侠者カオハンの試練

 アルジャニ市街の賑わいは、月が一つめぐる間に活況の度を増していた。磯辺に潮の満ちる如く、街路には人が溢れている。だがその多くは、真っ当な堅気の民ではない。

 胡乱な目つきに手の仕草、あるいは生傷もあらわに肩で風切る武辺者──いずれにしても、謀なり暴を糧草として糊口を凌ぐ者らが、嫌でも視界に入ってくる。


 クリソピアト南部に急造されたこの都市──すでに周囲には衛星集落が乱立し始め、都市群と呼ぶべき様相を示すアルジャニには、一つの布告が掲げられていた。


「でえ、オッサンみたいな貧弱一般人にチャンスなんかねえわけよ。」


 周囲に響くほどの濁声をあげるのは、屈強な体躯の男である。陽に焼けて黒々とした肌に、汚れと脂で固まり切り、輝きを失った金髪から、男が北部出身のエセーリオであると見て取れる。

 実際のところ、このような出自の人物が巷には溢れていた。エリオロポス王宮の権勢が衰微すると同時に、北部が錆神スコーリアの支配下に置かれると、多くのエセーリオの若者は村落を捨て流民となった。特に尚武の気風に満ちて他神との境界を護ってきた北部にあっては、政変以来の推移は受け入れ難いものだった。


 さておき──アルジャニにあって示されたのは募兵の布告であった。


 何らかの武芸に親しむ北部人にとって、今まで口にしたことのない美酒とともにもたらされた布告は、渡りに舟ともいうべき吉報と映った。南部に新興する勢力に仕官しようとする多くの者が、このアルジャニには集まっている。


 それは、何もエセーリオに限ったことではない。

 今、この粗暴なエセーリオが見下ろしながら罵声を浴びせる相手。頬いっぱいの無精髭と、肩まで伸びた縮れ髪。そのどちらも土埃を纏ってくすんだ黒色となっている。痩せて人並みの背丈の男の外見は、ミーセオニーズらしい特徴を示していた。


 官憲の詰所──その前で、二人の男は問答する。問答と言ったものの、エセーリオの男が一方的に吠えたてているように、周囲の目には見えただろう。


「だからよお、その紙を俺に渡すのが筋だ。そうじゃねえか?」


 男の視線の先にあるのは、ミーセオニーズが握りしめる一枚の紙である。この紙は要するに募兵の申し込み用紙である。その紙自体はこの詰所で配られているのだが、問題となったのは、これが当座最後の一枚だったということだ。


 無論のこと、官憲に求めれば予備の用紙が出てくることは想像に難くない。アルジャニの財政は潤っている。だが無頼の徒を自認する男にとっては、目の前の痩せたミーセオニーズから奪い取る方が性に合っていた。


 しかし、いくら破れ鐘のような声を浴びせられても、ミーセオニーズは臆するでもなく泰然としている。その様子がエセーリオの自尊心を火で炙るように傷つけた。かっとなった男は、聞いてんのかと叫びながら、眼前の相手の胸倉を掴み上げた。


 埃っぽい着物の襟から、絹が破れるような音をさせながら、ミーセオニーズの矮躯が浮き上がる。

 だが次の瞬間、男の心中に強烈な違和感が閃いた。軽すぎる。掴み上げた男の眼が、目蓋を食い破るほどに見開かれる。拳から伝わる羽毛の如き軽さに男は驚愕し、過剰に込められた力は行き先を見失って頭上へと振り上げられた。

 舞い上がった砂埃よりも速く、ミーセオニーズの姿が消失する。同時に自らの振り上げた腕が伸びすぎたことに、男は激痛とともに気付く。視界から消失した黒髪の男は既に背後にあり、己の腕は肩骨から外れてだらりと背に覆いかぶさっている。

 絶叫が男の喉からほとばしると、騒ぎを聞きつけて詰所から官憲が飛び出してきた。だが、そのときには既にミーセオニーズは隠身の行を施して喧騒の最中へと紛れた後だった。


「……理力術の類かね。」


 政庁の天楼から、アザッハは市井を睥睨する。その眼は、一連の出来事を余すところなく見ていた。


「武芸──功夫かと思われます。恐らくはいずれの流派か師範級の。」


 主の独白に応えるのは、側近のチャオ・シィである。彼が面相を黒絹で覆うのは、その面構えがすでにマニターリの菌糸に犯されて、人種からかけ離れた見目へと至っているためである。

