カン・スンシ特務刺史
秋──収穫を前にして、黄金の皿クリソピアトは静かに凪いでいた。
思えば今夏はアツァーリの地にとって激動と言わざるを得ない夏となった。隠棲神スコーリアの覚醒に始まるスコルボレア岳国の勃興。南部郷士連盟の自治権確立とそれを支援するナシア島及びミーセオ帝国の跳梁。そしてエリオロポス王宮における政変に伴う油神エライオンの権勢の衰え。
大神アツァーリの没後四〇〇年、これほどに勢力が活発に活動したことは、兄弟神の戦争以来である。
激動の夏が終わり、初秋の静けさは風雲急を告げているかのようだった。
南部郷士連盟を実質的に指導するのは、ナシア島の神王族であるクルサーン=アザッハである。その中核都市であるアルジャニの実態としてはエセーリオとミーセオニーズが半々といった比率の人口であるにもかかわらず、このナシア神族である貴人が権勢を握るのには、複数の理由がある。
一つは信奉である。神々は定命の者、か弱き人の身からの信仰心を受けて、自らへの信奉とする。そしてこれを変換することで自らの司る権能を行使する。
一般的に、定命の身でこの信奉を集めることのできる者はいない。無論のこと、英雄、勇者として王なり国母なりとして振る舞い、神格へと至ったというような例が無いわけではない。しかし、そのような者は例外中の例外だ。英雄、勇者と呼ばれる存在であっても、単一の個人に対する信仰心などはタカが知れている。
しかし、アザッハは既に一定の信奉をクリソピアト南部の者らから捧げられている。その
チャオ・シィが
そこで、改めてこの偽りの廟堂を見てみよう。全体的な設計はミーセオ様式、木造の宮大工の技術で組み上げられ、
荘厳な廟堂に燦然と輝く、『虹』の意匠を除けば、である。申し訳程度に偶像として据えられた搾油機は、捧げ物を失い久しく乾いている。その背後の壁画、三悪神の意匠は赤と黒で統一されており──『虹』の彩りをこの上なく引き立てていた。
乾いたクリソピアトの大地に、安定的に供給される井水と、空に描かれる虹は楽土の象徴となった。それは『虹』の異能を身に宿す、アザッハ個人に対する信奉へと収束していく。神君としての帝王学を授けられたアザッハに、新興の地における権勢が手繰り寄せられるのは、果樹の落果を待つに等しい自然さであった。
しかし、理由はそれだけではない。二つ目の理由──それは酒造である。醸造酒にせよ、蒸留酒にせよ、アツァーリの地には酒造りの技法が発達していない。その理由は『酩酊』の権能をゼキラワハシャが秘匿していたためだ。
ゼキラワハシャの契印には『享楽』と『酩酊』の二権能を受け入れる空白が残されているにも関わらず、忘却神はこれを未だに結ぶこと叶わずにいた。いずれにも狂の資質が要求される権能であったからだ。
アザッハに異能として発現した『享楽』と『酩酊』は、これまでアツァーリの陸塊から喪失され、失われてきたものだ。
人々は四季の移ろいのなかで、生命を永らえ、神に仕えて生きてきた。そこには確かに素朴な人としての情感は大いにあったといえよう。
しかし、度を過ごす楽しみ、節度を忘れるほどの快楽と愉悦──酒精に、戦場の血風に、あるいは傾城の色香に、酔い溺れること──それらは、この地に久しく忘れられ、失われてきたものだった。
「それで、特史殿──これはどういうことかね?」
アルジャニの再建された政庁の一角、来訪者を応接するための室においてアザッハは剣呑な声をあげた。開け放たれた窓からは燦々とした陽光が入り、気持ちの良い風が観葉植物の葉を揺らしている。
声を向ける先には、壮年の男。ナシア島のミーセオニーズ居住区においても度々引見した経験のある相手だ。
ミーセオ帝国に仕える官吏に与えられる正式な文官服を身に纏いながら、着物の下には武官さながらの体躯を隠す相手。
男の名はカン・スンシ特務刺史──ミーセオ帝国の外縁部に暗躍する監察刺史の要職に就く人物である。
アザッハは眼前の人物が並み大抵の者ではない、ということは理解していた。それというのも鑑定を仕掛ける度に、ふざけた内容が見透かされるからだ。
二十
要するに、カン・スンシ特務刺史という人物は鑑定を防ぐ防御占術の類を用いているのではなく、あえて鑑定させた上で偽装された鑑定結果をこちらに返しているのだ。『不正』の権能を司るアディケオの恩寵を深く受けた存在でなければ困難な業である。あるいは──それと互恵的な立場にある神性か。
これまでゼキラワハシャに聞かされてきたことによれば、カンという男の正体は傀儡の類であろうということだった。
「ご覧のとおりでございますよ、アザッハ殿下。」
太く練られた声音である。傀儡とは泥人形のような下等な意味合いではない。煉獄において選別された魂を素材に象られた人型。すなわちこのカン特史に宿る神性の正体とは──ミーセオ帝国を支配する正悪神アディケオに従属し、帝国を陰から守護する煉獄の神スカンダロンである。
そう、アザッハは確信を持ってカン特務刺史と正対する。そうなれば、これは単なる特史との引見ではない。実質的に帝国を差配する守護者が相手だ。しかもこれまでのような、ゼキラワハシャの神威に護られた島の内側での遣り取りとも違う。己の内に萌芽する神性の欠片を頼りに、面目を保たねばならぬ。
今、アザッハの眼の前には只ならぬ威風を放つ銅剣があった。
「アディケオの神剣──その模造でございます。」
