《雨の街》8


 《砂の街》で赤い星が西のてに隠れて幾月か過ぎた夜、柊真トウマは《雨の街》にもやのように舞い降りる雨を眺めて煙草を咥えた。ピアノの椅子に座って楽譜と睨めっこしている睡羽スイハおもんぱかって、火を点けるでもなくぼんやりしていると、不意に電話の呼び出し音が静寂を破って鳴り響いた。


「はい」


 つい受話器を持ち上げて応答してしまってから、いつもの相手だったらどうすべきか、と柊真は逡巡した。しかし向こう側から響いたのは、さざ波のような喧騒と耳慣れた小蝶コチョウの声だった。


「ごめんね、休みの日に電話なんかして。今夜は睡羽も一緒なんでしょう? 叶哉カナヤが不貞腐れてて仕事にならないわ」

「えーと……それは置いといて、珍しいですね、小蝶さんが電話かけてくるなんて。何かありました?」

「ああ、うん、ちょっとね。急ぎで知らせたい事があって」


 何だろう、と首を傾げる柊真に、小蝶はほんの僅か、声を潜めるようにして早口で言った。


「お父様が来たの」

「へえ、小蝶さんの?」


 あの小蝶さんのお父さんなんて一体どんな人なんだろう、とのんびり考えていた柊真の思考を叩き斬るように小蝶が言う。


莫迦ばかね、あんたの父親よ」


 咥えていた煙草をぱたりと落として、柊真はもう一度小蝶に尋ねた。


「誰の父親ですって?」


 ピアノを離れて傍らにやって来た睡羽が、不思議そうな顔をしながら煙草を拾い上げる。


「だから柊真の」

「……僕の」

「そう、柊真あんたのよ。『息子が此処でピアノを弾いていると聞いて伺ったのですが』って名刺渡されて。……あんた、実は大企業の御曹司だったのね」


 え、ああ、はぁ、と言葉を濁す柊真を余所に「そんな事よりお父様にあんたの家教えといたからね」と言って小蝶は電話を切った。無機質な電子音だけが、取り残された柊真の耳の奥に谺した。


「小蝶さん?」

「うん。なんかよく解んないんだけど、今から僕の父親が此処に来るみたい、なんだよね」

「柊真の、おとうさん」

「ごめんね睡羽。帰るって言うなら送りたいんだけど……父と行き違いになるのも面倒だし」


 参ったな、と眉をしかめる柊真の袖を引いて睡羽が尋ねた。


「あたし、邪魔じゃないなら居てもいい?」


 睡羽の透き徹るような眼差しに、柊真はこれから起こる事の煩わしさも忘れて思わず頷いていた。


- - -


「お変わりありませんね、……父さん」


 何年か振りに会う父親に向けた自分の声が、柊真には鼓膜が裂けそうな程大きく響いた気がした。


「ああ。お前が此処に住んでいる事は前々から調べが付いてはいたんだが……ろくに親の話に耳を傾けないような息子の元へ出向く気になれずにいた」

「それで、何の御用ですか。わざわざこんな所まで自らお出張りとは」


 きちんと話さなければ、と思うのに。解っている、筈なのに。そんな思いを胸に燻らせる柊真に、ソファの端に座った睡羽が柔らかに笑いかける。


「決して巧くはないが芯のあるピアノを聴かせる店があると小耳に挟んでな。それで暇潰しに行ってみたら、此処へ案内されてしまった、と、そういう事だ」


 電話越しでは無い低い声を聞きながら、柊真は前に霞月カゲツに習った通りに入れた紅茶を差し出した(彼曰くまだまだ修行が足りないとの事だが)。


「其処の女店主によれば、そのピアノ弾きはバッハが得意だとか」

「……そう。僕と同じだ」

「奇遇な話、私もバッハは好きでね。そういえば不肖の息子にレコードを聴かせてやった事もあったな、もう随分昔の話だが」


 その言葉に、柊真はぐらりと記憶の波に引き摺られた。–––そうだ、あのレコードを初めて聴かせてくれたのも、ピアノを僕に与えてくれたのもこの人だったのだ。胸の奥が甘く疼く。柊真は深呼吸をひとつして、ゆっくりと口を開いた。


「僕にしか弾けない、出せない音がある、と言われたんです」

「–––誰に?」

「《砂の街》に住む小さな女の子です。彼女は、雨が降るように染み渡る僕のピアノが好きだと言ってくれました」

「そうか。それで?」

「だから僕はもう帰れません、あなたの元へは。ピアノを弾き続けなくちゃいけないから。親不孝で申し訳無い、とは、思うけれど」


 柊真がそれきり言葉に詰まって俯くと、父親は口端を上げてにやりと笑った。


「ところで柊真、そちらのお嬢さんは」

「え、あ、うん」


 妙に狼狽する柊真を余所に、視線を向けられた睡羽はふわりと微笑んで柊真の父親に言った。


「初めまして、あたしは睡羽と言います。柊真の弾くピアノが大好きな一人です」

「ああ、君が柊真の言った女の子なんだな。……しかし柊真、このお嬢さんとお前じゃ犯罪並みに年が離れてやしないか?」

「言う事はそれだけですか!」


 何なんだよもう、と頬を紅潮させながらくるりと踵を返すと、柊真は床を踏み鳴らしてピアノに向かった。


「柊真、カンタータ147番第6曲を。……お前の母親もこの曲が好きだった」


 父親はそうリクエストすると、睡羽と並んでソファに座り、鍵盤に向き合う息子の背中を眩しげに見つめたのだった。

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