大いなる晩餐

 複数の変性術師によって造成されたアルジャニ政庁は、白く煌めく石積の宮殿である。それは夜半にあっても、揺らめく松明の灯を浴びて変わりはしない。

 アルジャニ市街と同等の面積を確保した広大な敷地内には、行政府の機能のみならず、軍事施設としての練兵場、賓客をもてなす迎賓館などが散りばめられ、その間を艶めく芝生と噴水が埋めている。なにより目に映る施設に限らない価値を、この地は持っていた。


 クルサーン=アザッハは、すでに神格としての階梯を昇り始めている。彼にとっての真の意味での領地──神域は、このアルジャニの政庁と定められた。

 それは、アザッハにとってゼキラワハシャからの自立の第一歩であり──他方、忘却神からすれば、いずれ契印に取り込もうと目論む王族が、己の掌中から抜け出ようとする行いであった。

 ゼキラワハシャが事態を看過しているのは、アザッハが腐敗の邪神から接吻を受けたためである。虹の貴人の魂を舌先で味わった邪神は、この美味を自らの皿鏡に供することを内心に思い定めたに違いなかった。健啖なる邪神から、目前の食膳を下げるような真似をすれば、必ずや災厄を招くことは疑いない。


「故に、大父たいふは余の振る舞いを、寛大なる忘却の懐に収めてくださるであろう。」


 迎賓館の一室、客を饗応する広間の中央には、十名はつくことのできる長卓が据えられている。館の主がつくべき位置にはアザッハが座を占めており、澄みきった清酒を杯に注ぎ楽しんでいた。

 卓を挟んだ向かい側には、目にも鮮やかな美食の贅が隙間なく並んでいる。それらはただ一人の姫君を饗するためのものだ。


 透明感に溢れた瑞々しい肌は、彼女の若さを物語っている。幼さを残す見目は愛らしく、それでいて最上級の猫眼石を嵌めたように輝く瞳からは、快活さが感じられた。姫君は、名をアルシュシャラーハといった。アザッハにとっては、異父妹にあたる人物である。


 今宵の晩餐にあって、アルシュシャラーハは口許を薄絹で覆い隠している。楚々とした仕草で食事をとる様子からは、過日に料理人らを恫喝していた者と同一人物であるとは想像もつかない。


「兄様、改めて申し上げておきますけれども──アルシュは父様に仕える使徒でございます。もちろん、この神域にあっては父様の目が届かないとはいえ……その、お言葉は慎んでください。」


 先ほどアザッハが口にした『懐に収める』とは、ナシアの言い回しで『ひと時不問に付す』といった意味合いである。しかしながら忘却神に近しい者からすれば、これは『いま一時は見過ごすが、懐の備忘録に記帳して、いずれは必ずや』という意味合いへと変わる。

 アルシュシャラーハの内心は複雑であった。アザッハを兄と慕うがために、彼とゼキラワハシャとの確執に心を痛めていた。神子として忘却神の血を注がれた彼女は、神血色濃く、祖なる海獣の有り様を示した神獣でもある。純然たる定命とは言えぬ存在であるがために、契印の契約者としてではなく、使徒としてゼキラワハシャに仕えていた。

 恩寵深い己の身が、ともすれば神の耳目として働くことをアルシュシャラーハは懸念していたのだ。


「アルシュよ、余はいずれ大父の掌中から脱して見せよう。そのときには、そなたには余の使徒として仕えてもらう。」


 唐突なアザッハの宣言は、アルシュシャラーハを困惑させた。それは不可能に思われた。なによりアザッハ自身、ゼキラワハシャの権勢に拠ってアルジャニ市を維持しているに過ぎないはずだ。


「アルシュには、兄様のお戯れとしか……大海を泳ぎきる者、万海の獣王にして潮を飲み干すゼキラワハシャにとって、沿岸に近い小市を沈めるのは容易いことです。お考え直しください。」


 目の前の皿からは香辛料が香り、煮込まれた肉が湯気をたてている。アルシュシャラーハは口許を汚した野草のソースを拭いながら、それを手元に引き寄せる。あまりに荒唐無稽なアザッハの言葉に、彼女は仄かに苛立ちを覚えたか。普段馴れの粗野な振るまいが、ちらと顔を覗かせた。

 アザッハの抱える政庁の料理人らは、ナシアから連れてきた者がほとんどだが、ただ今料理長を務めるのは、ミーセオ本土から連れてきた宮廷の内膳司にあった者だ。食材に黴を生やしたとかで、利き腕を落とされてはいるものの舌に間違いはない。舌の肥えたアルシュシャラーハを満足させるだけの皿であったのだろう。


 不意に女は握っていた銀箸を取り落とした。アザッハは何事も無かったかのように杯を舐めている。からり、と床を鳴らす音が広間に響き渡る。その場には貴人とその客賓である姫君しかいないように見えた。


