増殖の兄弟

 魔物と一口に言っても、それは人ならざるもの総称に過ぎない。聖気に包まれたものもあれば、不浄の類もある。位階を昇れば神獣、亜神となるものもいる。一方で地を満たすものの多くは卑小にして脆弱な存在である。

 スライム──野獣の類に比して、その存在は人口に膾炙しない。アツァーリの地におけるスライムの存在は、魔物というよりも植生、苔や黴の如くに扱われている。それというのも肥沃ながら水利に恵まれぬクリソピアトの地には、液状生物であるスライムは馴染まなかったのである。元来がおとなしいスライムの気性を鑑みても、人里から距離を置こうとするのは自然なことだ。

 畢竟、これらの種族は東のアクリダが治める湿地か──あるいは神々の治めぬ空白地帯に細々と棲息するに過ぎぬのだった。



 カイラーサは不毛の地である。アツァーリ地方において不毛と呼び習わすのは北辺山脈とされているものの、その内実は狂神スコーリアの恩寵深く、山鉄と滋養に満ちた沃土がある。

 一方で、カイラーサは何者からも顧みられぬ土地である。それはこの地が、かつて兄弟神の戦争において最前線の戦場であったために焦土壊滅した名残であり、今は炉神シディルルゴスと油神エライオンの領地に挟まれた緩衝地帯として機能しているためであった。

 棲むものは無く、あるのはノストフェオウから中原クリソピアトに向けて引かれた貨車線路のみだ。

 高温で焼成されたような、硝子片らしい礫が、起伏の乏しい荒野にばら撒かれて煌いている。だが、その輝きを讃美する者はいない。カイラーサは善神二柱にとっての交易路であるものの、通過地としてしか価値を認められてこなかった土地であった。



「もうちと……速く歩けんのか。」



 おれ──シャドウミラーは振り返って嘆息した。視線の先には、おれの腰ほどの背丈の黒髪の少年がいる。色白で酷薄な顔つきは出会った当初から代わり映えしない。ただ、身に纏っている羅紗は深紅に染め抜かれ輝いていた。

 この、おれの弟の──同じ胎を通じて産まれたのであれば弟と呼んで差し支えあるまい──深紅の衣は実のところ皮膚を精一杯擬態した結果であり、余った布衣が足元にたわんでいるのは、人間らしい二足を象れずにいることを隠すためである。

 面構えが強張りがちで表情に乏しいのも、面相の表面をなぞっただけの、いわば肉の仮面に過ぎないからだ。



 傍目に見れば、丈の合わぬ高級な衣服を、だらしなく引きずって歩く弟と、それを歳の離れた兄がたしなめているようにも見えるかもしれない。

 だが、おれ達はいずれも人間ではない。



 偉大なる地獄の邪神──その『増殖』の権能を預かる増殖の司直によって、おれ達は督戦される身の上だ。父にして母なる邪神は、その真性をスライムとする。増殖の司直もまた、巨大なコラプションスライムである。もちろん、その胎によって産み落とされたおれ達もスライムだ。



 高位のスライムの多くは擬態化する能力を備えている。肢体を操作し、形状を変化させ、あるいは他の生物の生態を模倣する。弟は、能力としての擬態は習得しているものの、その操作が難ありといったところだろう。擬態する先である生物の身体構造に対する理解が浅いこともあるかもしれない。



 変性術の権威であるミラーソードの能力を、おれは映し取った存在だ。『創造』を司る邪神の眷属として、恥ずかしくない外見を定義して擬態することもたやすい。

 人型への擬態は、経験の無い孤児には難しい課題であったかもしれない。だが弟にはそれなりの天稟が備わっていたらしく、外観だけとはいえ繕うことに成功していた。豪勢な羅紗の紅はことに鮮やかで、質感も滑らかなものだ。



「並み程度の宝物の類いは、船で見慣れていたか?」



 問えば、無表情のまま、こくりと頷いた。何事か、言葉を発しようとしているが、声帯の造り方がわからず難儀している様子である。おれは、この弟の非凡さを試してみようと膝を折り、目の高さを揃えた。

 眼球は光に反応せず、人形のように真っ直ぐにおれを見ていた。



「よく観察するがいい。」



 手刀の形にそろった手指を、触手に変化させ、おれは己の喉元を掴んだ。『腐敗』の異能を振るい、自らの喉を腐り融かす行為を、弟に見せつける。肉皮が削げ落ちて露わになるのは、桃色の肉に包まれた空洞である。ヒューヒューと空気が通り抜ける音とともに、おれは下顎をまで腐り落とし、声帯にあたる肉ひだを弟の目に晒してやった。



 おそらく、弟の眼球も模造に過ぎず、光学的な視界を獲得してはいまい。おれの行為に対して興味深げな様子を向けながらも、眼は虚空を眺めるように一点から動かぬことがその証だ。皮膚に備えられたスライム特有の感覚器と、魔素を捉える魔力感知の能力によって、視覚を持つかのように振る舞っているに過ぎない。



 おれは弟の羽織の裾を摘み上げると、擬態を解くように意思を込めて撫でつけた。細くか弱い──蜘蛛の糸のように繊細な弟の触手を、己の露わになった喉元へと導く。こわごわという様子で触れる弟の指先を、おれは心地良いと感じていた。



