再誕せし影
悪──悪とは恐ろしいものだ。この恐怖こそ悪の本質であるという者もいる。人は悪事を為すことに自然と忌避の念を覚える。あるいは悪事に手を染める者と対峙するとき、そこには言い知れぬ恐怖が沸き起こるだろう。
悪とは力であると説く者もいる。小さき者、か弱き者でさえ、悪に携わるときには無類の勇気を奮い立たせる。悪漢梟雄と呼ばれる者たちは、悪の淵より力を引き出すことで武勇を残すだろう。
「善というものはですね、生来の強者にのみ許された驕りに過ぎぬのですよ。」
おれは液状に伸びきった体を岩場に晒している。太陽は容赦なく水分を奪い取っていく。このまま半日もすればスライムの干物ができあがるだろう。
忘却神ゼキラワハシャの遣わした神獣に遭遇し、おれの忍び込んでいた船は難破した。潮流はナシア島からおれを遠ざけ、意識を取り戻したときには見知らぬ岩場に打ち上げられていた。
息も絶え絶えな──スライムは総じて無呼吸だが──おれの真横に腰かける女。
悪の本質について説教する女は、一糸纏わぬ裸体である。ただその皮膚は人皮ではない。膨張と破裂を繰り返し、滑らかに泡立つ肉体。それは透き通りながらも覗き通すことのできぬ、漆黒である。
おれは発声器官を象ることができずにいた。
「ですから、貴方。貴方のような弱者にこそ、悪は寛容に語りかけるのです──聞いていますか?」
狂っている。渇ききったスライムを見下ろしながら、説法する黒肌の女はどう解釈しても狂っている。おれは返答できぬ代わりに、触手の末端を微かに動かしてみせた。だがそれは残された最後の力を振り絞った動作であって、地面から少しばかり浮き上がった触手は、ぱたりと落ちた。
「よろしい。では続けましょう──ん、おや。そろそろ限界でしょうか。」
そう、そうだ。おれはもう限界だから助けてくれ。ちょっとばかし水をかけてくれるなりするだけでいいんだ。
「では、いただきます。」
言うなり、女はおれを踏みつけた。おれの肉体と女の足が接する点から、命が吸い上げられていく感覚が伝わってきた。足蹴にされ、命を啜られながら、おれはこの女が何者か、今さらながらに悟っていた。
スライムという種族は分裂を繰り返して殖える。一方で力の隔絶したスライム同士が触れ合うと、弱い者は強い者に一方的に吸収されてしまうのだ。今、女とおれの間で起こっている現象はそれであった。
鑑定を投げ掛ける力は残されていなかった。それでも、祭司めいて悪を語る女の正体には見当がついた。
増殖の司直。腐敗の邪神が司る四権能──『腐敗』『堕落』『創造』『増殖』──それぞれに対応する最上級の遣使の一人。冥府に座す太母の意思を、現世に実現するべく暗躍する、権能の代行者。
「そう、私こそ増殖でございます。ご挨拶が遅れましたことをお詫びいたしましょう──堕落の
すでにおれの肉体と司直の脚は癒着し、一体の物になっていた。強者との一体感、命の連帯が、快感の波となって意識を洗う。おれという意識が喪われかけたとき、おれのものではない、微かな抵抗が生まれた。
増殖の司直は、幼児をあやすような口調で語りかける。
「魂なき影に呑まれた哀れな孤児よ。そなたの魂は地獄の海で洗われ、いずれ現世に還されよう。今はただ私の手に、その身をゆだねなさい。」
孤児。密輸商人の船に囚われていた、名無しの奴隷児。おれの言葉に発奮し、船長を毒殺した勇敢なる悪童──やすやすと己を司直にゆだねていたおれは、この少年の魂の有様を見て覚醒した。
圧倒的強者、圧倒的悪を前にして、克己する魂。それに引き換えておれはなんだ。強者におもねり強請る、おれの憎悪するあの男の本質から、おれは何一つ抜け出せていないではないか。
「割れ、少年よ!おれを割るんだ!」
搾り取られつつあった意識の残滓を震わせて、おれは叫んだ。無いはずの声帯から発せられた声──魂と魂の交感といえばよいだろうか。それに応えるようにミーセオニーズの小さな拳が、おれの魂に向けて振り下ろされた。力なき弱者の拳は、幾度も幾度もおれの魂に打ち付けられ、微かな
「──面白いですね。あなた方。」
おれと孤児の魂を吸い上げ、自らの内側で味わう増殖の司直は、くつくつと笑った。
すでに岩場には人影はない。あるのは波が洗う岩場、その地域一体を覆うほどに巨大なコラプションスライムの恵体である。遠目に見れば、黒々と光る苔がカイラーサ湾全体に蔓延っているようにも見えただろう。
「気が変わりました。あなたがたに試練を課すことにいたしましょう。」
司直が言うや否や、彼女の泡立ちが急激に加速した。一度は呑まれ、喪われた肉体が再び受肉していく。コラプションスライム──しかも司直の直系にあたる強力な肉体が、おれの器として用意されているのを感じる。おれと孤児の意識が定着した、次の瞬間には司直の胎内から排出された。
黒と赤の二色のスライムが、岩場に向けて吐き出された。黒がおれだ。片割れは孤児が基礎となっているのだろう。
「あなた方には、この増殖が直々に肉体を授けました。堕落の係累が、私の庭であるアツァーリの地を踏むなど認めがたいことですから。」
おれはすぐに擬態を発動して、金銀混淆の髪に、バシレイアンの碧眼を備えた外見を取り戻した。だが、そのどれもが少しばかり輝きを失い、黒くくすんだような色合いになっている。
「あなたの見目は派手過ぎます。少々落ち着いた色合いにさせていただきました。」
一方で、孤児の方は擬態はおろか、スライムとしての肢体を持て余していた。もぞもぞと身をもだえさせるばかりである。
「シャドウミラー、あなたは兄として、この弟を監督しなさい。そして我が増殖の祭壇に列なるにふさわしいだけの成果を挙げなさい。」
おれは人間の形をした両手で、蠢く赤きスライムをすくい上げる。おれより遥かに卑小な存在ではあるが、接触による吸収が起こらないのは、兄弟として──あるいは同一の存在として──同じ肉を分け合っているためか。
「試練──増殖の試練と言えば、地に満ちよとでも言うつもりか。」
取り戻した声帯から発せられた声は震えていた。そうとはならぬように気を張ったものの、幾ばくかの怖れを孕んでいたように思う。今やおれと孤児の生殺与奪を握るのは、この狂にして悪なる司直なのだ。影でしかなかったおれは、この邪神の祭司の胎内を通過して、新たな命として産み直されている──つまりは、この司直は絶対なる上位者であり、おれを再誕させた母であるということだ。
弟と称された孤児は、おれの腕のなかでもぞもぞと震えている。鮮やかな紅赤はミーセオニーズを代表する色合いを想起させ、その属性が正しき悪に属することをうかがわせた。
「貴方か──弟か。いずれかがこの地の眷属を支配し、王となるのです。」
増殖の司直が告げた試練は、おれたちに邪神の眷属──アツァーリに住まうスライムの王になれというものだった。
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