「食ったか。」


「お召し上がりになられました。」


 主からの形式的な確認に答えた声は、侍従を務める宦官のものである。その声は、アルシュシャラーハの口腔を犯すような位置から発せられた。

 あっあっ、と、女の口からは言葉にならぬ声があがる。口許を覆っていた絹布がふわりと舞い、幼い相貌に走る、真一文字の裂け上がった唇を露にした。

 アザッハは着物の懐から、先日にイランプシから贈られた台帳を取り出した。実父の遺した唯一の品となった備忘の台帳である。あわれげな鳴き声を上げる妹を、貴人は冷然と見下ろしている。その様子は長く仕えたチャオ・シィも畏怖を覚えるほどの非情さを備えていた。


 アルシュシャラーハが口にした皿に盛られていたのは、他ならぬチャオ・シィの肉株である。新たにミーセオニーズの料理長を任じた理由は、皿に対して深く欺瞞を施せるだけの恩寵を、不正神アディケオから授かった者が必要だったからだ。

 小刻みに痙攣する女の肢体は、繰り糸に吊られた人形のように不自然に体勢を保っている。口許から零れ落ちる唾液は、強い粘性を示しながらぬらぬらと蝋台の火を照り返していた。


「余が現世に許せぬものは二つある──わかるか。」


 貴人の端正な相貌が厳めしく歪んでいる。平時には柔らかな笑みを絶やさぬアザッハが、まるで別人のような憎悪を煮えたぎらせていることがチャオ・シィには感じられた。聞く者の脳裏を熱く焼く、狂気を帯びた美声が注がれるたびに、アルシュシャラーハは体を跳ねさせる。頭を振り乱してチャオ・シィが宿す『合一』の異能に抵抗しようと試みているのであろう。


「一つは余を軽んじる三神とアクリダである。アツァーリの正統なる血脈と、勇者の魂を継ぐ者はこのアザッハに他ならぬ。必ずや契印を正統なる担い手に戻さねばならぬ。」


 七色に彩られた魂が肉の器から溢れだす。定命の身に相応しからぬ巨大な魂──往古、アツァーリの地を支配した大神の血脈は、幾世を経て青年の肉体に宿っている。四〇〇年の時をかけて冥府を巡り、遠大な魂の旅の果てに現世へと還った勇者アツァーリの魂は、常人の魂を七つは飲み込むほどに巨大であった。それこそがアザッハに宿る『虹』の源泉であり、彼がアツァーリの地とそこに根差す契印を己のものと判ずる理由である。


「今一つは──大いなる我らが神、ゼキラワハシャだ。余は大父たいふの偉大さを疑いはせぬ。鷹揚にして冷酷、雄大にして無情なる正悪神としての務めを果たす御柱である。」


 だが──と、言い置いて、アザッハは席を立つ。杯を手にアルシュシャラーハに歩み寄る姿には、貴公子然とした優雅さと、悪辣漢が獲物をいたぶる愉悦が同居する。

 アザッハの手に握られていた台帳が、理力術の見えざる手によって宙に浮く。不可思議に屈折した光の線が像を結び、アザッハは三人に増えた。


「かの神が扱いかねる『享楽』と『酩酊』の契印もまた、余の手元にあるべきもの。大神の御前にあっては、不遜なる海畜生の振る舞い──赦しがたい。」


 掲げた杯の天地が返され、流れ落ちる神酒の糸が女の顔を洗う。


「聞け!不正を司りし、よく隠れたるアディケオよ。古き謀りは暴かれた。我が真の父、名を拭われしナシアの王は復仇の願いを込めて、これなる台帳を遺した。」


 先詠者の声を追い、追詠の輪唱が重なり行く。三人のアザッハは宙に浮く台帳を囲みながら、完璧な祈祷を行使する。その声に応えてか、何者かが水面を跳ねる音とともに、神格の気配が現れた。

 その注視はアザッハの掲げる台帳に向けて注がれている。かつてアツァーリの契印がアクリダによって割譲された際、アディケオとゼキラワハシャは結託して大いなる悪を働いた。七つあるべき権能の内、二つを司る欠片を隠匿したのだ。その事実が、そこには記されていた。


「大神を欺きしアディケオよ、余はクルサーン=アザッハ。虹の王者にして、アツァーリの正統を継ぐもの。余は不正神の偉大さを疑わぬ、故に──蛙も天空に架かりし虹の優美を認めよ。」


 神格として、未だ契印を結ばぬ現人神に過ぎぬアザッハは、アディケオからすれば取るに足らぬ存在である。

 だが、アツァーリの契印割譲にまつわる秘密をアザッハは暴いてみせた。捧げられる備忘の台帳には真実がつまびらかとされている。不正神はこれを試練の克服と見做さざるを得ない。


