第6話 Liebe―恋心―

「あっ……。どこかで見た顔だと思ったが、この子はザクセンハイム家の当主の妹、ドロテーア殿ではないか!」


 ナイトハルトが、その少女の顔を見て、驚いた。ザクセンハイム家は、歴史古く由緒ゆいしょ正しい家柄の貴族で、ナイトハルトのゾーデンベルク城からは南西に少し離れた場所にその居城があった。


 ナイトハルトのテュンゲン家とザクセンハイム家は、数代前から昵懇じっこんの間柄であり、つい先日も、ナイトハルトはザクセンハイム家の若き当主ラインハルト・フォン・ザクセンハイムと狩りを楽しんだばかりなのである。ザクセンハイム城に招かれたことも何度かあり、ラインハルトの妹のドロテーアとも三度ほど面識があった。


「おい、フリッツ。兄が友人付き合いをしている家の娘を誘拐するとは何事だ! 今すぐドロテーア殿の縄をほどけ!」


「冗談じゃねぇ。ザクセンハイム家の農民どもが、この俺様に無礼を働いたんだ。それに、この小娘もな。だから、ラインハルトには謝罪として六千グルデンを支払ってもらうことにした。嫌なら、明日、俺と決闘しろと手紙も送ってある」


 ゲッツは、フリッツの話を聞きながら、フリッツ伯父上は相変わらず無茶な要求をするなぁと苦笑した。六千グルデンといえば、城を一つ買える値段ではないか。


 これは毎回のことだが、フリッツは私闘フェーデで相手に和解金を要求する時、わざと相手が驚くような大金を払えと迫り、後で相手が渋々しぶしぶうなずくまでの金額に少しずつ下げていくのである。すると、相手がその財産で払えるぎりぎりの金をしぼり取ることができたのだ。


「我が領民に乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働いたのは、あなたのほうです。騎士でありながらこのような誘拐や脅迫をするなんて、恥ずかしくはないのですか。この外道げどう騎士!」


 ドロテーアが目に涙をためながらもそう言ってフリッツをなじると、フリッツはドロテーアをギロリとにらみ、つばを飛ばして怒鳴った。


「いつまでもぎゃあぎゃあとうるさい小娘だ。明日の朝まで、大きな塔ベルクフリート土牢つちろうに閉じ込めてやる。お前ら、連れて行け」


「つ、土牢? 私を土牢に監禁するというのですか!?」


 恐怖に耐えて気丈に振る舞っていたドロテーアも、さすがにこれには驚き、動揺の色を見せた。あんな衛生的に最悪で汚臭漂う場所で一夜を明かすのかと思うと、さーっと血の気が引いたのである。


 荒くれ者のゲッツでも、十五分間あそこにいただけで意識が朦朧もうろうとなったのだから、年若い乙女が何時間も耐えられるはずがない。


「フリッツ伯父上。そいつはいけないぜ。人質は丁重に扱わないと」


 思春期の娘があんな糞臭い牢に入れられたらかわいそうだと思ったゲッツがそう言い、フリッツを止めた。


私闘フェーデをする相手の妹なんだ。情けをかける必要はねえ。……そういえば、ゲッツ。お前、どうして縄で縛られているんだ?」


「俺のことは、今はどうでもいい。伯父上、ちょっとは頭を使えよ。その子の兄が、自分の妹が土牢なんかに放り込まれたと知ったら、伯父上のことを殺したいぐらいに憎むはずだ。そうなったら、相手も誇り高い騎士だ、いくら脅しても伯父上に屈伏しなくなるだろうよ。金を取るどころか、命の奪い合いにまで発展しちまう可能性もあるぜ。居館の客室に入れて、失礼のないように扱うんだ」


「チッ……。お前は、俺と同じ乱暴者のくせに、昔から女や子どもには甘いな。……だが、一理ある。金が取れなかったら意味がねえからな。いいだろう、貴族の娘として丁重に扱ってやる」


