第37話 Comeback―再起―

 エリーザベトの死は、ランツフート陣営にとっても青天の霹靂へきれきだった。


 彼女は、死ぬ当日まで甲冑を身にまとい、全軍を鼓舞して、ローマ王との決戦に備えていたのである。


「ドロテーア。私は将軍として将兵とともに陣営にいなければいけません。あなたに、息子たちをお願いしたいのです」


 エリーザベトは、ランツフートにとどまったドロテーアにそう頼み、二人の幼い息子を託していた。ゲッツと知り合いらしい彼女を信じてもいいのかと心配する者もいたが、エリーザベトはドロテーアのような聡明で気丈な女性なら息子たちをきっと守ってくれると考えていたのである。


 そして、エリーザベトは、今までループレヒトに取り入っていた口だけの騎士たちを遠ざけ、クリストフやケヒリ、ヘルゲなどの実力者に様々なことを相談して軍の指揮をとった。


 特にエリーザベトが常にそばに置き、頼りにしていたのがケヒリである。男勝りなエリーザベトは、蛮勇の貴公子ループレヒトを愛し、女ゲッツとでも言うべきドロテーアを信用するなど、気性の強い人間に惹かれる傾向があり、真面目で控えめなクリストフよりも、血生臭い歴戦の傭兵隊長ケヒリに頼もしさを感じていたのである。


 ケヒリはケヒリで、エリーザベトに母の面影を見て、彼女に尽くすことがおのれの最後の戦いと思い定め、ローマ王との戦に闘志を燃やしていた。母を失って以来、戦場で命のやり取りをすることだけが生き甲斐になっていた野獣が、尊崇する女を守るために戦うという人間らしい生き様を初めて見出していたのだった。


 しかし、その守るべきエリーザベトが、天国の夫に手招きして誘われたかのように、忽然こつぜんと死んだのである。何の前触れもなかった。


 九月十五日の夜、急に「胸が苦しい」と言い出し、彼女はランツフート市外の陣営で倒れた。そして、


「ケヒリ……。坊やたちを……ローマ王に……」


 と、一言だけうめくように言うと、吐血して絶命したのである。


 この報せを聞いたケヒリは、かつてないほど動揺し、うろたえた。


「え、エリーザベト様が!? 馬鹿な! そんなはずは……!」


 ケヒリは自分の幕舎から飛び出し、エリーザベトの幕舎へと走った。


「馬鹿な、そんなはずはない、彼女が死ぬなど……!」


 と、何度も繰り返してわめき、エリーザベトの幕舎前で見張りをしていた兵士たちを「邪魔だ! どけぇ!」と左手で乱暴に突き倒し、幕舎の中へと入った。そして、ベッドで永遠の眠りについている彼女の青白い顔をおのが目で見ると愕然がくぜんとし、その場でガタリと膝をついた。


「…………毒殺だ。つい一時間前まで元気に兵たちを鼓舞していたエリーザベト様が、コロリと死ぬなどおかしい。エリーザベト様の身の回りの世話をしていた侍女の誰かが、食事に毒を盛ったのだ」


 そうぶつぶつと呟くと、ケヒリは亡霊が地よりい出てきたかのようにゆらり、ゆらりと立ち上がった。


 そして、剣を抜き、幕舎内にいた五人の侍女たちをぎょろりと血走った目でにらみつけたのである。「ひっ……!」とおびえる侍女たちの悲鳴がほの暗い幕舎内に響いた。


 少年期に愛する母を守れず、晩年において母とうり二つの女性エリーザベトと出会った。今度こそは彼女を守ろう。ケヒリは心にそう誓っていた。それなのに、また守れなかった。こんなにもあっ気なく死なせてしまった……。


「う……うう……うわぁぁぁぁぁ!!!」



            *   *   *



 怒り狂ったケヒリは我を失い、クリストフと息子のヘルゲがやって来て二人がかりで止めるまでの間に、五人の侍女のうち三人を斬り殺してしまっていた。


「落ち着け、ケヒリ殿! 今はエリーザベト様が死んだという噂が兵や市民たちに広まり、彼らが動揺しないようにしなければ!」


 クリストフとヘルゲは、エリーザベトの死を一部の指揮官たちだけに伝え、何とか秘匿ひとくしようとした。


 ループレヒトが死んだ時、暗殺者を捕えるために大騒ぎしてしまい、あっと言う間にその死の情報が拡散して軍全体だけでなくランツフート市民も大いに動揺したのである。その失敗にクリストフたちはりていたのだ。


