第32話 Beschämung―屈辱―

 ちょうど同じ時刻、ゲッツがいる獅子亭ししていでは大事件が起きようとしていたのである。


 ゲッツは、この日も、ヘルゲを相手にして格闘技や剣術の試合をして、一日も早い戦線復帰を目指していた。


 毎日のように一緒に汗を流しているヘルゲとは、ずいぶんと仲が良くなっていた。ヘルゲは人見知りをする性格なのだが、人懐っこいゲッツの愛嬌のせいか、徐々にではあるがゲッツに心を許し始めていたのである。


「俺は人と馴れ合うことは好まぬが……貴殿とは良き友になれそうだ。ゲッツ殿には、我が父に劣らぬ不屈の闘志がある。俺は、ゲッツ殿のその闘志に男惚れした。だから、いつでも特訓に付き合うから、また呼んでくれ」


 ゲッツにそう言ってくれるようになっていた。義父ケヒリに従い戦場を渡り歩いていたヘルゲにとって、ゲッツは生まれて初めてできた友人だった。おそらく、隻腕せきわんの戦士である父と右手を失いながらもくじけずに再び立ち上がろうと努力しているゲッツを重ね合わせていたのだろう。


 特訓が終わり、ヘルゲが獅子亭を去った後、ゲッツは宿の二階の部屋に戻り、上半身裸で体の汗を拭いていた。


「それにしても、少し驚いたな。ケヒリは、ドイツの帝国騎士とボヘミアの女の間に産まれたのか……」


 ヘルゲから聞いたケヒリの過去を思い出し、ゲッツはそう呟いた。


 ケヒリの父はシュヴァーベン地方の帝国騎士で、領内の村の娘に手を出して妊娠させたが、その娘の両親はフス戦争時にドイツの領内を荒らし回ったボヘミアの兵士とその妻だったのである。フス派の仲間がドイツから撤退し、現地に自分たちだけ取り残されてしまった兵士と妻はドイツの人々から殺されそうになったが、逃げ惑っていた時にある村の親切な村長にかくまわれ、そのまま出自を隠してその村に住みついていたのである。


 その事実を知ってしまった騎士は、ドイツの領土を荒らしたまわしきフス派の血を受け継ぐ娘をはらませてしまったのかと後悔し、身重のボヘミアの娘を領内から追い出した。


 娘は、ドイツ内の戦場を渡り歩いていたボヘミア傭兵たちに拾われ、兵たちとともに戦場を転々とし、戦の最中にケヒリを産んだ。そして、ケヒリは母親の愛情に守られながら成長したのである。


 ケヒリは成長すると、自分の唯一の味方である母を守るため、ボヘミアの兵士として戦うようになった。


 しかし、ある時、諸侯同士の勢力争いの小競り合いで、ボヘミア傭兵隊が味方した諸侯の軍隊が敗北し、多くのボヘミア人が死んだ。まだ少年と言っていい年齢だったケヒリは命からがら助かったが、母親は帝国騎士の兵によって殺されてしまったのである。


「俺は、あの時、守るべき大切な人間をもう二度と持たないと決めた。大切な人間を失う苦しみは、手足の全ての指を切り落とされるよりも辛いものだ。あんな絶望、二度と味わいたくはない」


 たった一度だけ自分の過去をヘルゲに教えてくれた時にケヒリが、そう言っていたらしい。ケヒリにとって、息子のヘルゲや部下の傭兵たちも、守るべき者ではなく、ただの戦いの道具なのだという。


(でも、それは本当かなぁ。ひとかけらも愛情を感じていない奴を息子として育てないはずだ。あの男にも、まだ人間らしさというものが残っているんじゃないのか?)


 ゲッツは、ケヒリを父として慕っているヘルゲを見ていて、そんなふうに感じた。ケヒリが自分でも気づかずに愛情を与えたから、ヘルゲもケヒリに愛情を抱いているのだろう。……そう思うのだ。



            *   *   *



「失礼するぞ。裸で何をぼんやりとしているのだ? 考え事か?」


 ゲッツがケヒリについてあれこれと考えていると、一人の若者がノックもせずにゲッツの部屋に入って来て、勝手に椅子に座った。


「ああん? 誰だよ、てめえは。断りもなく勝手に入るんじゃねえ」


「これは失礼した。俺は、ループレヒト・フォン・デア・プファルツだ。右腕の具合はどうだ、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」


「…………なっ!?」


 まさかループレヒト自ら見舞いに来るとは夢にも思っていなかったため、ゲッツは驚いた。しかも、裸になっている最中に……。


「申し訳ない。急いで服を着ます」


「はっはっはっ。そう慌てるな。この暑さだ。そのままでもよい」


 ループレヒトは笑いながらそう言ったが、ゲッツは、


(男に裸をまじまじと見られて喜ぶ趣味はねえ!)