 誰の言葉にも耳を貸さず、兄のナイトハルトにすら従おうとしないフリッツだが、おいっ子のゲッツの意見だけは多少聞くのであった。


 ゲッツは、幼い頃にフリッツから剣術を教わり、喧嘩の手ほどきも受け、フリッツの影響で口汚い言葉を使うようになった。だから、フリッツは「ゲッツは俺が育てた、俺の作品だ」と思い、残忍ざんにんな乱暴者らしくもなくゲッツには愛情があったのである。



            *   *   *



 こうして、哀れなドロテーアはゾーデンベルク城の居館の三階の客室で一晩監禁されることになった。


 今まで涙を流すまいと必死に我慢していたドロテーアだが、監禁部屋で一人になると、寝台しんだいに倒れ込んで声を殺して泣いた。


 部屋の扉の外ではフリッツの傭兵たちが見張りをしているから、泣き声をあんな奴らに聞かせて喜ばせたくはなかったのだ。


 他人に弱みを見せるのを嫌う、ものすごく負けん気の強い娘だった。


(どうしてこんなことになったのかしら……)


 今思い返しても、あれはフリッツの逆恨みだとドロテーアは思う。


 そもそも、このようなことになったのは、フリッツがザクセンハイム家の領内に傭兵たちを引き連れて勝手に侵入したことが事の始まりだった。


 フリッツは、ザクセンハイム家の領土の近くで別の騎士と私闘フェーデをやっていたのだが、相手が弱いからと油断していたら逃げられてしまった。


 敵の騎士はザクセンハイム家の領内に逃げ込み、ちょうど村祭りの最中だった農村に、


「狼のような盗賊騎士に殺される! かくまってくれ!」


 と、助けを求めたのである。


 村人たちは困惑し、たまたま村祭りの見物に来ていた領主の妹君のドロテーアに「どうしましょう、姫様」とうかがいを立てた。十五歳のドロテーアは、兄のラインハルトの狩りにも馬に乗って供をするような非常に活発で男勝りな少女だったため、


「お気の毒に……。困っている人を見捨てるわけにはいきません。盗賊騎士なんか、追っ払ってやりましょう」


 村人たちにそう言い、騎士を村長の家にかくまったのである。


 零落れいらくはなはだしい騎士の中では多少だが裕福なザクセンハイム家は、農民たちにゆるやかな年貢の取り立てしかしておらず、また、美しい姫君であるドロテーアは領民たちから愛されていたため、村人たちは彼女の言葉に従った。だが、ドロテーアと村人たちは、フリッツのことを甘く見ていたのである。


 やがて、フリッツとその傭兵三十数人が砂塵さじんを上げて村に現れ、


「ここに、一人の騎士が逃げ込まなかったか。いたら、出せ」


 と、横柄おうへいな口調で村人たちにたずねた。村人たちは、一様いちように首を横に振り、「知らねえ」と答えたが、フリッツは馬鹿だが勘のいい男だ。絶対にこの村に隠れている、と根拠もない自信を持っていた。


「嘘をつくと、許さねえぞ。さっさと奴を出せ!」


「無礼なお方ですね。ここには貴殿の捜している騎士はいないと、我が領民が言っているではないですか」


「ああん? 何だ、この生意気な小娘は?」


「私は、この地を治めるラインハルト・フォン・ザクセンハイムの妹、ドロテーアです。あなたは今、他人の領土に不法侵入しています。早々に立ち去りなさい!」


「この小娘、俺様に説教をしやがったな。いくらガキでも許さねえ!」


 馬上のフリッツは、爛々らんらんと輝く勝気な瞳のドロテーアを鞭で叩こうとした。が、その前に、


「あっ、痛っ! 誰だ! 俺に石を投げた奴は!」


 勇気ある一人の村人が、姫君に暴力を振るおうとする不届きな盗賊騎士に石を投げつけたのだ。それを皮切りに、今までフリッツにおびえていた農民たちが、


「俺たちの村から出て行け! 外道げどう騎士フリッツ!」


 と、罵声を上げ、フリッツと傭兵たちに石を雨あられのごとく投げ始めたのである。近隣で悪質な私闘フェーデや追いはぎ行為を繰り返しているフリッツは、非常に評判が悪かったのだ。


