星の彼方へ
轂 冴凪
第1章 出立前夜
出立前夜(1)
明日を境に、君の時計は僕らの世界と切り離される。
ずるる、と威勢の良い音が、小さな店内に響き渡った。
「今夜中に食いだめて置かないと、一週間後あたりに絶対後悔しそうだからな」
「大丈夫かよ。腹壊して乗れません、とかナシだぞ。っていうかさ、そもそもお前、出発前日にこんなところにいて良いわけ? もっとこう、検査とか最終仕上げとかさ」
「大丈夫だ、多分。
カウンターの中、歴史を感じさせる壁掛け時計にちらりと目を送ったあと、穣は呑気に水を飲む。グラスを置くとおもむろに、座敷席の畳に後ろ手になるような形で両手をついた。いつもの彼の癖だ。自身の腕に寄り掛かるようにしながら、満足そうな表情を浮かべている。幹太は相変わらずの格好で、もう一度ため息を吐いた。その様子を見てか、穣が再び口を開く。
「宇宙食ってさ、最近のは美味くなってきたっていうけどな。ここのラーメンの味を知っている奴からすると、やっぱりどうも物足りないんだよ。だから腹いっぱい食っておきたいんだ」
「有難いことを言ってくれるね。みっちゃん、餃子はどうだい。おじさんからの
「まじっすか、じゃ、遠慮なく」
カウンターから、低く皺の寄った声が飛んできた。穣が嬉しそうな声で応じると、店主がひとつ頷き、フライパンを手に取った。穣と幹太が中学生の頃からずっと、カウンターを一人で守り続けている店主は、二人にとって父親、あるいは祖父のような存在だ。
じゅぅ、という音と共に、ごま油と小麦粉の焼ける香りが漂う。皺の多くなった店主の顔と、カウンターに隠れて見えない餃子からふと視線をそらし、幹太は目を壁掛け時計へと向けた。音を小さくしぼったテレビが視界の隅で、賑やかな番組を放映している。
秒針は、規則正しく、地球時間を、刻む。秒針が半周するほどの間のあと、視線を戻す。目の前には、そわそわとカウンターへ目を遣る穣の姿があった。
「で、どこまで行くんだっけ」
「ん? ……そうだな、地球がここだとすると」
幹太が声をかけると、穣はカウンターから視線を戻した。きょろきょろと机の上を見渡し、机の左端に置かれていたテーブルコショーを指さした。赤いキャップと角ばったボトルが、存在感を主張する。
「今、宇宙船フロンス号はここにある」
その横に置かれていた爪楊枝を一本抜きとって、テーブルコショーの頭のわずか上に浮かせ、先端を横に向ける。とがった頭は真っ直ぐに、染みのついた白い壁と、壁の落書きを指す。
「まず地球から、ここに行くだろ」
空いた方の指先をテーブルコショーに軽く触れさせた後、その指先を垂直に持ち上げた。爪楊枝宇宙船の尻を差して「ここ」を表し、穣は幹太の理解度を確認するように、一度目を合わせた。
「『ここ』って、静止軌道宇宙ステーションだろ」
「ああ。で、フロンス号に乗り換えて、もう一度出発する」
爪楊枝がゆらりと動き出す。
「かなり飛んで、火星とか、木星とか、いろいろ越えて」
穣の二本の指に支えられ、爪楊枝が空を飛ぶ。
「この辺。もっと先かも」
こつん、と爪楊枝の先が、壁の落書きに当たった。穣と幹太が小学生の頃に流行っていた、スペースヒーローの笑顔。その鼻面に先端が刺さっている。
「わかんねぇよ。ぶつかってるし」
「ぶっちゃけ俺も良くわからん。何光年って言ってたっけな」
「お前さ、良くそれで合格したよな」
テーブルコショーを元の位置に戻しながら、幹太はもう一度ため息をつく。
「んー、偶然?」
爪楊枝をぺきりとへし折りながら、穣がにぃと笑った。
いや、本当は知っている。穣がどれほどの訓練を積み、どれほどの努力を重ねてきたかを。そうしてどれほどの運を、その手でつかみ取ってきたかも。鍛え上げられた体つきと深い思考力、質問や要求に即座に対応できる柔軟性。彼が自ら口にせずとも、それらは佇まいに滲んでいる。
「はいよ。大サービスだ」
いつの間にかカウンターから出てきていた店主の声に、意識を引きもどされた。目の前に差し出された、湯気の上がる餃子、二人前。穣より早くに食べ終わっていた幹太も思わず食指が動く。
「……一個」
「ん、良いよ」
テレビで連日報道されるほどの有名人になった今でも、フランクに付き合ってくれる穣に、幹太は感謝している。
「……でもなぁ、この餃子にもラーメンにも、店にもおっちゃんにも、世話になったな」
中学生の頃から通い詰めていたラーメン店は、店主も味も内装もほんの少しずつ歳を重ねている。けれど根本は何も変わらない。
互いに大学へと進み、そして就職してからは、穣がこちらに帰ってくるときの夜はいつもここ、と決めていた。
それも今日で、一旦中止、だ。
「……何感傷に浸っているんだよ、じじくさい」
自分もふと浸っていたことは棚に上げ、穣に声をかける。
「大丈夫だ、戻ってきた俺はお前より若くなっている」
「…………お前が、老けるのが遅くなるだけだろ」
ウラシマ効果、だっただろうか。昔漫画で読んだ気がする。
光の速さで進むロケットに乗った人は、地球に残った人よりもゆっくりと時間が流れる。艦上の三年が地球上の十年になる、かもしれない。
速さの違う秒針が、穣と地球を切り離していく。
「だいたい、まだ予言段階だろ」
「だから、俺たちが身をもって実験してくる」
きっぱりと言い切られた言葉に、思わず視線を上げる。真っ直ぐ深い、宇宙のような漆黒の瞳が、幹太を捉えていた。強い光を湛えた真剣な瞳は、やがてゆるりと和らぐ。
「……ってことで。俺が戻ってきたとき、お前はいくつになっているんだろうな」
「……知るか。まずは生きて帰ってこい」
「はは、確かにな」
からりと笑い、穣はカウンターへ右手を上げた。
「おっちゃん、替え玉お代り」
「まだ食うのか」
「腹八分目じゃ足りねぇよ。あ、勘定はこいつにつけといて、おっちゃん」
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