難破

 おれの名前はシャドウミラー。腐敗の邪神の孫にして、夏の大神イクタス・バーナバの夫であるミラーソードの──影だ。

 本来であれば幻影術によって編まれたおれは、術の主であるミラーソードに使役される存在に過ぎなかったが、紆余曲折を経て陸塊から脱出するまでに成功した。


 そして今、おれはミーセオ帝国船籍の船に忍び込み、船長を弑して成り変わることに成功している。奴隷の少年を食って、未熟ながらも魂を内包することも達成した。魂を持たない泥人形から、一個の存在へと昇華したのだ。

 とはいえ──ミラーソードなら、今頃船員を丸ごと食い散らかして船全体を乗っ取っていただろうか。神々の恩寵が抜け落ちた今のおれには、武芸を収めた用心棒どもを正面から相手して無傷で切り抜けられる保証がない。人皮を被ったコラプションスライムとして、昼夜を問わずに船長室に引きこもって今後の展望を占う毎日だ。


 もともとこの肉袋は船員どもから畏れられていたらしく、室に近づくことを許した副船長以外は決して禁を破ることがなかった。船内にはすでに、盗聴を目的とした回路網を張り巡らせてあるが、おれの正体を疑う素振りは全く見られない──ただ一人を除いては。


 目下として問題なのは、おれに対して疑いの眼差しを向ける副船長だ。船内の差配を、おれに代わって遅滞なく執り行うミーセオニーズの老人は極めて有能だ。もしかするとこの皮の持ち主よりも遥かに。


「ジィヤン・シャ船長──お加減はいかがでございましょう。」


 室の扉越しに、枯れた声音がかけられる。室の内側には占術、死霊術、精霊術、召喚術を遮断する帳が四重に仕掛けられ、板張りの船床の隙間は護符で隙間なく埋められている。すでに船長室は魔術師の工房──否、外界との接触を拒む結界に護られた祠のようになっていた。


「心配には及ばぬぞ、バン・ジャン翁──よいから報告をせよ。」


 バン・ジャン──おれは自らが擬態するジィヤン・シャという男の魂を喰らっていない。謀殺された男の魂は然るべき冥府へと向かい、おれが握っているのは名もなき小僧の記憶と経験に過ぎない。船長室に残されていた航海日誌から推察するに、副船長を務めるバン・ジャン老人は商会に長く勤める番頭のような存在であるらしい。

 ジィヤン・シャは奴隷上がりの男だ。己の主人を弑して商会を乗っ取った禿頭の悪漢である。恐らくはバン・ジャンからすれば、仕えてきた主を殺した敵ですらあろう。正しき悪の気配を扉越しに漂わせる以上は、バン・ジャンもそういった事情を呑み込んで新たな主としてジィヤン・シャに仕えているのかもしれぬが、おれにとっては警戒して然るべき間柄である。


 日々朝夕にもたらされる老人の報告は要諦を押さえた簡潔なものだった。おれ自身の「目」によって得られる様子とも相違が無い。航海は順調に進んでいる。しかし、その日の報告には聞きなれぬ言葉が混じっていた。


「未明には波守なみのもりと接触いたします。印章のご準備をくださいませ。」


 波守なみのもり……印章……?印章といえば神々への祈祷に用いられる、あの印章のことか。しかしおれには心当たりがない。ジィヤン・シャの航海日誌にもそれらしい文言は記されていなかった。


「待て、バン・ジャン翁よ──少しばかり話をしようではないか。入室を許可する。」


 扉の向こうで、老人の身体がびくりと震えた様子が伝わってきた。死から蘇った船長が、これまで何人も拒んできた室の内側に招こうというのだから、困惑もしよう。

 おれはすでにこの老人を喰らうなり、支配下に置く決断を下していた。波守なみのもりと呼ばれるからには、何らかの番人のような性質を持つ存在なのだろう。おそらくは、この航海の終点──ナシア島に君臨する神の御遣いか。

 問題なのは印章だ。神々への祈りを捧げる媒介となる印章は、奉じる権能に対応してそれぞれに異なる形状性質を持つ。それは祈祷術の秘奥であり、敬虔なる信者にのみ赦された信仰の証明でもある。しかしナシアの神の名さえ知らぬおれに、この場を切り抜ける手段は無い。バン・ジャンから情報を引き出さねばならぬ。


 扉を控えめに開き、身を滑り込ませてきたのは背を丸めた老人であった。ミーセオ様式の着物を、動きやすいように短く詰めたものを身に纏っている。白髪白髭から艶は失われ、男がとうに盛りを過ぎた齢であることを感じさせた。