「いたっ! いたた! いってぇー! もう頭に来た! 野郎ども、やっちまえ!」


 フリッツはそう怒鳴ると、片っ端から村人たちを鞭で引っぱたき、ドロテーアのか細い腕をつかんで引き寄せ、捕えたのである。


「あっ! 姫様!」


 家来や村人はドロテーアを助けようとしたが、槍や剣を持った傭兵たちにはばまれ、何人かは怪我をしてしまった。ちなみに、村にかくまわれていた騎士は、このどさくさに紛れて村から逃げていた。


「お前たちの領主に伝えろ。妹を返して欲しかったら、明日、六千グルデンを寄こせとな! それが嫌なら決闘だ!」


 フリッツはそう言い残すと、ドロテーアをさらって行ってしまったのである。頭に血が上っていたフリッツは、さっきまで自分が追いかけていた騎士のことをすっかり忘れてしまっていた。



            *   *   *



(あの外道騎士、馬鹿だけれど、とんでもない荒くれ者だわ。気の弱いお兄様が、勝てるはずがない。でも、六千グルデンの和解金なんて……。私、いったい、どうしたらいいのかしら?)


 ドロテーアは、涙をか細く美しい指で拭いながら、悩んだ。何とか逃げ出せないかしらと、灯りのない暗闇の部屋を見回してみる。


(部屋の扉は、傭兵たちがいるから無理だわ。窓からなら……)


 先ほどまで雲に隠れていた満月が顔を出し、窓から月明かりが差し込むと、ドロテーアはそう考えた。


 普通の貴族の娘ならば三階の窓から逃走してやろうとは思いもしないし、たとえ考えついたとしても実行に移そうとはしないだろう。だが、ドロテーアは、フリッツのような盗賊騎士に「領内から出て行け!」と啖呵たんかを切る恐い物知らずの少女だ。


(頑張ったら、やれるかも知れない)


 と、やる気満々、しかも、ちょっぴり冒険心をうずかせながら窓辺に歩み寄った。


(飛び降りる……のはさすがに無理か。たくさんの布を結んで、脱出用のロープを作るのはどうかしら)


 そう考え込んでいると、窓の下から妙な声が聞こえてきた。


「こ、こいつは意外ときついぜ」


「ゲッツ様。お願いだから、落っこちないでくださいよ。落ちたら、巻き添えを食らって、ゲッツ様の下にいる俺まで真っ逆さまだ」


「わ、分かってらぁ。よし、窓に手が届きそうだ」


 男二人の話し声。何だろうとドロテーアが不用意に窓から上半身を乗り出して下をのぞくと、ぐわっと大きな手が下から現れ、危うくドロテーアの豊かな胸に触れそうになった。驚いたドロテーアは、ペシンと手で払う。


「お、おわっ!? 落ちる!」


 闇から現れた手の主がそう声を上げると、ドロテーアは、誰かが窓からこの部屋に侵入しようとしているのだと気づき、自分がさっき払いのけた謎の侵入者の手を慌てて両手でつかんで力いっぱい引っ張った。もしかしたら、兄ラインハルトの命令を受けた家来が助けに来てくれたのかも知れないと期待したのである。


「ありがてぇ、助かった。今からそっちに行くから、手を放すなよ」


「は、はい」


「わっ、今度は足を滑らせた! ち、ちょっと待ってくれ! 放すなよ! 絶対に手を放すなよ!?」


「は、放しませんから、早くしてください! む、むぎぎぃ~」


 ドロテーアは顔を真っ赤にして男の手首を引っ張るが、十代の少女の腕力では大人の男を窓から釣り上げることなどできず、逆に自分が男の体重に引きずられて窓から落下しそうになった。その寸前、侵入者の男がようやく体勢を整えて窓に手を伸ばし、


「もう放してもいいぜ」


 という声とともに、部屋の中に飛び込んで来たのである。


「あっ! あなたは、あの外道騎士のおい!」


 ドロテーアは、必死になって助けた男が敵の甥っ子だったと知ると、あからさまに失望の色を顔に浮かべ、「何をしに来たんですか」と冷ややかに言って、窓からの侵入者――ゲッツを睨んだ。


