第33話 Verwirrung―混乱―

 その頃、クリストフとドロテーアは城内の客室を借りて、今後の自分たちについて話し合っていたが、いまだに揉めていた。


 ドロテーアが、このままランツフートにとどまってクリストフの妻になると言っているのに、クリストフは首を横に振るばかりなのだ。


「俺は、そなたを妻にはできない。その資格がないのだ」


 と、ゲッツに言ったのと全く同じことを言い、ドロテーアを拒絶したのだ。なぜそんな冷たいことを言うのですかとドロテーアが迫っても、クリストフは押し黙り、なかなか本心を明かさなかった。


「資格がないというのは、私以外の女性で好きな人ができたということですか? …………いいえ、昔からいたんですね?」


 ドロテーアがクリストフの目をのぞきこみながらそう言うと、クリストフの眉がピクリと動いた。


(やはり、そうなんだ。クリストフ様は、昔から私にどこかよそよそしいところがあって、親戚の子どもくらいの扱いしかしてくれなかったもの)


 だったら、最初から結婚なんてできないと言って欲しかった。


 十歳の頃に、以前からザクセンハイム家と親交があり、自分を妹のように可愛がってくれていたギーク家のクリストフと婚約することになった時、お優しいクリストフ兄様なら私を幸せにしてくれると喜んだものだ。


 それ以来、この人はもうクリストフ兄様ではなく、将来の旦那様なのだと自分に言い聞かせてきた。それなのに、今さらになって、ドロテーアとは別の女を愛していたと分かってしまったのだ。


「ひどいです。私、何のために命がけでここまで来たのか……」


「ドロテーア……。すまない。実は、俺は……」


 涙を流すドロテーアを見て、クリストフがそう言いかけた時、部屋に数人の騎士たちがドカドカと荒々しい足音とともに入って来た。


「た、大変だ! と……殿が……ループレヒト様が殺された!」


「な、何!? だ、誰に殺されたというのだ!」


「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンだ! あいつが、殿の恩を仇で返して、殺したんだ!」


「ば、馬鹿な! あいつはそんな男では……」


獅子亭ししていにいた者は、宿の主人や客だけでなく、殿の護衛たちも皆殺しにされていて、ゲッツだけがループレヒト様の遺体と一緒にいたんだぞ! 奴が殺したに違いない! 仲間の騎士たちがゲッツの身柄を取り押させている。あの野郎、なぶり殺しにしてやる!」


「ま、待ってください! ゲッツ殿は右手を失っているんですよ! たった一人でそんなに大勢を殺せるはずがありません! 別の誰かがやったんです!」


 ドロテーアは、クリストフが驚くほどの剣幕けんまくで、悲報を知らせに来た騎士たちに食ってかかった。


「とにかく、ランツフートの全ての門を閉じて出入りを禁止し、市内に怪しい者がいないか調べなければ」


 クリストフがそう言うと、騎士たちは「エリーザベト様がすでにそうお命じになった」と答えた。


「ならば、俺は獅子亭に向かう。ゲッツが殺されていないか心配だ」


「わ、私も連れて行ってください!」


「ドロテーアはここにいなさい。市内に殿を殺した暗殺者が潜んでいるかも知れない。危険だ」


「いいえ! 行きます! ゲッツ殿を助けなければ!」


「……ドロテーア。分かった」


 クリストフはそう言うと、


(どうやら、俺たちは婚約者同士でありながらお互いに別の異性に惹かれてしまったのだな。そなたはそのことにまだ気づいていないのだ) 


 と、心の中で呟くのであった。



            *   *   *



「ち、ちくしょう。何なんだ、あの化け物じみたジジイは!?」


 クンツは、暗殺部隊として選抜した精鋭の傭兵たちに守られながら、負傷した左腕を右手でおさえて市内を逃げ回っていた。


 この数日間、ループレヒトの動向を市内に潜んで監視して、ループレヒトの暗殺の機会をうかがっていた。そして、


(ループレヒトの奴、獅子亭とかいう宿屋に入りやがった。あそこに負傷兵として保護されている騎士がいるらしいから、そいつの見舞いに来たのか。……今、ループレヒトの供の数はたった四人。これは好機だ)


 そう考えたクンツは、獅子亭を襲撃し、ループレヒトを殺すことに成功した。


 そして、体についた血をぬぐうと、夕闇にまぎれてランツフートから脱出しようとしたのだが、あともう少しで都市の中央部アルトシュタットの町を抜け出せると思った時に、隻腕せきわんの老傭兵ケヒリとバッタリ遭遇してしまったのである。