 帝国の本土にも少ない等級の使い手である、とチャオ・シィは補足する。


「そのような人物が、何故あってかアツァーリの陸塊に流れておるか……興味深いな。」


 募兵の様式を持って去ったとなれば、いずれは自らの前に現れるだろう。しかしながらアザッハの手はそれをただ待つほどに、のんびりとはしていない。

 主の背に対して拝礼を捧げると、チャオ・シィは席を辞する。意を汲んだ彼は、すぐさまに件のミーセオニーズに対して追跡を始めるのだった。



 §



 喉が渇いていた。三昼夜ぶりに、口腔に広がった潤いを、男は噛み締めるように味わっている。


「多謝。」


 宮中作法から離れた者であれば、存外に素朴な振る舞いをするのがミーセオニーズの一面である。

 男──無精髭に、波打つ髪を伸ばした見るからに流民然とした男は、名をカオハンという。泥と垢にまみれた着物からは、異臭が漂っている。


 カオハンが一口に干した酒器に、対面する商人風の青年がなみなみと清酒を注ぎ足す。


「それでカオハン殿、仕官の口をお探しだとか。」


 左様にござる、とカオハンは注がれた酒を呷りながら答えた。屋台飯店の軒先で、運ばれてきた塊肉の甘煮をつつきながら、カオハンは不思議に思う。急に運が向いてきた、と。

 酒精の香気は甘く、いまだ鼻先に抜けることなく留まっている。舌の上の肉は、噛むまでもなく繊維にほどける。実に良い。


「一攫千金の言にのぼせて渡ってきたのですが、路銀を使い果たしましてな。弱っておったのです。」


 青年はカオハンの話を、興味深げに聞いている。


「それはお困りでしょう。よろしければ私の方で幾らか用立てますが。」


 得難い申し出ではあるが、同郷の商人を信用してはならないとは、子どもでも知っている。無害に見える微笑みの裏に、どのような謀りが蠢いているか知れたものではない。

 不審の色が表情に出ていたのを察してか、青年は更に言葉を足してきた。


「いや、ではこうしましょう。しばらく私の護衛として雇われていただけますか。カオハン殿のお手並みは先ほどの一件でよくわかりましたから。」


 カオハンと青年の出会いは、屋台の脇の裏路地で、酔漢三人に絡まれて難儀していたところを助けたことによる。青年曰く商品の代金を値切ろうと、刃物を突き付けて脅されていたらしい。

 たまたま偶然、カオハンが道に迷って路地を彷徨っていると、背丈の高い男と目が合い、自分に対して刃物を向けてきたために対処しただけのことだ。


「──ですが、仕官の申し込みを済ませてしまいましたので、そう長くは。数日中には詰所に出頭して武技の審査を受けねばなりません。」


 どうにも好青年過ぎる。騒乱の気配色濃いアルジャニの雰囲気にそぐわぬ様子に、カオハンは疑いを濃くして断る口実を探ろうとする。


「いやいや、構いません。私の商いは、今日明日で終わりますから。」


 言うと青年は席を立ち、屋台の店主に声をかける。どうも顔なじみらしい。思わぬことに、店主の口からは旦那様という言葉が聞こえてくる。


「向かいの茶屋の二階を旅籠として押さえてありますから、今夜はそちらでお休みください。明朝に迎えを寄越します。なに、簡単な仕事ですよ。」


 つらつらと並べられた青年の言葉には、否応ない調子が混じっている。簡単な仕事……そんなものがあるとしたら、命を安売りするときの常套句ではないか。


「少なくとも、アルジャニにおられるうちはお迎えにあがります。」


 にこりと笑って、青年は去っていった。呆然とその後姿を見送りながら、カオハンは彼の名前すら聞いていなかったことに気付いた。串打ちされた魚類を、煮詰めタレで炙り焼く店主が、青年と似たような笑顔をこちらに向けている。


「ご店主、あの御仁の名はなんとおっしゃられるのか。」


 よくぞ聞いた、という調子で店主は串焼きの手を止めぬまま応じた。


「はい、お客様。チャオ・シィ様とおっしゃられます。」


 残った清酒を手酌しながら、カオハンは店主に根掘り葉掘りとチャオ・シィという人物について問い質した。店主はあらかじめ答えることが決められていたかのように、澱みなくカオハンの質疑に応じる。