 と思い、上着を手に取った。まだ素早く服を着ることができず、かなり手こずったが、何とか着ることができた。


「ループレヒト様。お一人ですか。供は連れていないのですか」


「心配するな。宿の外に二人、この部屋の外にも二人いる」


「護衛はたった四人ですか。暗殺されても文句は言えませんぜ」


 いつもの癖で、思ったことをポンと言ってしまい、すぐに(いけねえ)と思ったゲッツは、


「す、すみません。無礼なことを言いました」


 と、慌てて謝った。


 ループレヒトは、重傷を負ったゲッツを保護してくれている恩人なのだから、ゲッツでも少しは気を遣う。


「気にするな。俺は、腹の底が読めない男よりは、そなたのような分かりやすい男のほうが好きだ。それに、今日はそなたに謝罪をするためにここへ来たのだ。それぐらいのことで怒ったりはしない」


 さっきから、近くの聖マルティン教会の鐘の音がうるさい。二人の会話の声はお互いに聞こえるように大きめになっていた。


「謝罪? 何のことですか。敵将である俺を手厚く保護してくれているというのに」


 ゲッツがそうたずねると、ループレヒトは「そのことだよ」と言って椅子から立ち上がり、


「俺は、そなたを利用したのだ。俺には『ローマ王に背いた傲慢ごうまんな反逆者』という悪評がある。だから、敵味方に俺の君主としての寛大さを見せつけ、世の人々から新しいランツフート公にふさわしいうつわだと思わせるため、敵将のそなたを助けたのだ。この戦に勝つためならば、右手を失って生死をさ迷っている人間でも利用してやろうと考えた。親切心からでも、同情心からでもないのだよ。だから……そなたの不幸を利用してしまったこと、本当に申し訳ないと思っている。許してくれ」


 そう告白し、ゲッツに頭を下げたのであった。


「腹の底が見えない男は嫌だと言うだけあって、ずいぶんと正直な人ですな。そんな本音は黙っていればいいものを。俺に本音をぶちまけたら、あなた様の評判を高めるための計画は台なしですよ。俺が、ループレヒト公がこう言ったと人々に言い触らしちまったら、逆にあなた様の評判は『あいつは偽善者だった』となり、ガタ落ちですぜ」


「ああ。それで構わない。最初は、騎士道精神あふれる王という名声を持つローマ王に対抗しようと、そなたを利用して策をろうしてみた。……だが、何日もじっくりと考えて迷った末、俺はこう思ったのだ。結局、俺という人間の価値を決めるのは他人ではなく、おのれ自身なのだと。大切なのは、誰かに認められることではない。俺が、俺の生き様を愛し、価値を見出すことができるかだ。自分という人間を愛することができなければ、この世に生まれてきた甲斐がないだろう?」


(自分の生き様を愛する……? 俺は、自分をろくでなしと決めつけて、ずいぶんと自分という人間を自らおとしめていたような気がするな……)


 この貴公子は、自分の心に常に素直でいなければ生きていけない性格なのだろう。自分が納得して選んだ道なら、どんな危険や不利益が待っていても突き進み、その生き方に自ら価値を見出す。だが、他人から見たら正しい選択でも、自分の意思や主義を曲げなければいけない生き方は選択しないのだ。


 そして、その生き様が人々に自信過剰で傲慢だという印象を与えてしまうのだろう。それでも、自分という人間を価値あるものだと信じているループレヒトは、迷いを振り切ることができるのである。


(迷いは人を弱くさせるとタラカーの親父が言っていた。ループレヒトには迷いがないから……いや、たとえ迷っても、「俺は正しい。これでいい」とおのれを信じて迷いに打ちち、自分が選んだ道の先に何があっても後悔しない覚悟を持っているのだろう。辺境伯へんきょうはく家への奉公に挫折し、右手を失い、戦士としても一度挫折してしまった、挫折と迷いだらけの俺には、ループレヒトのような生き様がまぶしく見える……)


 俺の人生は、俺が決める。そんなふうに胸を張れたらどれだけ幸せだろう。しかし、このランツフートで病人のような生活を続けていたら、いつまで経っても新たな人生を歩みだせないし、自信をつけることもできない。


「俺は、この戦いの中でループレヒトという男の価値を見つける。ローマ王や狡猾公こうかつこうが俺に押した『反逆者』という烙印らくいんなど、絶対に認めない。ゲッツも体調が回復したのなら、自分のやりたいように行動するがいい。この都市を出て再び我らの敵に回っても俺は怒らない。全てはそなたの自由だ。片手だけになってしまった不安はいまだに消えないだろうが、まずは第一歩を踏み出してみろ。そうしないと、何も始まらないぞ」


 ループレヒトはそう言い、微笑んだ。どうやら、彼がここに来た本当の理由は、自分のつまらない策略に利用してしまったゲッツを罪滅ぼし代わりにここから解き放つことだったようだ。