 タラカーを追っていたケヒリは、途中でタラカーとカスパールを見失い、血眼ちまなこになって捜している最中だった。しかし、血の匂いがプンプンする怪しい男たちを人通りの少ない路地で発見したため、


「貴様ら、何者だ! 敵の間者か!」


 と、クンツたちに問いただしたのである。クンツは、


「めんどくせぇ、こんなジジイ殺しちまえ」


 と言い、傭兵たちにケヒリを襲わせた。


 だが、ケヒリは路傍ろぼうの石を拾って立て続けに三発投げ、その全てが傭兵たち三人の目に命中して彼らはひるんだ。その隙を突き、剣を抜いてまたたく間に三人を斬り殺したのである。さらに、驚いているクンツに斬りかかり、恐るべき膂力りょりょくの左手剣術でクンツを圧倒したのだ。


「このジジイには、敵わねぇ!」


 左腕を負傷したクンツは、傭兵数人に時間稼ぎをさせてケヒリから逃亡したのであった。


 この頃には、ループレヒトの家来たちが変事に気づき、エリーザベトの命令で市内には厳重な警戒網が張られていて、すでに日が沈んでいるというのに、ランツフートの都市は篝火かがりび松明たいまつで真昼のように明るくなっていた。


「あそこに怪しい奴らがいるぞ! 捕えろ!」


 クンツとその手下たちは、袋の中のねずみとなりつつあった。このまま固まって逃げていたら目立つだけだと考えたクンツは、


「お前たち、散らばって逃げるんだ!」


 そう言い、部下たちを散らして逃がした。


(あいつらがおとりになってくれている間に、俺は何としてでも逃げ切ってやる)


 と、クンツは考えていたのである。しかし、クンツはまたもや大物と遭遇してしまったのだ。その人物は、クンツが捜し求めていた男だった。


「クリストフ!? お、お前、なぜここにいるんだ⁉」


「それはこっちのセリフだ、クンツ。貴様、何の用があってランツフートに……」


 ドロテーアを連れて獅子亭に向かおうとしていたクリストフも、因縁いんねん深きクンツとの思わぬ再会に驚いたが、クンツが負傷していて全身から殺気を放っていることに気づくと、


「く……クンツ! ま、まさか、我が殿を殺したのは貴様なのか……!?」


 と、愕然がくぜんとした表情で叫んだ。


「な、何だと? お前、ループレヒトの家来になっていたのか?」


 クンツも驚いてそう言ったが、激怒したクリストフは剣を抜いて有無も言わさず仇敵クンツに斬りかかったのである。


「貴様は、なぜ俺の大切なものばかりを……!」


「ま、待ってくれ。クリストフ、待ってくれ! 俺は、お前の家族を殺す気はなかったんだ! イルマさえ手に入ったら、それでよかったのに、お前の家族が抵抗するから……」


「貴様は、人が人を想う心というものを理解していない! 家族のイルマが目の前でさらわれようとしていたら、命がけで助けようとするに決まっているではないか! そんなことも分からないのか!」


「わ、分からねぇよ! 俺の家族は、みんなバラバラで、誰も俺に愛とは何なのか教えてくれなかったんだ! 愛がどういうものなのか知りたかったからイルマをさらったんだ! ……それなのに、イルマは俺に心を許してくれねえ。あいつは今、病気なんだ。なあ、クリストフ。俺と一緒に帰って、イルマを見舞ってやってくれよ。そうすれば、イルマも元気に……」


「……今さらイルマに会えるか! こんなにも落ちぶれてしまった俺の姿をあいつには……あいつにだけは見せたくない!」


 クリストフが激しく打ちかかり、戦意のないクンツがその猛攻を必死にかわしている中、ドロテーアは、


(クリストフ様が本当に愛している人とは、もしかして……)


 と、一度だけ会ったことがある同い年の少女イルマの気弱そうな顔を思い出していた。


「く、くそ……。このままでは、クリストフを連れ帰るどころか、俺がクリストフに殺されちまう。……やむを得ないな。ここはいったん引こう」


 クンツはそう呟くと、左腕の傷口からどくどくと流れ出ている血を右の手のひらですくい、血のしずくをクリストフに飛ばした。


 目に血が入ったクリストフは「あっ、こいつ……!」と言い、目をこする。その隙を突き、クンツは路地裏へと逃走したのであった。


「待て、クンツ! 逃がすか!」


「クリストフ様! 早く獅子亭に駆けつけないと、ゲッツ殿が……」


「そ、そうであった。みんな、主君を失って頭に血が上っている。ゲッツを暗殺者と決めつけて、殺してしまうかも知れない」


 ドロテーアの言葉で冷静になったクリストフは、ドロテーアに「こっちだ、ついて来なさい」と言い、獅子亭へと急ぐのであった。

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