狂にして乱徳、善にして無仁
那由多の果てに誘われるままに、意識は無数に解けてゆく。『合一』の聖気を浴びたアザッハの自意識は、自我を手離して意識の糸のような存在へと変化していた。マニターリの聖気は、中立悪のアザッハにとっても陽だまりのように温かかった。
「マニは遍く衆生を救うのこ。現世に彷徨う苦役の魂は、マニとともにあるのこよ。」
マニターリの第一使徒──マーザロッサと名乗った純白の茸は、輝く糸の姿へと解けていた。浮沈する糸は、アザッハの肉体と精神を走査し、いかに和合するかを探っているようだった。
「余は……。」
陽だまりに刹那、軋みのような
「気に入らないのこ。アツァーリもそうだったのこが、どうしてマニの偉大さを理解するまでに時間がかかるのこ?たかだか
まあいいのこ、と言い捨て、マーザロッサは糸を束ね収めると、再び茸型の肉塊を形成した。その傍には、ぐずぐずに融解し、黒ずんだ菌株の屑が広がっている。浴びせられた言葉は、優しくも冷徹な物言いだった。
「このマニは混じり物が多すぎるのこ。しばらく修行して
それは克己を強いるようでもあり、仲間を気遣うようでもあった。長くマニターリの株を受け入れたチャオ・シィは、上位の菌株たる使徒を前に意識を泥の底に仕舞い込み、ただただ未発達で弱々しい生物として振る舞った。
「さて、アザッハ殿下にはマニからの、ありがたーい教えを授けるのこ。」
アザッハの肉体は、マーザロッサの振るう理力術によって宙に浮かされた。使徒の胴に走る口が大きく開かれ、アザッハを吸い込み膨らんだ腹に収めた。召喚術が行使される気配とともに空間が歪み、長距離転移が放たれる。
そこは遥かなる天空の高みであった。地上を見下ろすマーザロッサの菌体の中で、アザッハは眼を共有していた。その視界には、アルジャニ市全体を俯瞰する図絵が広がっている。どこか現実感に乏しい、簡略化された地上には、夜とは思われぬ数多の輝きが溢れていた。それは人工物ではない、ただならぬ灯火であることが悟られた。
「これは魂か。」
うむうむ、とマーザロッサは満足げに頷いてみせる。無数に蠢く魂の輝きは、神格に対する信奉の表現であろう。引き伸ばされた俯瞰図が、アツァーリ全土を視界に収める。アルジャニの北にはまばらな光が、点々と灯され、その中心に光輝の柱が屹立する。
「あれがエリオロポスか。目映いな。」
南部の信奉を削り取り、衰微の過程にあるはずのエライオンの御座は未だ輝きを失ってはいなかった。
「あれの大部分は契印と王族のこ。隙間だらけの領地を侵略することは容易いのこよ。それより、もっと見るべきものがあるのこ。」
視界が強制的に切り替えられ、アルジャニやエリオロポスとは比べ物にならぬほどの光の柱が目に入る。エリオロポスよりも北に帯状の光が一つ。東の外れに狭いながら力強い輝きが一つ。そして陸を離れた南の海上に、前者二つを合わせたものよりも、更に一段と強い光輝がある。
「わかるのこ?あれがゼキラワハシャの握る信奉のこ。挑もうとする相手の巨大さを、殿下はわかっていたのこかな。」
使徒は挑発的な口調で嘲ってみせた。
「とはいえ、契印を持たぬ殿下に、いきなり神格としての視座を持てというのも酷な話のこ。アザッハ殿下は現人神であり、半神であるゆえに
神格として、次元世界全体に影響を与えるならば契印を結び、異能を権能へと昇華せねばならない。しかしそれには、契印を維持するだけの信奉を獲得する必要がある。
「三下は契印を得て満足するのこ。まあだいたいが信奉の支払いに追われて契印を磨けずに終わるのこね。」
マーザロッサはちらりとエリオロポスに視線をやり、侮蔑的に口許を歪める。
「エライオンは土地に遺されたアツァーリの信奉を切り崩しているだけの、放蕩息子のこ。これだけ広い土地に、素直で増えやすい眷属を従えて四〇〇年も首都集権とか、意味不明のこ。『油』の契印も十二分に強力であることを考えれば、ほとんど
マーザロッサのエライオンに対する評価は厳しかったが、アザッハを驚かせたのはイランプシの位置付けであった。正しき善として属性をエライオンと同じくする第一使徒が、奸臣であるとは。
しかし矛先を交えた経験のあるアザッハには理解できる話であった。調停者イリニの印章が彼の紅衣の魔術師の額に刻まれていたことと符合する。常に厳しい認識欺瞞によって己を閉ざしていた理由は、含む所があってのことか。