「眩しき者よ、アディケオに何を望む。」


 けろけろ、と、蛙の鳴き声に重なり神威が降り注ぐ。今や、アザッハは神威に屈することなく相対して要求した。


「ゼキラワハシャとの盟を破棄せよ。」


 間髪を置かず、問いが投げ掛けられた。


「して、その利は。」


 アザッハもまた、淀みなく応じる。


「アツァーリにおける通商の自由。」


 けろけろ、と嘲笑う声が返ってくる。


「それは空手形というもの、そなたが老獪なるゼキラワハシャに勝つとは思われぬ。」


 予想された問答である。アザッハは身に宿る『忘却』の異能を振るう。


「ならば余を勝たせるがいい。知っていたか、アディケオよ。備忘の台帳は本質的に一つしかない。ゼキラワハシャの台帳と、我が父の台帳は、『忘却』の権能に根差して繋がっているのだ。」


 未だ痙攣を繰り返すアルシュシャラーハに向けて、アザッハが神力を向ける。宙に浮く台帳がばらばらと扇がれて光の帯が伸びる。

 虚ろな眼差しを泳がせる女に、光輝が注がれれば、その目には新たな光が宿っていた。それは失われた記憶の再現が行われた証であった。


「アディケオよ、古き御代に血筋を盗まれていたことを思い出したか。我が母はミーセオ皇室の傍流であったのだ──今もなお、ゼキラワハシャの神域、忘却の果てに囚われている。」


『不正』の大権能には『醜悪』の小権能が内包される。経験を深めたミーセオニーズには、化け蛙へと姿を変えてアディケオに仕える者もいる。

 アルシュシャラーハ──彼女は海獣とミーセオニーズの混血児であり、どちらとも異なる海蛇の如く鋭い眼と、大きく裂けた口を持っていた。優麗にして凶悪。蛙を呑んだ海獣が、意を含めて産み落とした神子の様相は、その血筋にミーセオの皇統に連なる片鱗を想像させた。


 蛙は鳴くことをやめ、一時思案するような間を空けた。その後に、厳かな声音が場に注いだ。それは煉獄の半身に相応しき威厳に満ちた声だった。


「忘却を暴きし者、クルサーン=アザッハよ。よく謀りし者よ。アディケオはそなたを祝福する。アツァーリの地に流れたる我が血統が、新たなる御柱として立つ日を待ち望む。アディケオはゼキラワハシャに与せぬことを約定する。」


 アディケオは利に拠って動く。内心に憤激を宿しながらも、表立った宣戦をゼキラワハシャに対して行うことなく、現状を維持する立場を崩すことはなかった。ただ、宙に浮かぶ台帳に向けて、神自らの手で深く欺瞞を施した。何よりも、この鬼札の存在をゼキラワハシャに知られぬように、と。


「承知したぞ、アディケオ。いずれ富と享楽を分かち合う日も来よう。」


 アザッハは密約の成ったことを知って安堵とともに破顔した。いずれナシアと事を構えるとき、追い詰めたゼキラワハシャが旧交あるアディケオに何らかの助力を求めることは、前もって封じておかねばならなかった。


 アルシュシャラーハは、ゆるやかに嘔吐する。忘却から解かれたアルシュシャラーハを『合一』の異能で縛る理由は無かった。回復すれば使徒としての戒めからも解放され、アザッハの力となることだろう。

 女の口腔から吐き出された、チャオ・シィと思しき肉塊は、ぴこぴこと短い脚を生やして歩き出した。













「感動の再会を邪魔して申し訳ないのこが、そういうのは困るのこよ。」


 声音が耳に届くよりも疾く、水面を激しく叩く気配とともに、アディケオの神威がかき消えた。口を利いたのは吐き出された肉塊だ。チャオ・シィの意識ではない、白く発光し始めた肉株が喋っている。

 耳鳴りとともに、凄まじい聖気が周囲を浄化する。アザッハは対抗する瘴気を持たない。やすやすと耐性を貫通され、分身は掻き消えて膝をつかされた。


「いきなり逃げ出すとは不躾な蛙のこ。」


 肉株の放つ光を、アザッハは曲げることが出来ない。圧倒的な神威の差、何より直視すれば意識を刈られると悟らせる善の気迫が充満している。


「お初お目にかかるのこ、マニは歴層の神樹マニターリの第一使徒──マーザロッサ。」


 立ち上がる肉株の胴に裂け目が走り、にやりと笑うような口が現れた。流暢な喋りとともに名乗られたその名は、この陸塊の東方を統べる主神。実力あるアツァーリの者らが、なべて忌避する災厄の中の災厄──狂にして善なる神、マニターリ。


「何、とって食うつもりはないのこ──ただ、よその悪神を陸塊に招き入れようとするのは、ちょっとオイタが過ぎたのこね。盤面ボードを支配するマニターリにとって、それは見過ごせないのこよ。」


 光り輝く茸は、立ち上がることもままならぬアザッハの頭上から、尊大に言葉をかける。


「勝ちたいのこ?この次元ゲームを支配したいのこ?神格プレイヤーになってどうするのこ?いいのこよ、勝たせてあげるのこ。マニはこんな次元セッションにはうんざりしているのこ。」


 ──理性を抹殺せよ、全ては許される。


 マニターリの聖句が、アザッハの口から零れ堕ち、貴人は意識を失った。


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