 しかし、エリーザベトの死は、彼女が急死した翌日の昼頃には、陣営の将兵、市内の市民たちに広まってしまっていたのである。


 ケヒリの読み通り、エリーザベトは狡猾公こうかつこうアルブレヒトが放った間者によって毒殺されていたのだ。そして、アルブレヒトは、エリーザベトを毒殺するための間者だけでなく、彼女の死の噂を流すための間者たちも同時に送り込んでいたのだった。


 エリーザベトの死を知った市民たちは、


「ループレヒトの兵たちは今すぐランツフートを出て行け!」


 と、騒ぎ出した。


 彼らがループレヒトを歓迎したのは、亡きランツフート公の娘であるエリーザベトを彼が妻にしていたからである。言わば、エリーザベトはランツフート陣営の旗印はたじるしだった。そのエリーザベトが死んだとなれば、市民たちが市外に駐屯ちゅうとんするループレヒト軍に協力する理由はなくなるのである。


 城には、ループレヒトとエリーザベトの幼い息子たちがまだいるが、二歳と一歳の幼児を主君として仰ぎ、ローマ王の大軍勢と戦おうと考える者は都市には一人もいなかった。戦の指揮をとれる総大将が不在のランツフート陣営に勝ち目などあるはずがないのだ。戦に負けて都市が戦火に焼かれてしまうことを市民たちは恐れていた。


「暴徒と化した市民たちが、市内の城に押し寄せています!」


 伝令の報告を聞いたクリストフは焦った。城には、ループレヒトの遺児オットー・ハインリヒとフィリップ、そして、ドロテーアがいるのだ。


(もしも城に火をつけられたりしたら……)


 そう心配し、今すぐ軍隊を出動させて暴動を鎮圧せねばと考えた。しかし、クリストフが兵を率いて市内に突入する前に、城兵たちに守られたドロテーアが若様二人を連れて市外の陣営に駆け込んで来たのである。


「クリストフ殿。もう、ここにいても仕方ありませんよ」


 都市の混乱のありさまを見たドロテーアは、市民たちが暴れ出す直前に城の裏門からこっそりと脱け出し、いち早く避難していたのだ。か弱い少女とは思えないほどの機転と度胸である。


「うむ……。しかし、ローマ王に降伏するわけにはいかぬ。ループレヒト公の無念を晴らすためにも、最後まで戦い抜く。それが主君に忠義を捧げる騎士というものだ」


 何もかもを失い、ループレヒトという最後のり所すら失っていたクリストフが求めていたのは、騎士としての死に場所だった。忠義のために華々しく戦い、騎士としての誇りを取り戻して死にたかったのである。


 死に場所を求めていたのは、他のループレヒトの家来たちも同じだった。この期に及んで、降伏などあり得ない。


「ならば、クーフシュタイン城に行こう」


 一時は大いに取り乱し、ようやく落ち着いていたケヒリが、クリストフにそう言った。


 この老傭兵が、エリーザベトという人生最後に出会った希望を失って憔悴しょうすいしてしまったかといえばその逆で、彼女を敵に毒殺されたという憤怒ふんぬの感情によって、ケヒリは身を焦がすほどの闘志をたぎらせていたのである。


「ローマ王に背いたピーンツェナウアーが立て籠もるクーフシュタイン城は、大軍でも攻めあぐねるほどの堅固な要塞だ。若様たちをお守りしつつランツフートを退いてクーフシュタイン城に入城し、籠城してプファルツ選帝侯せんていこうの救援を待つのだ」


「よし。ならば、クーフシュタインへ向かおう。……だが、ローマ王は必ず追撃して来るだろうな」


 マクシミリアンが、クーフシュタインへと逃げるループレヒトの残党軍を見逃すはずがない。要塞に逃げ込まれる前に我らを殲滅せんめつしようとするはずだ。


「俺が帝国軍を足止めします。クリストフ殿と父上は、若様たちをお守りして、クーフシュタインへ先に行ってください」


 ヘルゲが殿しんがりを申し出ると、ケヒリは「足止めは俺がやる。敵たちを皆殺しにしてやる」と殺気に満ちた語気でそう言った。


「冷静さを失っている今の父上には、軍の指揮はとれません。どうか俺に任せてください。エリーザベト様は、今際いまわきわに父上の名を呼び、若様たちをローマ王から守ってくれとおっしゃったのですよ。父上は、若様たちをお守りしてクーフシュタインに逃げてください」


