第二節 割れたる贋鏡シャドウミラー

影ならぬ影の冒険

 おれの名前はミラーソード、不正神アディケオの第三使徒にして、腐敗の邪神の孫にあたる地獄の公子──と言いたいところだが、実はそうではない。おれは己の影に過ぎない。

 幻影術の秘奥には、見せかけの幻ではなく実体を持った影を生む術がある。おれはおれ自身によって治めるリンミニア大君領の政務を押し付けるために顕現させられた。こともあろうに、おれはおれがそういった政務を好まぬことを知っていて、おれがやりたくないことをおれにやらせるために、おれを増やしやがった。


 あまり一人称が混乱してきたものだから、おれは自称をこしらえねばなるまい。ミラーソードの影ならぬ影ノットシャドウだというのだから、シャドウミラーとでも名乗らせてもらおうか。こうして物思いしていると、どうにもダラルロートが眉間に皺寄せる気配を感じていけない。おれの名付けはそれほどに奇矯かね?


 金銀混淆の髪に、青い目のバシレイアン風の青年がおれの姿だ。ミラーソードはおれが自らの運命に不満を述べると即座に殺そうとしてきやがった。止む無く手向かってみたところ、屋敷に敷かれた転移阻害の結界に引っかかって、おれは根城にしていた琥珀の館から追い出されたんだ。自分の家内にあって敵性であると看做みなされるなどと露も思っていなかったものだから、おれが結界にかかったのも仕方のないことさ。


 飛ばされたところは、リンミニアの遥か南方、狂神が権勢を競い合う南蛮よりも遠い、絶縁の神獣が版図とする森林のど真ん中だった。そこからは怒涛のように逃げ続けたよ。何しろシャドウミラーであるおれは、夏を司る狂神イクタス・バーナバの夫であるミラーソードとは違って六眼も煌びやかな鱗も持っていない。双頭の魚神イクタス・バーナバの父である絶縁の神獣に対して、お義父さん!などと呼びかけて匿ってもらえる謂れはこれっぽちも無いわけだ。むしろ、魂を内在させない影に過ぎぬ存在が、縄張りに突然現れたらどうすると思う。おれなら当然狩り殺す。放っておけば眷属を憑り殺して魂を奪い存在の成り代わりをしかねないからだ。


 どこまでも続く鬱蒼とした密林を、ミラーソードが神獣と交わって産み落としたであろう白蛇の雛どもに追われて走り続けた。変成術師として最上級術を行使するだけの力は残されていたが、神々の恩寵が悉く失われたおれという存在は、酷く非力だ。白蛇の一匹とだってまともに戦って勝てる気がしない──無論、一匹だってまともな白蛇ではなかったことを断っておく。


 兎に角も、こうして語っている以上は、おれは生き延びた。濃厚な魔素の一滴も吸うことを許されない絶縁の森林から抜け出たときには喝采を叫んだよ。滝壷に飛び込んで川の激流に流されるまま、気付くと大海に出ていたというだけの話だが、それでも生き延びたことに変わりはない。

 魂を持たない影の冒険など、神々の照覧するところではないし、シャドウミラーがシャドウであり続ける限りは成長という概念も許されてはいない。身に纏っていた上等な大君の装いは肩から破れて半裸同然の襤褸に成り果てていたし、そもそも人間の見目を保つ余裕を失って、コラプションスライムとしての本性をあらわに波の間を漂っていたんだ。

 糸地だけは上質な絹を背負ったスライムが、当ても無く海を泳いでいた──なんていえば、幼児向けの童話の出だしみたいだろう。祖母ばあちゃん──シャドウミラーにそう呼ぶ権利が許されているかはわからねえが、腐敗の邪神の恩寵を失っても、おれから創造という営為への渇望が失われなかったことは喜ばしいことだった。


 そうやって海を流れていると、ミーセオの廻船が難破しかかっているのを見つけたんだ。時機は嵐が激しく、風雨が吹き付ける様子だった。曇天が垂れ込め、夜のように暗い海の真ん中で、潮に弄ばれる船におれは取りついた。スライムの肉体のまま無人の甲板から、上下に揺れ動く船内へと忍び込む。外から見た限り、帆は畳まれて櫂の漕ぎ手も、ろくすっぽ働いていない状況だ。

 難なく荷のとっ散らかった貨物室に辿り着くと、食用なのか交易の荷なのか、生きたままの山羊がいたために、一匹食餌にした。畜生の魂は薄かったが、他者の命を啜る行為はコラプションスライムのおれにとって非常に重要な意味を持っている。影ならざる影、然れども本質はミラーなのだ。


 それから嵐は収まった。船は無事航海を続けていた。どうやら沈没を免れたらしい。最初に貨物室にやってきたのは顔に痘痕あばたのある男児だった。貧相と言って差し支えの無い、青白い顔で痩せ細り、目だけは大きい幼い風貌の男児は山羊に向けて餌をやりにきた様子だった。食い殺した山羊に擬態していたおれは、命じられた仕事を退屈げに行う男児に人間の言葉で語り掛けてやった。

 投げかけた鑑定の結果は、何一つ特別なところのない、平凡なミーセオニーズの若者であるというものだった。ほとんど教育されていない、奴隷身分に落とされて船から降りることを許されない子どもにとって、喋る山羊というのは初めて目にする存在だったらしい。これが喋る蛙なら、ミーセオニーズは寓話に神君アディケオの御遣いとして教えられていたのだろうか。

 ともあれ、おれは子どもに下等な変成術メイクキャンディでこしらえた飴玉を撒いてやった。文字通りの飴玉だ。子どもというのは甘物に目がない、それこそ阿片のように覿面てきめんな効き目を示したよ。男児はおれの目となり、手足となって、船内の様子を事細かに教えてくれ、いくらかの食事を運んでくれもした。おれは何よりも魂を啜りたくて仕方が無かった。しかし目の前の痩せっぽっちを食べるだけでは物足りない。だから、この無知な手先を使って、何とかまともに外見を取り繕えるだけの肉袋を手に入れたいと考えたんだ。


