割れても末に会わんとぞおもふ
ひるまのつき
第1話
春の日差しとまだ冷たい空気。2つの季節に翻弄されながら、3月25日、僕は久しぶりに今日から「母校」となる大学を訪れた。
卒業に必要な単位の取得も卒業論文の提出も早々に終えて、仲間と設立した会社の運営に夢中になっていたこの数ヶ月。
形式的な式典に出席する必要性は感じなかったが、ポケットに忍ばせた小さな贈り物を渡すにはうってつけの舞台となるであろうこの日、徹夜続きで寝不足の身体に鞭を打つようにして待ち合わせの大学構内で一番大きな桜の木の下に立つ。
やや早めに満開を迎えた桜は、僕の訪れを待っていたかのように花びらを風に散らし始めた。
見上げた視線をふとおろすと、薄紅色の花びらのなかに紛れるように、ピンク色の清楚なワンピースに身を包んだ彼女を見つけて、微笑んだ。
出逢ったころからずっと変わらない、美しくも可愛らしい柔らかな笑顔。艶やかな長い黒髪。容易く手折ってしまえそうに華奢でしなやかな身体。
何もかもが懐かしい僕の愛しい人。
頬が緩んでいることを自覚して咳払いをする。恥ずかしくも、彼女の前で表面を取り繕うなど不可能なのだと今更ながら実感する。
この4年間、何度救われたか数え切れない、身も心も。
「薫・・・。」
名前を呼ぶだけ、口にするだけで切なくも温かい幸せをくれる人。
今日、僕は君に・・・。
「卒業おめでとう、加賀見くん。」
ああ、彼女の果実のような唇からもたらされる鼻濁音の柔らかな響き。
大学入学直後に初めて耳にした時に身体の中心から沸き上がった感動以上のものがこみ上げてくる。
どうして3ヶ月も聞かずにいられたのかわからない。
確かに仕事に夢中だった。
それでも、彼女を傍らに感じる幸せ、それ以上に価値あることが存在するわけがない。
「ああ、おめでとう、薫。」
ややゆったりとしたワンピースに包まれた薫の珍しくも可愛らしい姿に見惚れて、次の言葉を発するのが遅れた。
用意してきた言葉を、発する前に。
「きちんとお食事しているの?それとも睡眠不足?」
「ああ、両方かな・・・。」
真っ直ぐな指摘に思わず苦笑する。
「大切にしてね。自分のこと」
ほんの少し、左に首を傾けて僕を見上げる薫は柔らかい微笑みを崩さない。
「加賀見くん、今までありがとう。とても幸せだった。」
「えっ?」
息が詰まる。
「加賀見くんが夢中になれること、見つけられてよかった。加賀見くんのやりたいこと、思う存分に続けてね。人生は1回だけだもん。」
わからない・・・。
「か、おる?」
「私も、私の1回だけの人生に私がしなければいけないことをするね。私じゃないとできないことを精一杯がんばるね。だから、加賀見くんもがんばって。」
一体、何の話をしているんだ、薫。
「じゃあ、元気でいてね。ありがとう加賀見くん。楽しい学生生活だった。」
なにも言えない僕を残して、ワンピースの裾を翻した薫の背中が遠のいて行くのが見える。
なにも聞こえない。息ができない。声が出ない。身体が動かない。
僕は一体どうしたんだ?
刹那、急速に呼吸が戻り、噎せそうになりながら聴覚とからだの自由を取り戻す。
薫を追いかけなければ!
