幹太の握る中ジョッキに熱い視線を送っていた。
「うまそうだな」
「明日から調整に入る奴が何を言う」
「言ってみただけだ、一口くれとは言わないさ。でもなあ、宇宙船では酒は飲めないんだよな」
若干の恨めしさを口調に含ませながら、穣が零す。宇宙黎明期から比べれば、水や物資を運ぶ費用も相当コストダウンはしたし、宇宙飛行士が持ち込めるものも多くなっている。ただ酒を持ち込めないのだけは、どうしようもないだろう。酔っぱらってどんちゃん騒ぎをする姿が全世界に公開されても、地球側の人間が困るばかりだ。それだけの理由でもないのだろうが。
「じゃ、毎日酒を飲んでいる写真を送りつけてやろうか」
「何の嫌がらせだ。船員全員で抗議するぞ」
「冗談だって」
ゆるりと酔いが回る感覚に包まれながら、幹太は笑った。丁度その時、焼き立ての餃子が届いた。あつあつの餃子を一つ口に放り込むと、口の中で熱い肉汁がこぼれだす。ジョッキをまた煽り、空にする。今日はなんだか、随分と酔いが回るのが早い。
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