紫英拳師範代カオハン・ラオ

 じりじりと照り付ける太陽の下、政庁の敷地内に広がる芝生を風が煽る。甘い草の匂いが吹き上がるものの、カオハンが爽やかさを感じるには、いささか状況が苦しい。


 彼の前面には鎧兜を纏い、獲物を担いだ蔓草の化け物が群れている。その面相は一様に、昨日出会った謎の青年、チャオ・シィのそれを模している。


 政庁の周囲を囲む土塀を越えるまでには、目算三百歩はある。人力車に揺られて来た時分に、円弧状の外門をくぐってから玄関まで、いやに距離があるなと思ったが、狩り場に使うつもりなら得心が行く。


 二十を超える数の蔓人は、カオハンが戦意を崩さぬのを見ると嬉しげに叫笑した。喉を形作る茎同士を擦って、奇妙な音が響き渡る。


 この囲みを無視して脱出するのは困難だろう。打ち倒すしかない。

 カオハンは深い呼吸を繰り返しながら、身体強化の呼吸法ブレスを巡らせる。術理に適性を持たず、体躯に恵まれなかった男が唯一磨き上げた武芸である。


紫英ズィ=イン拳──カオハン・ラオ。」


 名乗りを受けるのはチャオ・シィにとって傀儡に過ぎない。彼の本体は客間から出で、ゆったりと回廊を歩んでいる。


「聞かぬ名の流派だ……女の名のようですが。」


 独りごちる青年は、カオハンの戦いを傀儡の視野から眺めている。


 チャオ・シィの操る菌体傀儡シュルームパペットの能力は、素体となった兵士に依存する。菌糸を埋められた相手は、普段は自我を残して生活するものの、一度チャオ・シィが『合一』の異能を振るえば、使役者の意思に同調して働く傀儡となる。


「練兵を重ねた禁軍の精鋭を相手に、どこまで魅せてくれましょうかな。」


 自我を奪う下等な心術とは一線を画す異能である。菌体はチャオ・シィの端末であり、彼らの見聞きした経験、感じる情感さえ上位の株が収奪することが『合一』の恐ろしさである。無論……より巨大なマニターリの株に見咎められぬ内はのことであるが。


 カオハンの構えは柔らかく、呼吸は長い。彼は自らの周囲を囲む敵の装具を確認する。


「よく考えられている。」


 三人一組の運用なのだろう。剣と小盾で武装した者らが二人に、後列で蛇矛を構えるものが一人。前衛が相手の動きを止め、矛が止めを刺すつもりか。

 両翼に展開した組に動きは無い。広く構えてこちらの動きを制限している。

 まずは正面の組が、力量を測ろうという意図か。


 身軽な動きで、剣盾兵が距離を詰めてきた。一人が正面から剣を振るえば、もう一人が横合いから突き込んでくる。一撃目をかわすまでもなく、相手の小手先を打って始動を押さえる。側面に飛び込んでくる剣先が、着物の袖口を薙いで斬り飛ばしたが手傷は無い。

 視界の端では、矛使いが長柄をしごいて時機を待っている。距離を引けば蛇矛の間合いに絡めとられる。故にカオハンもまた、危険な接近戦に応じざるを得ない。


 応打避打、応打応打──敵の鎧は黒塗りの革に金属鎖を編みこんだ物、胴を打ち込めども手ごたえが薄い。

 振るわれる剣に体を躱すまでもなく、始動を打って捌き続ける。肉薄の間合いを外すことなく、剣が振るわれる距離を消す。反対の手に構えられた小盾による殴打も、効果的には働いていない。カオハンに届く先から、流れるように誘導され威力を殺されるからだ。手首を打てば肘が揺れ、肘を打てば肩が崩れる。距離を潰した攻防は数の不利を消している。

 数度の攻防は、時の流れにすれば束の間である。気付けばカオハンを拘束するはずの剣士は、彼の肉体を覆い隠す壁として使われている。矛に対して背後を見せず、器用に立ち回るカオハンの動きに、側面を取る剣士が刺突を繰りだす。


「それは見たぞ。」


 カオハンと正対する剣士の体が崩れ落ちる。上半身の攻防と同時に、足取りによる仕掛けが行われていたためだ。密着した距離から足首を払われる。絡んだ脚を支点に体重をかけられた格好である。

 ぐるりと回った剣士の肉体を、鋭い刺突が抉っていく。鎧の継ぎ目を裂いて、血飛沫の代わりに青い草汁が飛び散った。脱力とともに地に叩き伏せられ、魂切こときれる。

 思わぬ同士討ち、そして訪れる致命の隙──呆然とする剣士に対して、カオハンの掌打が顎を打ち、下がった頭を兜ごと掴むと円を描いて振りぬいた。それまで見せなかった膂力が発揮され、相手の肉体は宙を舞って錐揉み回転する。

 首から先を捩じ切って、脊髄ごとずるりと抜き出す。どうも神経にあたる部分までは、化け物に犯されてはいないらしい。手にした頭部を距離の離れた矛使いに投擲する。金属製の兜が加速をつけて腹を打つ。呼吸器が失われた肉体に腹を打つ意味は薄いが、衝撃を与えればたたらを踏ませて隙が生まれる。敵の回復を待つことなく、得物を奪ったカオハンはすでに間合いに入っている。鋭く二刀を振るい首を刎ね飛ばした。


 囲みを形成していた残りの組は、一斉にカオハンへと殺到した。カオハンは動きを止めることなく、双手にあった剣をどちらも投擲する。回転飛翔する剣は、横薙ぎに二人の首を飛ばした。蛇矛を蹴り上げ手に取ると、数度握りを確かめるように突きを繰り出した。