「あ──あに、さま。」



 甲高い、小児特有の声音を弟は発した。一度ならず、二度、三度と。愛らしい、と言うにはなんとも剣呑な目つきをした子どもだが、それでも自分に新たな血族が出来たと思えば情も深くなる。

 それにしても、やはりこの弟は変成術にかけて、おれと同等の適性を身に着けている。それはすなわち常人には及びもつかぬ効率性で学習するということであり──おれの喉元に触れていた、その数瞬の間に、弟の眼球には、生き生きとした光が宿っていたのである。弟は己の黒目が気に入らなかったのか、魔素を弄って眼球に塗りたくると、赤く染め直してみせまでした。



 元々、おれが変成術の権威であったことは、その代償に重篤な幽霊恐怖症を患っていたことによるものだ。今や、増殖の司直により恐怖症は治癒され、おれは福音を失ってしまった。司直から授かった肉体は強力とはいえ、最上級変成術を無制限に近く行使できる対象は肉体や生物といったものに限られてしまっている。

 弟の天稟とは、変成術への適正以上に、この感覚器──魔素を捉える魔力操作の感覚──それが、異常なまでに鋭敏なことだ。観察しろ、と言われても常人では五感で捉えるしかないが、弟は魔素の動き、操作そのものを「観て」いた。



 声帯や眼球といった繊細な部位を容易に擬態してみせたにも関わらず、脚を自由に象れずにいるのは、操作が不自由なのではなく、身体に宿る魔力の総量が追い付かないためではないだろうか。



「まだ子どもということか。」



「はい──私はまだ子どもです。」



 鼻で笑って見せながらも、いずれ成長すれば己を越えるであろう存在に、おれは脅威を感じていた。目だけで笑う弟は、年相応の無邪気さを感じさせたが、目元には悪漢としての油断なさが漂っている。

 おれは人型を保ったまま、太い触手を肩から増やし、弟を抱き上げた。



「お前に付き合っていたら、日が暮れる。」



「はい、兄様。」



 深紅の少年を担ぎ上げ、色褪せた影が走っていく。目指す先はカイラーサの湾口から北に進んだ地──ノストフェオウによって地下水の汲み上げが、かつて行われていた場所である。

 過剰に汲み上げた結果として、地盤が弱まり、そこでは大規模な陥没孔が開いていた。どこまでも深く、底を見通すことの出来ぬ大穴が、地表に向けて垂直に口を開けていた。



「お前の名をつけねばならん。」



 夕焼けを背負って、二人は大穴の傍に立っていた。風の音が空洞内を反響し、地上に向けて亡者の嘆きの如く唸りを上げている。吹き飛ばされそうになる弟の身体を、おれは触手で支えてやる。

 暗闇を睨みながら、おれは決意していた。



「本来であればミーセオニーズに相応しい名付けを、占術師にさせるべきだろうが、お前には運命がある。それに相応しい名を、おれが授けてやる。」



 嫌か──と、問えば、弟は頭を振って否定した。縦に伸びた陥没孔には細かな横穴が無数に開いている。何かが、そこから、こちらを伺っているのが分かる。



「メルク──王を意味する名だ。」



 驚いたように見返してくる、弟に向けて鑑定を投げかければ、空白だった真名にメルクと刻まれたのが見えた。



「増殖の司直の思惑は知らぬ。だが、おれは嫉妬と渇望に狂える影だ。到底、王などという器ではない。お前とて、空白の孤児に過ぎぬかもしれぬが、おれよりはマシだろう。」



 自嘲気味に言い捨てれば、メルクは物寂し気に微笑んだ。



「兄様──メルクが王であれば、兄様は何になられるおつもりです。」



 おれか。おれは──おれは、一歩踏み出て陥没孔に向けて音声を発した。そこにいるのは、原生のスライムども。隠れ潜む弱々しき者ども。



「聞け!か弱き者よ!父にして母なる邪神の恩寵から外れし者よ!」



 音を聞きつけて、ぞるぞるとスライムどもが這い出てきた気配がする。



 おれ──シャドウミラーは、王の影、王を映し取る鏡に過ぎぬ。そうさ、ミラーソードもそうだ。所詮おれ達は、この世を映す鏡の表裏だ。何、おれは弟を担いで、玉座そのものになろうじゃないか。



 直後、縦孔の底から、地を震わせる何かが押し寄せる気配があった。吹き上がる何か──轟音と風を巻いて、間欠泉さながらに立ち昇った何か。



「ああ知ってるよ。静かに放っておいてくれと言うんだろう。」



 そういうわけにはいかないのだ。おれはメルクに下がっていろと合図した。何、戦うと決まったわけじゃない。おれは戦いが苦手なのだ。

 吹き上がったのは、巨大なスライムの触手。天を衝くほどに巨大なスライムの腕は、空を傘のように覆い、分裂し、地上に向けて、無数の分体を降り注がせる。



 カイラーサに潜む者──涸れ果てた地下水道に、今も苔の如く繁茂する彼らは三〇〇年の間、この地に潜み、一つの特徴を有していた。それは、すでに異能と呼んで差し支えない存在。

 不死──短命のスライム種にとって、最も縁遠い存在にカイラーサのスライムは手をかけていた。

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北奉神綺譚 Suzukisan @Suzukisan_3211

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