 露わになった脛は不自然に手入れされたように、無駄な毛の類が見られない。宮刑を受け、一度奴隷身分に落とされたことからか、バン・ジャンの男としての性質は衰えていた。


「そんなところに立ってないで入るがいい。茶でも出そう。」


 おれは理力術を振るうと赤銅色の茶器を躍らせて、床に敷かれた絨毯の上に茶湯の場を仕立てた。下級の変性術を複数行使して茶葉と湯を生成し、蜂蜜と、山羊の乳の癖を薄めたような汁を添える。これらの知識はミラーソードから受け継いだものだ。庶民的な技能ばかり熟達しているのは、父である邪神の神子の趣味による。

 バン・ジャンはおれが振るう術理に驚きを覚えたらしく、目を剥いている。それはそうだろう。ジィヤン・シャ自身であれば修めておらぬであろう術の数々だ。


「……これはいったい、なんとしたことで。」


 黒一色の絹衣を頭から目深に被ったおれの姿は、本性たるコラプションスライムのそれを想起させる。床に胡座して、幅の広い黒絹に身を隠し、裂け目から目だけを覗かせる。

 老人はおれの異様に畏れを隠せずにいるようだった。


「冥府の淵で授けられたのよ。」


 くくっ、と笑みを聞かせながら嘯いてみせる。事実として地獄をそぞろ歩き、偉大なる腐敗の邪神から祝福を受けたものは魔術の業を授けられるのだから、あながち嘘とも言えぬ。

 魂を得た今の身で敬虔に祈りを捧げれば、祖母からの恩寵に再び浴する日も来るのだろうか。

 恐る恐るといった調子で、バン・ジャンはおれの前に座った。礼法を踏まえぬ振る舞いではあったが、ここは宮中でも無し、咎め立てする謂れはない。


「今一つ……おれは記憶があやふやなのだ。波守なみのもりとは何だ。」


 問いの意図を掴めず、相手は困惑した様子だった。どうにもおれは腹芸というのが苦手な性質でいけない。知恵の回らぬ幼児のような扱いを、ミラーソードが帝国の第一使徒であるサイ大師から受けていたことが思い出された。


「恐れながらお答えします。波守なみのもりとはナシア島を守護する神、ゼキラワハシャの遣わした知恵ある海獣でございます。神の許可なく航行する船舶を襲い、沈めてしまうのです。」


 おれは初めて耳にする神格の名を胸に刻む。要するに印章はゼキラワハシャの覚えめでたき信徒であることの証であり、通行証ということか。


「では──ゼキラワハシャの印章とは何だ。神が司る権能について、知るところを教えろ。」


 老人はますます訝しげな態度を深める。その目には疑いの色が隠されることなく表れていた。


「申し訳ございませんが船長、印章が何を意味するのかは私どもの知るところではございません。その、船長は決して私どもに教えてはくださいませんでしたので──」


 この皮めは極度の秘密主義者だったらしい。だがこのままでは埒が開かないのも事実だ。おれは性急であると自覚しながら、衣の裾から触手を伸ばすと老人の首に巻きつけた。

 擬態を解いたおれの姿に、バン・ジャンは殊更に目を剥き、口角に泡を立たせながら罵りの言葉をあげようとする。意味をなさない呻き声は、幾重にも張られた防諜の帳によって覆い隠された。


「さあ、見せてみろ。全く何も知らないはずがないのだ。貴様の記憶をおれに啜らせろ。」


 おれは自分自身の内側に、強烈な飢餓感と憎悪が芽生えていることを感じた。それは奴隷として虐げられてきた、名無しの少年が抱えていた空虚な悪意との結合だった。ミラーソードの影はもういない。ここにいるのは満たされぬ渇えと、神の寵愛に浴する者どもへの嫉妬に狂うシャドウミラーだ。


 コラプションスライムの本性に引きずられるまま、翁の首筋から命を啜り取ろうとする。だが身体に内包された魂を喰らおうとすれば、抵抗がおれを拒む。思いもよらぬことに、触手の束縛が緩んだ隙を狙って老人はするりと身を脱すると、ぜはぜはと荒い呼吸を繰り返した。

 おれは自身の触手の先に、ぬるりとした湿り気とともに痺れを覚えた。毒を食らわされたような斑点が浮き上がっている。


 見れば、老人もまた擬態を解いて化け蛙の本性を現しているではないか。ぎょろりとした目に、丸まった背。手指の間には水掻きが膜を張っている。黒い表皮に赤い斑模様が躍る毒々しい見目は、室内のか細い灯を受けて、ぬらぬらと輝いていた。

 おれはコラプションスライムらしい黒く半透明な肉体を揺すりながら、複数の触手を乱暴に振るって殴打する。狂乱せぬようにと自らの意思を理性で繋ぎとめながら、鑑定を投げ掛ければ強烈な抵抗とともに、その源が知れた。帝国の守護神であるアディケオとスカンダロンの存在が、情報の閲覧を阻んだのだ。


