《蝶》8


 地平線に溶けそうに赤い太陽を眺めながら、小蝶コチョウは炭酸水を喉に滑らせた。そろそろ月が昇る。その頃には《蝶》もいつも通り賑わいだすだろう。夜天に浮かぶ月の舟は、夜行性の人々を乗せて何処へ向かうのか。そんな詩人めいた事を思う自分が可笑しくて、小蝶はふっと息を落とした。


 空になった炭酸水の壜を屑籠に放り、先の星祭りの夜以来持ち歩くようになってしまっていた例の新聞の切り抜きをぼんやりと見つめる。色褪せた活字。脳裏で残響する柊真トウマとの会話。


「–––秘密、だったんだけどな」


 小蝶は自嘲気味に掠れた声で笑った。


 記憶はいつまで経っても鮮烈で、だから小蝶は時々恐ろしささえ覚えた。世間では風化した(と言うよりほぼ認識すらされていない)筈のあの夜の出来事が、いつか誰かに暴かれてしまうのではないかと。そうなれば、叶哉カナヤ睡羽スイハは兄妹などでは居られなくなる。例え星祭りの騒乱に乗じての事とは言え、あの夜の叶哉と睡羽は、傍目から見れば誘拐犯と被害者という関係でしか無かったのだから。

 ……違う、恐れていたのはそんな事ではない。いっそ何もかもが明るみに出て叶哉と睡羽が離ればなれになってしまえば、と、胸の奥底でそんな事を願っている自分が恐ろしかったのだ。


 叶哉はあの夜までは確かに小蝶にとって『幼なじみの叶哉』だった。なのに、たった一夜で、たった一瞬で叶哉は攫われていってしまった。睡羽という小さな女の子に。

 この感情に名前を付けるとしたら、それを嫉妬と呼ぶ以外に何があるだろう? 小蝶にはそれが、自分が醜く薄汚い女の証であるように思えて仕方がなかった。あの夜の秘密を叶哉とふたりきりで共有する事、ふたりは共犯者なのだと思い込む事で、その真実から目を逸らしてきたのだ。


「……小蝶」


 不意に名を呼ばれて、小蝶ははっと肩を震わせた。振り向くと、いつの間に店内に滑り込んだのか叶哉の姿があった。


「な、に」

「なんか悄気しょげてんのかと思って」

「……そう? 気のせいよ、きっと」


 強がる小蝶に、叶哉は「俺が解らないとでも思ってんのかよ」と見透かしたように囁く。


「お前が悄気るなんて尋常じゃ無いからな。わざわざ心配して早出してやったんだからおとなしく吐き出せ」


 揶揄からかうような口調の行間に、昔と変わらない叶哉らしさが漂う。何よ偉そうに、と吹き出す小蝶に、叶哉は静かに言った。


「柊真とも話したよ、睡羽の事」

「そう。……で、柊真は何て?」

「変わらずにいたい、ってさ」


 言いながら叶哉は小蝶の指先から新聞を抜き取り、柊真がしたのと同じようにくしゃりと手のひらで握りつぶした。


「変わらずに……?」

「ああ。《蝶》でピアノ弾いたりお前にこき使われたり俺に構って貰ったり、あと、たまには睡羽にピアノ聞かせてやったり、そうやって今迄と何も変わらずにいたいって。……あいつらしいだろ?」


 変わらずに、なんてそんなの有り得ないのにな、と淋しげに笑いながら叶哉は言う。


「有り得ない、かしら」

「さあな」


 自分で言っといて、と睨む小蝶の頬に、叶哉は慈しむような眼差しを向けて静かに触れた。


「でも柊真が能天気で良かっただろ? お陰で、俺とお前は死ぬ迄ずっと共犯者だ」


 胸の奥底にずきりと痛い程響いた(それでいてなんて甘美な!)言葉に視界が揺らぐのを堪えて小蝶は答えた。


「柊真が世間にバラす前に、あたしが警察に出頭するかも知れないわよ? あの事件の目撃者です、って」

「それは無いよ。そんな事、」


 俺が絶対にさせない、と不敵に笑って、叶哉は手の中の紙切れを小蝶に握らせた。


「……ほんと狡いんだから」

「は?」


 小蝶は「惚れるが負け、か」と呟きながら握りつぶされた切り抜きを屑籠に投げ捨てると、


「何でも無い、こっちの事。それよりホラ、もうすぐ開店時間なんだからちゃっちゃと床のモップ掛けやっちゃいなさいよね!」


 ぐいっと叶哉の身体を押し離して、いつもの《蝶》の店主らしく声を張り上げた。

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