 エリーザベトの名を出されたケヒリは、


「む、むむむ……。分かっている。若様たちは、この命に代えてでも帝国軍から守る」


 と、頷くのであった。


 ケヒリたちは、ループレヒトとエリーザベトの謀殺には、狡猾公アルブレヒトだけでなく、ローマ王マクシミリアンも関わっているに違いないと考えていたのである。



            *   *   *



 「エリーザベト死す」の報を聞いたマクシミリアンは、


(ループレヒトに続き、妻のエリーザベトまでもが急死だと? こんな偶然があるのか? まさか、義弟のアルブレヒトが……?)


 と、不審に思った。だが、この機を逃してはならない。マクシミリアンはレーゲンスブルクを発し、ランツフートへと軍を進めた。


 しかし、ランツフート近郊では、ヘルゲ率いるボヘミア傭兵隊が帝国軍を待ち受けていて、思わぬ苦戦を強いられたのである。


 ケヒリが育てたボヘミア傭兵隊の荷車城塞ワゴンブルクは、レーゲンスブルク近郊で帝国軍が打ち破ったボヘミア兵の荷車城塞ワゴンブルクよりもはるかに練度が高く、つけ入る隙がなかったのだ。また、ヘルゲは騎銃きじゅう隊も駆使して、帝国軍の先鋒のブランデンブルク辺境伯へんきょうはく軍に大きな損害を与えた。


「く……くそっ! このままでは……」


 辺境伯の次男ゲオルクの後詰めの陣にまでボヘミア傭兵たちが押し寄せて来て、ゲオルクは自ら剣を抜いて戦った。


「そこの大将、いざ尋常じんじょうに勝負!」


 ヘルゲは、乱戦の中、美々しい鎧を着て戦っているゲオルクを発見し、辺境伯の公子に違いないと見て斬りかかった。


 ゲオルクはこんな所で死んでたまるかと必死になり、ヘルゲと剣を交えたが、ケヒリに直々じきじき剣を教わったヘルゲに敵うはずがない。ヘルゲの猛攻に耐えきれず、ゲオルクは剣を落としてしまったのである。


「覚悟っ!」


 ヘルゲが叫び、ゲオルクにとどめを刺そうとした。


 しかし、その時、一騎の武者が「待て!」と怒鳴りながら駆けて来て、ゲオルクとヘルゲの間に割って入ったのでる。


 その武者とは――。


「げ、ゲッツ! 無事でいてくれたのか!」


 ゲオルクは涙ぐんで喜び、ヘルゲも驚いていた。右手を失ったゲッツが、こんなにも早く戦線復帰するとは誰も考えていなかったのだ。


 ゲッツは、左手で手綱を握り、右腕を隠すようにして漆黒のマントを羽織っていた。


「ゲッツ殿。あなたは戦場に死にに来たのか。俺の父上でも、右手を失ってから半年以上は戦場に戻ることができなかったというのに……」


「俺は死ぬために戦うような馬鹿な真似はしねぇよ。生きるために戦うんだ。ヘルゲ、お前とは殺し合いをしたくない。ここは退け」


「悪いが、戦場では私情を挟むなと父から教えられている。のこのこと戦場に我が敵として現れたからには、ゲッツ殿でも殺す……!」


 ヘルゲはそう叫ぶと馬腹を蹴り、剣を振り上げながらゲッツめがけて突撃した。ゲッツは動かず、ヘルゲを待ち構える。


「う、うおっ!?」


 急に視界が暗くなり、ヘルゲは焦った。


 ゲッツがマントを投げつけ、追い風で飛来した黒マントがヘルゲの頭をおおったのだ。「小癪こしゃくなことを!」と怒鳴り、ヘルゲはマントを引っぱがした。


 だが、その時には、愛馬シュタールを疾駆しっくさせたゲッツが目の前にいて、右手で剣を一閃いっせんしていたのである。


(右手――? こ、鋼鉄の義手か……!)