 そうなれば狙うのは船長だ。ただ、この船長という奴が曲者だった。話を聞く限りでは、こいつ自身もかつて奴隷身分だったが、自分を飼っていた商家の旦那を縊り殺して船を奪い取ったのだという。奴隷を扱うにかけて、シュネコーの教鞭と呼ばれる術式を埋められた者は、まず主人に逆らうことができない。船長の剃りあがった禿頭の後頭部には、それと思しき術痕があるらしいのだが、どうにか術の理を騙して主人を弑することに成功したのだそうだ。恐らくは男妾に上がって、閨で弑したに違いない。主と認識してしまえば殺せなくなるのだから、酩酊不覚の内に事故死させるならそれが常道だろう。随分と悪の匂いの強い相手だ。おれが喰らうに相応しい。


 しかし恩寵を失い、魔素が抜け落ちた今のおれは、影と呼ぶにも烏滸おこがましいほどに衰弱しきっている。このまま船が港についてしまうようなら、奴隷の男児を食って皮をかぶるしかないが、それから先が知れている。なんとか自由になる身分の魂を啜って成り代わりを果たさなきゃならねえ。

 山羊に擬態したまま策を練って唸っていると、おれの脳裏に閃きがあった。なるほど、ミラーソードはサイ大師から傀儡使いと呼びかけられていたことがある。それは分体を操ることに引っ掛けての言葉だったのだろうが、確かにおれ自身が手を汚す必要はないんだ。


 結論から言えば、海上で船長は急死した。男児に対して飴玉を投げ、積極的に話しかけて日頃の船長への恨みつらみを吐き出させながら、牝山羊の乳房から絞り出した毒性の強い乳汁を与えてやったんだ。おれがやったことはそれだけだ。

 意を含められたわけでもない男児は、船長に乳汁を飲ませて毒殺してくれた。それなりの商家を乗っ取っていただけのことはあってか、遺骸がそのまま海に放りだされるようなことは無かった。朝方に冷たくなって発見された船長の死体は、夕方には香草を詰められた棺桶に入って貨物室へと運ばれてきたよ。

 魂はすでに冥府へと旅だった後らしく、もぬけの殻となっていた。悪なる経験を積み、人の怨嗟を背負っていたであろう魂を喰らえなかったのは辛かった。真実ただの肉袋と化した遺体を眺めるのは、おれにとって非常に口惜しいものだったよ。


 数人の人夫とともに棺桶を運ばされてきた男児は、山羊の世話をするていで貨物室に居残った。初めのうち、ひどく陰鬱な顔つきをしていたが、人が去ると急に興奮した様子で、船長に毒を盛った際の様子を語り始めたんだ。昨日までは何とも思われなかった子どもの魂が、一日を経ただけで芳醇な悪の匂いを嗅がせてくる。ああ、これは思わぬところから駒が出たな、とおれはほくそ笑んだよ。鑑定をするまでもなく、男児が階梯レベルを上げていたことが分かったよ。毒を用いた殺人は一夜のうちに子どもを悪漢へと昇らせていたんだ。

 おれは堪らず擬態を解いて、男児の肉体を貪った。何、かぶる皮は棺桶の中だ。まずは、この若く瑞々しい魂を存分に堪能しようじゃないか。スライムの本性を露にして、未成熟な子どもの肉を呑み込みゆるゆると融かし食らう。ほとばしるはずの絶叫はおれの肉体のうちで反響するばかりで、揺れ軋む船底に落ちていった。

 驚きと苦悶、裏切りへの怨念と堕落の味わいが、魂を持つことのなかった影ならぬ影の飢えを満たしてくれる。いかに優れた肉体も、魂を内包せねば泥人形に過ぎぬ。他者の魂を奪い取り、成り代わりを果たせば──シャドウミラー、そう名乗るのも終わりだろうか。否、おれはおれらしからぬ断固とした決意を持ってこの名を名乗ったに違いない。おれにはミラーソードのように恵まれた神々からの恩寵はないが、奴に欠けている生への渇望が煮えたぎっている。この影ならぬ影に、ただ一つ植え付けられた怨讐は、今も気儘に生きるおれ自身への嫉妬なのだ。


 翌朝に、おれは船長の肉をかぶって起き上がった。遺骸が起き上がって来たことに船員は驚きを隠さず、屍人アンデッドの可能性を疑って従船司祭による祈祷まで行われた。お化けに対する恐怖症は完全には克服されていないがね、ただの死体に恐れを抱いたりはせんのだ。なに、おれ自身がお化けのようなものだ。邪神の福音たる恐怖症は、力の弱化と引き換えに薄まっている。

 船長の記憶を持たないおれは、そのまま自室に立てこもって副船長に委細を任せるようにした。何とか起き上がってきたものの、どうにも体調が優れないのだ、悪い伝染性の病でも困るから、と強弁して全てのやり取りは扉越しに済ませることにした。

 そうして室の内側で占術防護の吊り蚊帳やら、精神を護るための符を床一面に貼ったりやらして日がな一日を過ごしていた。夜半になれば密かに室を抜け出し、船内の会話を全て手中に収めるように、線路めいた回路を張り巡らせもした。残されていた日誌やら海図から、この航海がまだ途上であり、目指す先は遠いことが予見される。聞き知らぬ潮路に、この廻船は乗せられている。昼も夜も帆を張ることなく、漕ぎ手を働かせることもなしに船は進んでいく。


 海図の終端、目指すべき地の名は──ナシア島というらしい。






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