「要するに──アルジャニの御用商人か。」


 末端の小売店がアルジャニで商売を始めようと思えば、まず初めに面通しさせられるのがチャオ・シィだという。どういう伝手か、圧倒的な卸業の人脈を握っており、彼を通さねば麦粒一つ手に入らぬらしい。

 一方で堅気の真っ当な商売をすることでも名高いらしく、納める品と銭貨には間違いが無いことから、彼が独占的な商権を握っていることに不満は起こっていない。


 実に胡散臭い……しかし、抜き差しならぬ状況に置かれてしまった。権力に近い商人となれば、粗略に扱えぬ。カオハンは成り行きに任せて、一日を過ごすつもりになった。明日になれば、事は判然とするだろう。


 用意された茶屋の二階は、旅籠というより遊郭の趣であって、専属の妓女ぎじょが、ミーセオ風の着物を着崩して部屋に控えていた。褐色の肌を持つ女の出自は判然としない。少なくともこの陸塊の人間ではなさそうだ。カオハンは宛がわれたものを断るほど清廉ではない。女を抱き潰し、注がれるままに美酒を呷って宵を過ごした。払いはチャオ・シィなるあの青年が持つのだから、毒食らわば皿までという勢いである。


 薄暗い部屋には窓が無い。物音に気付いて体を起こすと、廓の主が引き戸越しに、外に車の準備ができていると告げる。どうも飲み過ごして昼近くになっていたらしい。

 妓女は昨夜の乱れ様とは打って変わって、襟元を正した装いを既に整えていた。寝語りに名を求めたが、微笑むばかりで答えを返してはくれなかった。どうやらこの女も伴をするらしい。


 エセーリオの人足が曳く、天蓋付の人力車に、女と並んで揺られていく。ミーセオニーズの居住する区を抜け、午前の市に屋台が並ぶ市街を流して、向かうであろう先が見えてきた。新造されたアルジャニの政庁を囲む白土の土塀が、昇りゆく陽光を反射して眩しく輝いている。


 予想はしていたが、チャオ・シィとは政権に所縁の深い人物だったようだ。輪を半切りにした形状の、独特な意匠の石門をくぐれば政庁の正門に至る石畳が続いている。警邏する直属の禁軍らしき衛兵の質は高そうに見える。人種は──よくわからぬ、隣に寝そべる妓女と同様の出自か。肌も髪色もまばらな兵に、緩みは見られない。


 玄関には扉が無く、数段の階段があるだけで吹き抜けになっている。人力車は妓女とカオハンを降ろすと去っていき、妓女が先立ってカオハンを案内する。無言のままに仕草と目線で誘われる。

 廊下というよりは、壁も無く外との境界の曖昧な回廊の先には、贅沢な拵えの客間があった。勧められるままに一人掛けの布張りの椅子に深く腰掛ける。通り抜けていく風を感じれば女の姿は無く、入れ替わりに脇に置かれた小机へと、切子細工の碗が現れていた。薄い翡翠色の冷茶を頂けば、帝国の風雅な趣が感じられる。


「ナシアの茶葉も、そう悪くはないでしょう。」


 背後から、聞き覚えのある声がかかる。碗を手にしたまま振り向けば、チャオ・シィが歩み寄ってきていた。気配──武を修めた自身にも気取らせぬ歩法であったことが、カオハンを驚かせる。この青年はただの商人ではない。


「ああ、動かないで──そのまま、椅子にかけたまま、お話をいたしましょう。」


 聞き覚えのある声だ。ぼんやりと靄がかかるように、カオハンの思考は泥中へと落ちていく。


「嘘を、おつきになられたでしょう?お金にお困りなどではないのではありませんか。」


 ああ、そうだ。この感覚、師事した武僧から食らわされたことがある。これは心術だ。どこだ、どの時点でおれは操られた。否、かろうじて自身の内気功を練ることができる。


「これは驚いた。魅了チャームされてくださったのではなかったのですか。」


 カオハンの震える手から切子碗がこぼれ落ちて、大理石の床に叩きつけられた。甲高い割れ音とともに、粉々になった硝子が飛散する。己に喝を加えるように、カオハンは肺腑から長い呼吸を吐き出した。