「密輸業者のくせに納税なぞしてるんじゃねえ!!」


 スライムの肉体に、唇と声帯を残して罵倒する。一際強く振るった触手が、バン・ジャンの肉体に直撃して化け蛙を船室の壁に叩きつけた。

 ミーセオニーズを守護する神格、アディケオとスカンダロンはともに、よく隠れること、秘密を護ることを信奉者に約束する。この老人は長くに渡って、自らの稼ぎのうち八割を税として収めてきたらしい。要するに模範的な帝国臣民であるということだ。

 しかしそうなると一商会の古参商人という身分には過大な恩寵が注がれているように思われた。この男は記憶の内に、守らねばならぬ秘密を握っているのだ。

 げろ、という苦痛に満ちた呻きとともに、バン・ジャンの口腔から手のひら大の玉石が吐き出された。一目見て、嫌な感じのする暗赤の宝玉だった。おれが全力の殴打を放った反動に動きを鈍らせた刹那、蛙翁はその玉を床板に向けて叩きつけたのだった。


「なにを──うおっ!?」


 突如として己が這いずる床が斜めにかしいだ。壁に備えられた調度の数々が音を立てて降り注ぐ。聴覚には異様な船体の軋む音が届いてきた。

 化け蛙は傾いだ船室の壁に取りつくと、張り付いたまま器用に四足で走っていく。逃すまいと触手を伸ばすが、縦横を狂ったように入れ替える室のなかで、おれは翻弄された。

 乱暴に床板に触手を突き刺し、身を引き上げるようにして、半ば天地の入れ替わった部屋から廊下へと出る。


 すでに船内には塩水が流れ込んでいた。水の流れを見るに、船倉に穴を開けられたらしい。おれは人型の擬態を取り戻そうとするが、右手にあたる触手だけが痺れ毒の影響からか、元に戻ってくれなかった。使徒であったならば、毒への完全耐性から、こんな不便は味わうこともなかっただろう。

 悪態をつきながら、傾いだまま激しく揺れる船内から脱出しようと走り出す。バン・ジャンはすでに逃げおおせただろうか。事態を理解しきれていないおれは、兎も角も危険に満ちたこの場から離れることを選択した。


 流入する海水とともに、破砕した木材に貫かれた船員の胴体が流れてくる。まだかすかに息はあるようだが、命を啜る暇はない。甲板にいた船員の多くは、海に投げ出されたか、混乱の声は聞こえてこない。響くのは船が急速に崩壊していく木材の軋みと、波が船体にぶつかって逆巻く音、そして異様な獣の咆哮である。それらは多重奏のごとく重なり合い、激しい混沌を演出した。


 コラプションスライムは無呼吸にして水泳を修めた種族だ。水中での機動力は優れていないものの、溺死の危険はない。だが、この獣の咆哮は──。

 突如、視界が水没した。甲板に続く梯子まであと数歩というところで、おれの横合いの船室が崩壊し、大量の海水が流れ込んだのだった。水の勢いに逆らおうと、おれは触手を床板やら船柱やらに突き刺し巻きつけたが、流入する水の圧力は凄まじい。たちまちに周囲が崩壊し、おれは取りつくべきくさびを失った。


 水の流れはスライム様態のおれを激しく打ち据えた。流れ込む資材調度の破材によって傷つくことを避けようと、がむしゃらに触手を振り回すが数が多すぎた。形状材質も様々な質量の塊が、幾度もおれの肉体に衝突を繰り返した。

 完全に水没した船内で、泡の向こうにおれは壁に開いた大穴を見た。そこから覗きこむ巨大な眼を見た。感情の抜け落ちた魚類とも獣ともつかぬ眼は、海溝よりもなお暗い、光を拒絶する深海の色をしていた。


「おれは──不味いから食うんじゃねえぞ。」


 おれは死を覚悟した。蘇生する者もいないであろう、深海での死──おれは祖母の治める狂にして悪なる冥府、地獄の深海へと向かうことを許されるであろうか。それとも他者から借りたに過ぎぬ魂の盗人として、現世において断罪され消滅されるに過ぎないのだろうか。


 潮は出鱈目に流れていく。正しき悪の神獣は、招かれざる者らをナシアへと誘いはしない。その資格者は、この船には一人しか乗っていなかった。

 老いたる蛙は盟約に護られ、柔らかな潮に乗って楽園へと運ばれていく。

 捧げるべき記憶──この場合は船長としての航海日誌であったが、それはある日を境にして記載されていなかった──を持たぬ者どもは、どこへとも知れず、潮流と波濤に弄ばれた。


 §


 シャドウミラーが目を覚ましたのは、それから幾日か後──ノストフェオウ神山の東に広がるカイラーサ湾の岩場であった。全身に広がる痛みに、彼は目を覚ました。同時に自身が擬態を行えぬほどに弱っていることを確かめた。


 人の気配──覚醒した彼の視覚に映ったのは、黒々と泡立つ女の脚だった。



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