「第一歩を踏みださなければ、何も始まらない……。たしかに、その通りだ。俺、ランツフートを出ますよ。俺はいつも自分に気合を入れる時、『ぶん投げろ! ぶん殴れ! 全てはそれからだ!』と叫んでいるんです。自分から動き出さなければ、何も始まらないということです。勇気を出して、新たな人生の第一歩を踏み出してみますよ」


「うむ。ならば、また戦場で会おう」


 ループレヒトはゲッツの肩をポンと叩くと、きびすを返して部屋から去ろうとした。ゲッツは頭を下げ、彼を見送る。


 しかし、ループレヒトの体は、部屋の出口の前でピタリと止まった。


 そして、仰向けにドスンと倒れたのである。


 ぎょっとしたゲッツは、ループレヒトが腹から血を流していることに気づいた。


「る、ループレヒト公!」


「よう、ゲッツ。負傷兵としてループレヒトに保護されている騎士というのは、お前のことだったのか」


 そう言い、血刃を右手にぶら下げて部屋に侵入して来たのは、クンツだった。


 クンツは、唖然あぜんとしているゲッツの前で、まだ息のあるループレヒトの体を踏みつけた。そして、剣を一閃いっせんしてのどき切ったのである。


 どばぁぁと血が噴き出し、ゲッツとクンツの顔は真っ赤に染まった。


「本当に不用心な男だぜ。あんな弱い護衛四人だけで自分の身が守れるとでも思っていたのか?」


 ようやく教会の鐘の音がおさまった。


 クンツとその傭兵たちは、この鐘の音が鳴っている間に、宿屋の外と部屋の外にいた護衛四人、それに宿の人々を剣で黙らせ、ここまで接近したのである。


「てめえ……てめえ……。何てことをしやがるんだぁぁぁ!」


 ループレヒトとの間に友情らしき感情が芽生えそうになっていたゲッツは激昂げっこうし、寝床に置いてあった鉄製の義手を手に取った。そして、怒りで震える手で義手を右手首に装着したのである。


「鉄の義手? そんなの、ただの玩具おもちゃじゃねぇか!」


 クンツは嘲笑ちょうしょうしながら剣を振った。


 鉄の義手に剣を握らせている暇はない。ゲッツは鉄の拳を突き出し、クンツの剣を防ごうとした。だが、


「がっ……!? あぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 鉄の義手と剣がぶつかり合った刹那せつな、切断部の手首に想像を絶する大激痛が生じ、その痛みの衝撃は一瞬でゲッツの体中を駆け巡ったのである。


 傷口がどばっと裂け、包帯は真っ赤に染まった。目の前が真っ暗になったゲッツはふらつき、床にできたループレヒトの血だまりに足を滑らせ、ドタンと音を立てて倒れてしまった。左手を支えにして立ち上がろうとしたが、クンツに腹を思い切り蹴られ、ゴロゴロと転がって、


「ち、ちくしょう……。ちく……しょう……」


 と、言いながらうずくまった。激痛の衝撃はいまだにゲッツの体を走り回っていて、無様ぶざまにも涙とよだれ……そして、小便を垂れ流していた。


「おいおい……。右手を失っちまったら、ゲッツでもこんなふうに弱っちくなるのかよ……」


 ゲッツを見下ろしているクンツの声は、さっきまでの嘲笑めいたものではなく、衝撃と失望が混ざったような声になっていた。


 見習い騎士時代、クンツは、剣術の稽古でゲッツに負けてばかりいた。そのゲッツが、こんなにも情けない醜態しゅうたいをさらすとは……。


「そんなに弱くなったら、もう戦場には出られないな。ははっ……。二十四歳で人生が終わっちまうなんて、お前はいったい何のために生まれてきたんだ? ……哀れだから、殺さないでおいてやるよ」


 クンツは心底哀れんでいるらしく、そう言い残すと、剣をさやに収めて部屋から出て行ってしまった。


「ち、ちくしょう……ちくしょう……! 俺の人生が終わりだって? な、なめるな……! クンツ、戻って来い! 戻って来て、俺と戦え! クンツーーーっ!!」


 ゲッツはそう絶叫した後、左の拳を床に何度も打ちつけ、わぁわぁと号泣した。


 ヘルゲと特訓をして体力も少しずつ回復し、戦場へ戻って新たな人生に挑戦しようと決意した矢先に、わずかに取り戻しつつあった自尊心をズタズタにされてしまったのである。


 ちくしょう、ちくしょうと泣き続けるゲッツのかたわらでは、事切れたループレヒトが天井を無言でにらんでいた。




 八月二十日、ランツフート陣営の大将であったループレヒトが急死。

 彼の死は、ランツフート継承戦争を終わらせるどころか、戦局をさらに混迷化させることになる。

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