と、その途端、僕は同窓生となったばかりの着飾った女子学生に取り囲まれて身動きがとれない。
伝統のある私学の頭の固い教授陣に守られた堅苦しい法学部にこれほどの数の女子学生がどこにいたのか。
「加賀見くんおめでとう」
次々と攻めるように聞こえてくるのは確かに僕の名字なのだが、その中にあの心地よい鼻濁音は決して含まれない。不快な音の集中攻撃。
必死に薫の後ろ姿を探す目に、幼年部時代からの悪友を映したところで意識が途切れた。
目が覚めて、天井を見つめる。
仕事の現場兼、仲間との雑魚寝の場でもある賃貸マンションの白い天井ではないことに目を見はる。
生まれてから20年あまりを過ごした実家の自室の天井はこんなに低いものであったのか。
窓に目を向けると、カーテンの隙間から漏れる日差しに、朝を迎えたことがわかった。
「目が覚めたのね、惺(さとる)さん。」
声に視線を向けるとそこに母の顔があった。数ヶ月ぶりに見たその顔は些か老けたように感じられ、少し胸が詰まった。
「卒業のお祝いの準備をしていたら、いきなり玄関にあなたをかついだ渡辺さんが現れるんですもの、それはそれは驚きましたよ。」
卒業式典の後のパーティーのためにめかし込んでいた親友に申し訳ないと思いつつ、
「すみません。」
母に言葉を返す。
「軽い栄養失調と過労ですって。病院で点滴していただいたんですよ。」
あの時、親友を見つけて何か声を発した。その後のことは全く記憶がない。
「すみません。」
同じ言葉を繰り返す僕に、母は呆れたように息を吐き出して
「しばらく、うちで休んでもらいますよ。今はお仕事よりも、身体の回復が優先です。わかりますね?」
もう母の中では決定事項であろうことを宣告された。
母の視線から逃れてベッドの脇の小さなテーブルを見やると、ベルベットに包まれた丸いケースが置かれているのが見えて、耐え難い胸の痛みが蘇った。
桜の花びらが舞っている。愉しそうに。誰かと会話して笑うように。
退屈な形式ばった入学式の翌日、新学期のオリエンテーションを受ける為、割り当てられた教室に向かう。途中、満開の桜の下に佇む女子学生をみかけた。
着慣れていないスーツ姿。黒くて長い髪。桜の幹よりも幅のない身体。威厳をたたえた桜の古木を見上げて、老人と対話しているかのように見える。
「そんな、非科学的なことが・・・。」
自嘲めいた嗤いをこぼしながら、結局、周囲の期待に添う進学先を選んだ自分に嫌気が刺す。
科学を極めるのが幼い頃からの夢だったじゃないか。
「家名に相応しい人物に。」たかだか4代続いた官吏の家系がそれ程に重いのか。それとも・・・。
暗い思考に落ち掛けたその時、右肩に耐え難い加重が掛かった。
「よっ!また一緒だな。」
左腕を僕の右肩に乗せて体重をかけているのは、渡辺太。
「ああ、まただな。」ため息と共に肩に乗ったままの左腕を落としてやる。
「つれないな。十年来の友に。少しは嬉しそうにしやがれ。」
不満そうにつぶやく相手にできるだけ冷たく返す。「13年目だ。」
小学校に入学したら、クラスに渡辺がいた。幼稚舎にはいなかったから受験組だとわかった。初対面でいきなりプロレス技をかけてきて喧嘩になった。一緒に叱られて、共に行動するように決められて、以来、ずっと一緒に過ごしてきた。学友にして悪友。ごく稀に親友として。12年間、離れずにいる。
僕が進学に我を通さなかったからか、再び机を並べることになった。官吏を目指さざるを得ない僕にとって、「将来の夢は正義の味方」と言い続けている姿は羨ましくもある。
格闘技が好きで、隙を見ては技をかけようとするが、体格の良さがあだになって見切りやすい。一体、どんな正義の味方をめざしているのか。まだ掴めていないのは、肝心なことをはぐらかすに長けた柔らかな物腰のせいだろう。だから、まだ親友とは呼んでやらないつもりだ。
「中途半端なところで立ち止まって、どうした?桜の妖精にでも見とれていたってか?」
渡辺の問いに戸惑う。僕は何をしていた?不愉快な立場を憂いていたのか?その前は?桜の木に目を移してみても、誰もいなかった。
「ほれ、教室行くぞ、初日から遅れるとかおまえらしくないぞ。」
何も言えずにいる僕は、渡辺に無理やり引っ張られて校舎に向かった。法学部法律学科の一学年は7つのクラスに分けられ、昨日のうちに確認しておいた自分のクラスの教室に入る。
