討神の精鋭
アザッハの
いつぞや宛がわれた旅籠の二階は、そのままカオハンの住処とされた。どうにも苦い思い出が蘇るために別な場所を求めたかったが、少しでも贅沢を口にすれば、貴人の侍従を勤める宦官が殺意を込めた目で射竦めて来るために、謹んで寝起きさせていただいている。
「広いのぅ、しかも綺麗な背中じゃ。ここまで白いのは見たことが無いわい。」
カオハンは、寝台に寝そべって日に焼けた背中を晒している。彼の肉を揉みながら、老人は実に嬉し気に微笑んだ。カオハンが、アザッハから直々に命じられた最初の仕事は、全身に刺青を入れることであった。
歓迎の宴席に招かれた折りに、振る舞われた酒をひたすら呑み続けていると、主君から興味深げな声がかかった。
「そなたはどうも酔わぬ質らしい。我が神酒を樽で呑み干せる者は他におるまい。」
それなら、とアザッハが送り込んできたのが、いま施術している彫師である。大層年配のミーセオニーズは熟練の魔術師だったらしい。彼がカオハンの肉体に施しているのは、魔術回路と酷似した構造の刺青である。
魔術に適正を持たぬカオハンが前線に出るならば、それなりの装具を揃えねばならぬ。だがそれにも限界があり、身軽さを信条とする武闘家に重装の鎧は適さない。考え出されたのが
何重にも折り重なる刺青は、彫師にとっても初めての試みである。通常であれば持って生まれる回路と干渉競合するために、付け加える分量箇所に限界を来すものだ。無理に刻めば人格の荒廃を招く危険な施術である。しかしながらカオハンには生来の回路が皆無である。特殊な眼鏡越しに皮下を精査する彫師の眼から見て、カオハンは最高の素材と言ってよい。
数日かけて背中から腕、
「ほれアザッハ様の神酒じゃて。」
ぐいと一口飲めば、以前よりも口当たりが甘い。これまでは感じなかった熱のようなものが背中に溜まっていく。美酒に酔う感覚が快い。
「熱いな、火酒のようだ。」
与えられた上等な絹衣を腰で履き、帯に任せて上半身を露出させた格好である。窓の無い部屋が耐えらえず、カオハンは階下の茶屋から外に出た。外気に晒してもなお熱い。背中から腰にかけての熱は増すばかりだ。
「爺さん、これヤバいんじゃねえのか。」
遅れて降りてきた彫師は眼鏡越しに刻印の精度を確かめている。
「ちとやり過ぎたかのう。」
店の奥から引き出された姿見の鏡に背中を晒せば、眩暈がするほどの弧状の紋様が数層に重なって輝いている。自身の背中の光輝に、カオハン自身も脳を焼かれるような錯覚を覚えた。覗き見ていた店主に女中までも、ちらと見ただけで目を背けてしまっている。
「あまり慣れぬ者にとって、軽々に見て良い類の
そのうちに抑制が効くようになる、と彫師は言うが、体に溜まる熱をどう発散するべきか。カオハンは悩んだ末、打あるのみ、と結論した。
練兵所に向けて走ろうと、地を一蹴りすれば、足の裏から過剰な魔素が噴射されるような感覚に襲われた。体勢を崩しながら前のめりに倒れれば、着いた指先が弾けるように地面を抉った。カオハンは走ることも儘ならぬままに、アルジャニの市街を駆けていく。
§
立てた丸太に杭を打ち込んだ練習台に向かって、ゆるやかに型を確認する。相手の繰り出す突きに見立てた杭に対して、交叉するように払い受け、細かい連打を加えていく。もともとが型の修練に用いる修行法である。以前に比してさらに緩やかな動きは、傍で見る者からすれば退屈な訓練に映るだろう。
だが、カオハンに刻まれた
応じて打つ、打あるのみ──内燃錬気すれば飛鳥の如く跳躍し、指撃は虎牙の如く抉り穿つ。恵まれぬ素地にあって磨き上げた武技を捨て、カオハンは授けられた尋常ならざる力を急速に構築し直していく。
多神の統べる次元界にあって、神ならず己の拳に懸けて、カオハンの拳には天稟が宿っていた。
「神殺しの拳──なかなか面白い仕上がりになりそうだな。」
アザッハは天楼からカオハンの訓練を眺めている。『酩酊』の異能は未だ神性には至らず、その恩典を授ける媒介として神酒がある。
カオハンは気付いていないが、既に中毒症状を起こしているのだ──アザッハの供する神酒を飲むことを止めれば、カオハンに刻まれた刻印は彼を苛むだろう。アルジャニにあって生活する上では、何ら不都合はないと判断して、アザッハは新たな手下に無用な説明をしてはいない。君臨する貴人は実に慈悲深く、人の悲嘆を拭い去る。
他の者にも、それぞれに仕込みを始めている。定命を捧げて戦う兵卒とは別に、神子とその神を討つ精鋭をアザッハは準備していた。
青草の心術師チャオ・シィ、酩酊の滅拳カオハン──あと二人か三人ほど用意する当てがあった。
§
政庁の食を賄う厨房には、数人の厨師が息の合った連携で調理にあたっていた。
だが、皆一様に顔色が優れない。
そのうちに最も若い下働きの男が、裏口から飛び出ていった。外からは嘔吐する声が聞こえてくる。
未熟──否、彼らは皆優れた料理の技能を備えている。だが、ここ数日間に彼らが調理していた食材は言うに憚られる物であった。
厨房の裏手には掘り返された赤土が広がっている。その横に深く伸びた穴の底には、使い残された食材の「殻」が捨てられている。
「いやー、この貝おいしいっすねえー。なんでしたっけ、ネザラートさんが送ってくれたんでしたっけ。」
貝──巻貝に塩を混ぜた湯を注いだだけの代物を、料理と呼んでいいのかは分からない。巨大な巻貝が朱塗りの食卓に上せられ、声の主は貝の中味を引きずり出す。
それは既に貝なのだ。どのように艶めかしい見目にあったとしても、もはや貝でしかない。
「いやー、美味いっすねえ、これ。ちょー美味いっす。」
女だ──声の主は、確かに女だ。だが、彼女の口は裂けている。口許さえ隠せば可憐な、といって差し支えない容貌なのだが、その食事の光景は凄惨だった。貝の腑を丸のみにする女の顔は、どこか海蛇を思わせた。絞られた月のような瞳孔が貪欲に瞬いている。
「はやくー、次持ってこないと食べちゃうお?」
銀製の食器を騒々しく打ち鳴らし、女は厨房に向かって恫喝の声を投げかける。厨師らの悲鳴があがり、豚を一頭丸焼きにした物が運び込まれてきた。
「あー、猿の脳髄
女──ゼキラワハシャの第四使徒にして、忘却神の神子にあたる姫君である。その名をアルシュシャラーハという。
「兄様早く来ないかな、全部私が食べちゃってもいいのかしら。」
クルサーン=アザッハを、兄と慕う──危険な女だ。
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