 §



「おう、もう終わったぞ。」


 チャオ・シィが悠然と回廊を歩き、玄関先に至れば、折り重なった屍体の上で、青く染まったカオハンが座っていた。数本の蛇矛が地に突き立ち、剣は周囲に散乱している。


「おやおや、物足りませんでしたかな。」


 言いながら、チャオ・シィは内心驚いていた。カオハンは一度たりとも菌体に直接触れていない。魂切こときれた屍に触れることはあっても、傀儡に触れていないために、心術の行使も胞子を植え付けることもできなかった。


「あんたが──チャオ・シィ殿が尋常ではない術者であることはわかった。だが何故こんな回りくどいことをする。魔術師の類を揃えられたら、おれじゃあ持ちこたえられなんだぞ。」


 言うとカオハンは地に突き立った矛を抜いて、カオハン目がけて投擲する。風巻いて飛ぶ剛撃はチャオ・シィの頭を吹き飛ばすが、瞬時に蔓草が生えそろって再生する。


「頭を吹き飛ばしても無駄なのかよ。」


 笑むチャオ・シィは問いに答えず問いを持って返す。


「何故、この場から逃げなかったのです。」


 逃がす気なんてねえだろ──カオハンが吐き捨てるように言えば、チャオ・シィは笑みを深くする。


「ズィ=インという名……知らぬ名ですが、カオハン殿が修める拳の祖にあたる方ですかな。」


 チャオ・シィは幾重にも重なった鑑定をカオハンに投げかける。名をカオハン・ラオ、性別は男性、年齢は二十五歳、種族はミーセオニーズ、職位は泰山武僧エンシェントモンク、階梯は十八、属性は正しき悪──称号は『紫英拳師範代』、そして『ノモスの仇』──ノモスケファーラ!


「ノモスケファーラを敵に回していたか!偉大なる規律神を!」


 これはこれは、彼の陸塊にはおられまい。律する賢母ノモスケファーラは『規律』『支配』『剛力』『大地』『賢察』の五権能を有する大神だ。善なる神の主たる柱として、ミーセオ帝国を脅かす一大勢力を築き上げている。しかし術理に明るくないこの男が、ノモスを害するほどの力を備えているとも思えない。


「婆さんの、そのまた婆さんの婆さんの婆さんの婆さん……どうでもいいが、とにかくおれの先祖に人間モータルだった頃のノモスとやり合った馬鹿がいたんだよ。ズィ=インというのはその馬鹿の名前だ。その御蔭をもって紫英拳の師範は代々ノモスの率いる力学教団から追われてる。おれは師範代に過ぎねえが、当代の師範は今でもミーセオの山奥で隠遁して修行してるはずだぜ。」


 道理で……奇妙なことに、この男は神々からの恩寵を一切賜っていない。帝国にあって正しき悪の属性にあるカオハンが、アディケオもスカンダロンも崇めずに、愚直に武芸に邁進してきたというのは、特殊な事情無くしてあり得ぬことだろう。


「神々から逃れるようにして身を隠す一族だ。開祖は蛙を助けた尼僧だったとかな。おれは山の暮らしに嫌気が差して降りてきたが、流れに流れてここまで来たわけよ。」


 どう評価するべきか。由来の面白い人物であり、極めて優秀な武闘家である。しかしながらノモスケファーラに敵視される要因を抱え込むのは躊躇われる。


「いいじゃないか──余は悪神の公子なのだから、殴る難癖なぞ幾らでもあろう。」


 その声を耳にして、チャオ・シィは面を伏せ膝を付く。輝かしい金の御髪に、ほどよく焼けた小麦色の肌、彫像のように整った相貌の貴人──クルサーン=アザッハが階段上に現れていた。カオハンを見下ろす統治者の衣装は略服ながら、最上の絹で織られていた。蒼地に金糸の刺繍が、円弧の意匠を描いている。


 カオハンはその尊顔を拝するとき、神威というものを初めて味わった。神に追われ、神から逃れて隠棲する一族のすえである彼は、祈りを捧げたことが無かった。僧門にあって崇める神を持たぬ異形の修験者。その拳は日々巌を穿ち、疾風よりも速く走ることを課されて生きてきた。言葉を失い、カオハンは自然と頭を垂れていた。


「カオハン・ラオ。余に仕え、楽土を築く礎となるべし。」


 虹の神威は、既に定命の者を圧するだけの力を備えていた。アルジャニの都には魑魅魍魎とした輩が日々流れ入り、アザッハの眼とチャオ・シィの手がそれを掬いあげる。

 カオハンは肌を粟立たせて、脂汗を流しながらも、神威に耐えた。気を練るべし、気を練るべし、呼吸を──吸い込む空気は異様な甘さを湛えていた。酔い、興じる、快楽の深くを掘り起こす甘露が、肺腑に流れ込む。それでもなお、カオハンは正気を保った。


「高いですよ──おれは。」


 見上げれば、アザッハの背後には人が列を成している。老若男女、人種を問わず、一癖も二癖もあると思しき油断ならぬ者らが膝を折り、貴人に礼を取っていた。その誰もがアザッハに心服し彼の覇道の礎となることを疑っておらぬ様子である。


「余に対価を求めたのは、そなたが初めてだぞ。」


 アザッハはからからと笑う。ははは、とカオハンは乾いた笑いを搾り出したが、殺意に満ちた視線に気付けばチャオ・シィが憤怒の形相でこちらを睨んでいた。

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