「おいおい、そんな邪険に扱うことはないだろ? 人を三階の窓から落とそうとしたお嬢さん」


「そ……それは、あなたの手が私の胸に触れそうになったから思わず……。でも、ごめんなさい……」


「まあ、あれはわざと触ろうとしたんだから、気にしなくていいよ」


「そうですか……。え?」


「その話は置いておくとして、俺はたしかにあの人の甥だが、今はあんたの味方だということを伝えたくて、ここに忍び込んだんだ」


「私の味方? それは、どういうことですか?」


 まんまと話題を変えられたような気がしたが、自分はあんたの味方だというゲッツの言葉に驚き、ドロテーアはそうたずねた。


「お二人とも、声が大きいですよ。見張りの奴ら、酒を飲んでぐーすか寝ているみたいですが、あまり騒ぐと気づかれますぜ」


 ゲッツに続いて窓から部屋に入って来たトーマスが、大声で会話しているゲッツとドロテーアを注意した。


 ゲッツは、「ドロテーア殿を救う策が俺にはある。この縄をほどいてくれたらあの姫君を無事に兄の元へ戻してみせる」とナイトハルトに言い、困り果てていたナイトハルトは、


「やむを得ないな。荒くれには、荒くれだ。頼んだぞ、ゲッツ」


 と、ゲッツとトーマスを自由の身にしたのである。そして、二人は二階の広間の窓からドロテーアの部屋までよじ登って来たのだ。


「あなたは、あの男の甥なのに、なぜ私の味方になってくれるのですか? 突然、そんなことを言われても、信じられません」


 信じられないと言いつつも、ドロテーアは「人の善意の裏には善意しかない」と純朴に信じる子ども心をまだ失っていない少女のため、無意識ながらゲッツに期待の眼差しを向けていた。


「味方になる理由か? そりゃあ、あんたが美人でおっぱいが……」


 でかいから、と言いかけて、ゲッツはトーマスに足を踏まれた。


「思春期の娘さんにそんな下卑げびたことを言ったら、いっきに信頼されなくなりますよ」


 トーマスにそう耳打ちされて、ゲッツは(そうか、そんなものか)と納得し、こほん、こほん、とせき払いをした。


「俺も盗賊騎士と呼ばれている男だが、フリッツ伯父上みたいに女や子どもを人質に取るようなやり方は嫌いなんだ。だから、俺によくしてくれる伯父上だが、今回はあの人の味方にはならない。明日の私闘フェーデは、あんたの兄上に俺は加勢するつもりさ。あんたにこのことを前もって伝えたのは、助け出す時にあんたが俺のことを味方だと了承しておいてもらったほうが何かとやりやすいと思ったからだ」


「…………」


 ドロテーアは、仰ぎ見るほど身長差のあるゲッツを上目遣いに見つめ、彼の青みがかった灰色の瞳をじっとのぞき込んだ。


 ゲッツは可憐なドロテーアにまじまじと見つめられ、「おっぱいが……」などと言いかけていた下品な男にしては珍しく気恥ずかしさのようなものを感じ、何も言えなくなって目を泳がせた。


 長い間、汗と酒の臭いがする、むさ苦しいタラカーの傭兵どもたちと寝起きを共にしてきたゲッツには、月明かりに照らされたドロテーアの清らかな美しさは、劇薬に近い刺激があったのである。


 ゲッツの心は、その汚れを知らぬ蒼い瞳に惹きつけられ、ほのかに香る彼女の体臭に惑い、まだ成長期でありながらすでに豊満な胸の虜になっていた。これが恋なのだと、自覚した。


(この人は、見かけによらず、優しい人なのかも知れない)


 照れ臭そうにしているゲッツを見て、ドロテーアは直感でそう思っていた。こんな可愛らしい顔ができる、愛嬌あいきょうのある男の人が、根っからの悪人だとは考えられないと感じたのである。


「分かりました。私は、あなたを信じます」


 ドロテーアが、花がほころびるように微笑むと、ゲッツの心は完全に陥落していたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る