「ああ糞、なんてこった。あの女はあんただったのか。」


 チャオ・シィの頬が崩れ、ずるりと皮がめくれると、その下からは妓女の面相が現れる。笑みを釣り上げて、チャオ・シィが自らの唇を撫でれば、赤く紅が引かれ妖艶な雰囲気が纏われる。戯れのつもりか、きつく締めた帯を緩めて、肩を色っぽく見せてくる。


「とんでもねえ妖怪変化に出会っちまったらしい。」


「何もカオハン殿を害そうなどとは申しませんよ。ただあなた、私を謀ろうとするものですから。」


 初対面の相手に云える類の事情では無い。カオハンは着物の裾を捲り上げ、脛を露に飛び跳ねる。小刻みな跳躍を繰り返して間合いを取りながら、この屋敷からの脱出について思いを巡らせる。


「寺籍から破門されてアディケイアにはおられぬ身になったのでしょう。審計庁から回状が回ってきておりましたよ。帝国の政庁、よりにもよって財務一般を扱う相手に睨まれるとは、よほど阿漕な真似をしましたね。」


「おれは知らねえ!寺門のみかじめをちょろまかしてたのは、おれじゃなくて寺主で、おれは道場を預かってただけなんだ。」


 それはそれはお困りでしょう──そう言うとチャオ・シィは一幅の木簡を投げ寄越す。床を滑り至ったそれを注意深く拾うと、カオハンは内容に驚愕した。


「な……恩赦状だと!どうなってんだ。」


 ミーセオ皇帝直々の印璽が焼かれた恩赦状──つまりはカオハンは放免ということになる。


「大声で騒ぎなさいますな。金子で『あなた様を』買っただけのこと。」


 賂で大抵のことは片付くとはいえ、皇帝の印璽を操るということは相当の相手に通じておらねばなるまい。恐らくは政庁のかなり上位に君臨する者だろう。それにしても昨日の今日で、どのように用意して見せたのか。


「ぎ……偽勅じゃねえだろうな。」


 カオハンの言にチャオ・シィは思わず吹き出してしまう。金で事足りるところを突いて蛇で足らずに鬼でも呼びだすつもりなら、それでも良いが。


「あなたには」「働いてもらわねば」


 二重に声が聞こえ、カオハンは背後から伸びた手を触れさせることなく、するりと半身となって回避する。接触を受ければより深い心術を行使される可能性が高い。後方への宙転を打って、柔らかな構えを取れば奇妙なことにチャオ・シィが二人いるではないか。


「な……」


 けらけらと笑う青年の面相は、すでに妓女のものではない。人ならざる融け落ちた青草のそれである。前後から反響し合う狂笑に、カオハンは言葉を失う。これ以上付き合うのは危険すぎる。

 低く屈んだ姿勢から、鋭く地を這いずって後方へと突撃する。止めにくれば足を刈ってそのまま転がり出る構えだったが、予想に反して道が開かれた。


 止める気も無さげな妖怪の脇をくぐり抜け、不恰好な前転を二度、そのまま入って来た回廊を全速力で駆け抜ける。


「ヤバすぎるだろ、なんだこの屋敷。」


 陽光の注ぐ、吹き抜けの玄関を走り抜け、正門ではなく土塀を目指して足を動かす。遮蔽物の無い芝生の庭には奇妙なことに一人の衛兵の姿も見えない。悩む間も無く短い階段を飛び降りて、砂利の敷かれた道へと転がり出る。


「おいおい、まじかよ。」


 青草──芝生のに走る蔓草が、急速に伸びて人型を象る。数十人の衛兵が、一様に好青年の面相を携えて立ち上がった。

 ははは、と、カオハンの口からは乾いた笑いが零れだしてくる。だが、その眼は未だに鋭く光る。


「いいじゃないか──。」


 遠く高きより届く、主の視線にチャオ・シィは満足げに頷く。この程度で諦めるようでは論外だ。狂神の神子と対峙する気概の無い者に用は無い。数十人の菌体が、カオハン目がけて殺到する。


 中天に差し掛かる陽光の下、諦念に駆られながらも構えを解かぬ男の姿を、アザッハは天楼より眺めている。


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