 驚愕きょうがくしたヘルゲはその一撃をかわすことができず、何とか剣で受けたものの、体勢を崩して落馬してしまった。


「くっ……。ゲッツ殿。あなたの闘志には感服した。二か月足らずでこの俺を落馬させるほどの強さを取り戻すとは」


「…………お前はもう俺の友だ。殺したくない。さっさと行け」


 ゲッツは、余裕ぶった顔でヘルゲを見下ろしているが、剣を振るった時の衝撃によって右腕はガンガンと痛んでいた。震えそうな右腕を左手でおさえ、泣きわめきたいのを必死に我慢していたのである。


「戦場での甘さは命取りになるぞ、ゲッツ殿」


 ヘルゲはそう言うと、ボヘミア傭兵たちに守られながら退却していった。


 それを見送ったゲッツは、ふーっとため息をつき、


「や、やばかったぜ……。あそこでヘルゲが落馬してくれていなかったら、逆襲されて俺が負けていただろうな。ここまで丸一日、全速力で馬を走らせて来て、疲れちまった。あと一回、剣を思い切り振るう体力もないぜ」


 そう言い、馬から落っこちそうになった。


 そこにトーマスが馬を走らせて駆けつけて、主人の体を支え、


「ゲッツ様! あれほど一人で先走らないでくださいと言ったじゃないですか! まだ本調子じゃないんですから!」


 と、ゲッツを説教した。


 そして、タラカーたちもやって来て、エッボとカスパールがトーマスと協力して、ゆっくりとゲッツを馬から降ろすのであった。


「ゲッツ……。そなた、こんな体で駆けつけてくれたのか?」


「はい、ゲオルク様。ですが、今回は辺境伯の殿様のためでも、ゲオルク様のためでもありません。俺自身のために戦場に戻ったんです。申し訳ないのですが、これから始まる戦いは、全部、俺のやりたいようにさせてもらいます。気に食わない命令だったら、ローマ王の指図も受けねえ」


「それは、どういう意味だ?」


「この戦いは、盗賊騎士ゲッツの私闘フェーデなんですよ。愛する女と、戦士としての誇りを取り戻すためのね」


 ゲッツはニヤリと笑った。ゲオルクは、


(ああ。この悪戯いたずらっぽい笑みは、ゲッツが何か面白いことをしでかしてくれるときの前触れだ)


 と思い、「そうか」と微笑んでうなずくのであった。



            *   *   *



「おお! ゲッツ! よくぞ戻って来たな!」


 ゲオルクを救出したゲッツは、ボヘミア傭兵隊に打ち負かされて退却して来たナイトハルト隊、フリッツ隊と合流した。部隊が総崩れになっているのに一人で突撃を敢行かんこうしようとしたフリッツは、ナイトハルトにぶん殴られて渋々しぶしぶ逃げて来たのである。


「ゲッツ! お前がいない間に、お前の傭兵どもを鍛えておいてやったぞ! 感謝しな!」


 フリッツがそう言うと、彼に従っていた傭兵たちが、


「ゲッツ様! ご無事で何よりです! あまり心配をかけさせないでくださいよ!」


 と、泣きながらゲッツの元に駆け寄って来た。涙を流してまで主人の帰りを喜ぶとは可愛い奴らだとゲッツは感激したが、傭兵たちは、


(これで、フリッツ様の地獄巡りのような訓練から解放される!)


 と思い、大泣きしていたのである。


「ゲッツよ。せっかく駆けつけてくれたのに、こんなありさまだ。辺境伯軍は総崩れだ」


「ナイトハルト伯父上。戦はこれからだぜ。俺は今からニュルンベルクの大砲隊を指揮して、あの荷車城塞ワゴンブルクをぶっ飛ばしてやる」


「何? なぜお前がニュルンベルクの部隊を……」


「シュヴァーベン同盟軍の大将パッペンハイムから、ニュルンベルクの奴らをこの戦争の間だけ俺が好きなようにこき使える権利を頂戴ちょうだいしたのさ。……おい、みんな。俺はちょっと疲れた。ニュルンベルクの陣営までかついで行ってくれ」


 ゲッツはそう言うと、再会した傭兵たちに「わっしょい、わっしょい」と自分の体を担がせ、ニュルンベルクの陣へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る