足を踏み入れた途端、空気がざわついた。「加賀美だ。」「K高のプリンス」「高級官僚の息子」「寄りつく女をみんな斬って捨てる冷酷漢」「本物?王子さまみたい」虚実ない交ぜの噂話に溜め息をつきそうになる。
と、肩に湿り気のある温度の高い手の感触。
「とっとと席に着こうぜ。」
「ああ。」
助けられている。黙ったまま友の存在に感謝した。
空いていた席についてあらためて教室を見渡すと、「あっ 。」
桜の前に立っていた女子学生に気づいた。先ほどは後ろ姿しか見なかったのに、席に着いた姿を前から見て彼女だと確信した。
大きな目と秀でた額。細く通った鼻筋に小さめの唇。
顎を引いてうつむき加減にして教室の前方を見つめている。
話し相手もなく1人静かに佇んだ様子を見て、ふっと息を吐き、頬が緩むのを自覚する。とるに足らない噂話に知らず顔を強ばらせていたようだ。
「可愛いな。」
「えっ?」
渡辺が彼女から視線を戻して意味ありげに口角をあげた。彼女を見ていたのは、自分ではほんの一瞬のつもりだったが、悪友に見られたことが悔しくて、顔を逸らす。
「照れてやんの。まあ、いいんじゃねぇの?可愛いもんはかわいいし。」
無駄話に巻き込まれたくなくて、窓の外に舞う桜の花びらを見つめるふりをした。
「今年の桜は早かったわねぇ。こんな3月のうちに咲いて、散り始めてしまうなんて。」
呟くような母の声にゆっくりと瞼をあけると、まだ自室のベッドに病人として横たわっている自分に嘆息した。
「可愛かったな。」
今思い出してみれば、あのとき既に彼女に惹かれていた。初めての場所に放り込まれて知り合いもなく所在なさげにしていた愛らしい少女に。目尻を涙が流れるまま眠りに落ちていった。
「よお!すっかり病人だな。会社は大丈夫なのか?」
耳慣れた声に目を覚ますと、悪友がいつもと変わらないにやけた顔で覗き込んでいた。
「何日たった?あれから。」
あれ、というのは僕が前後不覚になった3月25日のことだ。カーテンが引かれたままの薄暗い部屋で目を覚ましては眠りに落ちるを繰り返し、現実味が失われ時刻の感覚が狂っている。
「あ?ああ、3日いや、4日だ。」
そんなに経っていたとは。僕の不在は会社の仲間に負担をかけているにちがいない。早く戻らなければ。
身体を起こそうとして、太い2本の腕に押さえつけられる。
「まだ寝とけ。お前がいなくてたちゆかなくなる会社なら一度壊して、今は休んで元気になってまたやり直せばいいじゃないか?そうじゃなくても、今のお前は足手まといにしかなんないだろ?」
正論だ。だが。
「事業は遊びじゃない。」
「わかってるって。でもそんな身体になるようじゃ、また繰り返すぜ。ずっと全力出して走り続けなきゃならんほど追い込まれてちゃ、勝負になんねぇよ。いつ息切れして失速してもおかしくない。無理すんな。」
抵抗する気力が湧いてこない。渡辺の言うとおりだ。
それに、自分でもわかっている。こんな僕じゃだめなんだ。今は焦りで視野が狭くなっている。
こんな時には、あの優しい温もりが、柔らかな声が恋しい。
薫・・・。
もう僕を励まして癒やして優しく包み込んではくれないのか。
君が傍にいてくれるなら、僕は全てをリセットして新しい困難に立ち向かう勇気を持てるのに。
「彼女は、どうした。」
声が掠れた。のどが渇いてひりつく。
「友子か?すっかりノリノリのデパガだぜ。」
「いや、佐々木さんのことじゃなくて・・・。」
楽しそうに鼻の下を伸ばす渡辺には悪いが、僕が知りたいのは薫の消息であって、ヤツのガールフレンドのことではない。
僕らと同い年の佐々木さんは薫の親友で、2月からデパートでの新人研修に参加していてすっかり職場に馴染んだようだ。それはそれでいい知らせだが。
「姫は、郷に帰った。それ以外、お前に伝えられる情報はない。不満があるか?」
やや、態度を堅くして一息で言い切った渡辺の瞳はこれ以上の追求を強く拒否していた。
姫というのは渡辺独特の薫に対する呼称だ。2人は男女の枠を越えて仲がいい。薫が帰郷した詳しい理由を渡辺が知らないとは思えないが、僕に伝えるべきことがないと渡辺が言うのなら、それ以上の追求は無駄なのだ。
それを受け入れた途端、僕の身体から力が抜けた。
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