《砂の街》8
深夜過ぎ、
「ただいま。……
くしゃりと睡羽の頭を撫でつつ、叶哉は不服そうな表情で部屋を見渡した。睡羽は可笑しそうに肩を竦めて叶哉の手を引く。睡羽が指差した先には、叶哉のベッドに倒れ込むようにして俯せに寝ている柊真が居た。
「なあ睡羽、確かあれは俺のベッドの筈だよな?」
「うん。柊真ね、あたしを送って此処に着いた途端ああなっちゃったの。緊張の糸が切れちゃったのかな。おとうさんが家に来たりしたから」
「ああ、
能天気な癖に色々あるんだよなコイツも、と呟いて、叶哉はそっと部屋の扉を閉めた。
「睡羽、それ」
「え?」
叶哉の訝しげな視線を辿って、睡羽は「ああ、これ?」と薄っぺらな学生鞄を持ち上げた。
「明日は学校、行こうと思って」
「……人に向かって石投げるような奴等がのさばってる所だぞ」
叶哉は苦々しい口調で吐き捨てた。親が居なくて貧乏だとか口数が少なくて生意気だとか、そんな馬鹿馬鹿しい事で睡羽が同級生から誹謗されているのは知っている。いっそ教室に乗り込んでいって相手を折檻してやろうかとも思ったが、小蝶から「あんたは度が過ぎるからダメ。あんまり酷いようならあたしがキチッと話つけるから任しときなさい」と一蹴され渋々我慢しているのだった。
「うん。でも、柊真がね」
睡羽は鞄から取り出した教科書を
–––黒板にチョークがぶつかる音でも誰かの喋るひそひそ声でも窓の外で
いや、だからって無理にでも学校へ行けとは言わないけどね、と柊真は笑う。僕だって教室は苦手だったから、と。
–––だから、もし居場所が無いと思ったら、叶哉でも僕でも、睡羽が安心出来る場所に休憩に来ればいい。
「余計な事を」
睡羽から聞かされた柊真の台詞に舌打ちして、叶哉は古びて軋むソファに身を沈めた。鞄を抱きかかえたまま、睡羽がその隣に腰を下ろす。
「あのな、睡羽」
「ん?」
「俺は、お前がちゃんと生きてて楽しそうに笑えるなら何でもいいんだよ。……あいつもそう思ってんだろ、きっと」
学校に行きたくなったんなら行けばいいし、柊真のピアノが聴きたければいつでも《雨の街》に行けばいい。叶哉は目を伏せたままそう言うと、小さく頷く睡羽の頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
そっと見上げた叶哉が柔らかに微笑んでいたのが嬉しくて、睡羽は静かに笑い返した。
「……さて、そろそろ柊真を俺のベッドから放り出してやらないとな。俺は今夜も精一杯真面目に働いたから疲労困憊してるんだ」
「またそんな事言う」
睡羽の呆れたような声を背に、叶哉は靴底を鳴らして柊真の元へ向かった。そして幸せそうに眠る柊真の肩を掴んで、力任せにがくがく揺さぶった。
「あれ、叶哉……? おはよう」
「何がおはよう、だ」
はあ、と溜め息を吐く叶哉の後ろから、睡羽がそっと声を掛けた。
「柊真、大丈夫?」
「ああ睡羽。今ね、君の夢を見ていたよ」
「あたしの夢……?」
不思議そうに尋ねる睡羽に、まだ夢から醒めきらない顔で頷きながら柊真が言った。
「そう。夢の中でね、君の背中に、雨に濡れたみたいにきらきら透き徹る羽根が見えたんだ」
きょとんと瞠目する睡羽と叶哉を前に、柊真はくすりと笑みを零した。つられて兄妹も、炭酸水の泡が弾けるように笑う。
「その羽根で羽ばたいて迷子にならないように–––睡羽、手を」
くつくつと喉を鳴らして笑う叶哉に背を押され、睡羽は柊真の雨の匂いのする指先にそうっと触れた。
ラジオから微かに流れる雑音混じりの旋律が、砂塵に埋もれた空気を降り頻る雨のように優しく満たしてゆくのを、睡羽は瞼を下ろしてゆっくりと受け止めたのだった。
《完》
睡れる羽 遊月 @utakata330
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