「シディルルゴスは手堅く領地経営してるのこが、伸びしろが薄いのこ。神域を地下に拡張しても立地的に限界のこね。中原に野心を抱く様子も無く、何か考えがあるのかわからんのこ。それよりもスコーリアは流石のこよ、不出来な弟神との戦を手仕舞し、盤面が整うまで契印を使徒に預けて眠りにつくという豪胆な策に出たのが功を奏したのこ。復活してからはボレイオス、アクリダと緩いながらも盟約を結び南進の構えに入っているのこね。」
にまにまと口角を上げて使徒は笑う。今の評を聞く限り、アザッハの仮想敵となるのはスコーリアらしい。
「神話伝承ではスコーリアは兄弟戦争に敗走し、中原を追われたというが──随分と評価が高いのだな。」
あえてアザッハは通説を持ち出して、マーザロッサから言葉を引き出そうとした。
「契印は神々にとっても重い物のこよ。信徒が祈りを示すことに追われるように、神々は信奉を束ね契印を維持することが第一の試練のこ。契印を磨く力を持つ
使徒は一通り、三神への論評を終えると、己の肉体を空へと投げだすように寝そべらせた。視界は地上から天上へと向けられる。澄んだ夜空には星辰が過たず運行される。その景色はアザッハにとっても象徴的な何かを感じさせた。
「殿下よ、神となって何を為すのこ。」
マーザロッサの問いが核心に触れた。
「余の魂が命じるのだ。我が大地を復古せよ、と。」
アザッハは応じながらも、その言葉が不十分なものであると自覚していた。
「アツァーリは
しばし──沈黙が二者の間に漂った。宙空を漂いながら、この舌論が己の命運を握っていることをアザッハは痛感していた。
「殿下は衆生を労わり、その悲嘆を拭う優れた為政者であるとマニは認めるのこ。善悪を彼岸に追いやるだけの英雄であると──。」
続く言葉が、アザッハの神格としての適性を疑うものであることは間違いなかった。マニターリの司る五権能、『巧言』はただの弁舌にあらず、論戦に敗北する者は魂を折られると言われている。マーザロッサの舌鋒が、アザッハの意気を挫きかけたとき、一筋の閃光が走った。
地上から伸び来たった直線の光はアザッハを内包する使徒の胴を貫いて、天空を裂く光の柱を象った。半ばから真っ二つに裂けたマーザロッサの胴は、瞬時に糸状にほどけ断面を結ぼうと試みる。しかし、その間を許さず再び閃光が走る。零れ落ちたアザッハの肉体は、使徒の支配を脱して地上へと降下していった。
絶え間なく再生を試みる使徒の肉体を、更なる速度で閃光が刻んでいく。
「あのなあ、大将。あんたが神になったら酒が旨くなるんだろう、それで十分じゃねえか!」
いと高き空より、墜落するアザッハの耳に届いたのはカオハンの声だった。
風よりも
余は──神になるのではない。余を神にする衆生がある。
「おう、動いてみろよ、ああ!?オラオラオラオラ!!!!!!!!」
『酩酊』に身を預け、酔漢然としてマーザロッサを抉り続けるカオハンの様を、逆さに見送りながら、アザッハは陶然と笑みを浮かべた。苦悩と悲嘆は忘却の果てへ。この地を楽土へと至らせるのみ。
「聞け、マニターリよ。
アザッハの背に七色の後光輪が形成される。七つの光輪が浮力を生みだし、アザッハを落下から超高速の機動へと導き空へと撃ちだした。カオハンの軌道と、アザッハの軌道が交錯し、虹の閃光が天空を走る。スペクトラムが混じり合い、拳と瘴気によって象られた矛がマーザロッサへと突撃する。衝突の余波が大気を震わせて、使徒の肉体が四散した。
糸くずのようになりながらも、マーザロッサは再生を止めはしなかった。貴人の宣誓が茸体に届くと、無い唇を嬉し気に歪めて、使徒はそれまでに無い速度で再生した。傷一つない使徒の肉体は以前よりも美しかった。星々と地上の魂を集めたかの如き純白の輝きを放ち、使徒の小身が膨張するような錯覚が、カオハンとアザッハを襲った。
「よろしい。ならば、マニが星の海へと旅立った後、この地を統べるがよい。」
不意に、引き締めた調子で語られた言葉は、狂善なるマニターリの声だった。使徒の口を借りて発せられた神の言葉は重大な意味を持っていた。
吐き出されたのは聖気でも瘴気でもない、濃密な神威に
カオハンには、ただ気絶をもたらすだけであったそれは、アザッハに神座の秘奥を届けた。
数限りない
気儘なる
「マニターリの識る樹状系譜は、殿下には適応しまい。マニは非戦の神ゆえに。とはいえ、マニの憤激を殿下は共有するものと信頼するのこよ。」
神威によって意識を失い、カオハンとアザッハは墜落していく。引き延ばされ鈍化した時の中で、宙に浮かぶマーザロッサの笑みが三日月と重なっていた。
消え去る使徒の姿を見送りながら、アザッハは神の叡智を脳髄に染み渡らせていた。
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