鋭い両刃を備えた鋳造刀は、磨き抜かれた刃面を煌々と輝かせる。鍔から柄にかけて施された流麗な細工は一級の美術品としても通用するだろう。柄の先に垂れ下がる朱の組紐には、翡翠の玉が結ばれている。武具としてよりも、祭器として高い価値を持つ品──しかしその真価はアディケオの『統治』が込められた点にある。
正の気を絶えず発し続ける神剣は権威の象徴である。故に、この神剣を握る者には大いなる『統治』の恩寵が授けられ、その権威者としての正統性が認められるのだ。
「余に、帝国に対して臣下の礼を取れと申すか。」
アザッハには、この剣を握ることの意味合いが理解できていた。それはアツァーリの地におけるアザッハの支配を助けるだろう。強大なミーセオ帝国の権威を背景として得ること、そして有能な官僚機構の輸入は、ゼキラワハシャの庇護から脱しようとするアザッハにとって、見過ごし難い利である。
しかし、一度その剣を握れば、その時から『統治』の権能に絡めとられる。帝国の一部、海を隔てた陸塊に在る、一地方領の州督。或いは帝国に認可された従属国の国王──いずれにしてもアツァーリの支配を成した後に待っているのは、アディケオの臣下として正しき悪の神に仕える道である。
「よくお考えなされませ。即断せよとはサイ大師は申されておりませぬ。」
サイ大師とは、アディケオの第一使徒にして、帝国の皇帝と皇居を護る人物である。この提案には第一使徒までも介意しているということか。アザッハは息を呑む。
「余を謀るな、スカンダロン。」
アザッハは吐き出すようにして、何とか言い捨てた。カン特史の正体がスカンダロンであると、アザッハは確信していた。そして彼は帝国の第一使徒サイ大師の正体もまた同じ神であることを知っていた。ミーセオ帝国の守護神スカンダロンは、複数の分霊を現世に顕現させている。
にも関わらず、アザッハの思考の隙間には二人が別の人物であり、畏れ多くも神の写し身であるなどということは空想に過ぎないと錯覚させる欺瞞が入り込んでくるのだ。欺瞞──深い欺瞞がこのミーセオニーズを、実態の無い靄となって覆っている。
「私はカン・スンシでございます。」
それはまるで、聞き分けのない幼子をあやすような声音だった。低く太い男の声音が、そのように優し気な色合いを含むことにアザッハは戸惑いを覚える。不意に、窓際に置かれていた観葉植物の幹が鋭くしなったかと思うと、その枝がカン・スンシの首筋へと突き刺すように手を伸ばした。
「待て!」
それは会見の場に息を潜めて侍っていたチャオ・シィの手であった。チャオ・シィはカン特務刺史がアザッハに対して何らかの干渉をしたものと看破して、攻撃を加えたのである。
アザッハの制止の声が届くよりも速く、チャオ・シィの手は伸びきっていた。だが、その青々とした蔓が幾重にも巻かれて形作られた指先は、カンに届くよりも先に萎れていくではないか。超然とした様子を崩すことなく、カンは攻撃者に対して一瞥もくれず告げる。
「私に触れるならば、相応に差しだされよ。」
八割──『年貢』の権能を司るスカンダロンが民に課す苛税の割合である。今チャオ・シィの指先に込められた力の内、八割に当たる生命力が徴発されているのだ。
くぐもった呻きをあげながら、チャオ・シィは手を収める。擬態を解きながら、彼は己の萎びた腕先を反対の腕で千切り捨てた。その傷の断面からは新たな蔓が伸び揃い、見る間に腕を形成していく。
「アザッハ様に手出しすること許さぬ。」
チャオ・シィは眉を歪めながら、歯を剥いて威嚇する。それは以前の彼には考えられぬ獰猛さであった。神樹マニターリの粘菌を身に宿すことで肉体を保つチャオ・シィは、他者との統合への渇望を常に抱いていた。『合一』の権能に抗うなか、彼の精神は正狂の天秤を揺れ続けている。
「双方、それまでにせよ。」
室内に注ぐ光が、不自然に屈折した。日中であることを無視して部屋の内側は仄暗く、陽光は臣従する如くに貴人の後背へと束ねられる。正しき者には正しき色を、狂いし者には狂いし色を。色帯はアザッハの後光となって、神性の萌芽を予感させる。カン・スンシ特務刺史は身に纏う正の気を強め、己を侵されぬように護りを強めた。
「特史殿──すでにウージャン・グィの邪剣は煉獄へと捧げてある。しかしながら、今の余にアディケオの神剣は手に余るものであろう。ただ治水の君に厚情を賜るならば、所望する人物がある故、それを余の臣下として下げてもらいたい。」
ほう──と、カン・スンシは興味深げな息を吐いた。今、アザッハは定命の身にあって弱々しいながらも神威を発している。この新興著しいアルジャニの住人から捧げられる信奉のみではあるまい。アツァーリの地に、アザッハの権勢は広がりつつある。奇貨居くべし──とは、ミーセオの故事にもある。
「良いでしょう。殿下が熱心に廟堂を建立なされたことを皇帝陛下は評価されておられる。帝国は惜しみなく殿下の援助を行う用意があることをお忘れくださいますな。」
柔らかな笑みを浮かべながら、カン・スンシは去った。
後日──ミーセオ帝国において高名な酒蔵の杜氏が、アルジャニを訪れた。弟子を多く連れた高齢の杜氏をアザッハは厚遇して酒造を命じた。変成術に通じる術師でもある一団は、馴染まぬ土地の水をよく治め、透き通る美酒を生みだした。
治水の君であるアディケオは『水』の権能を司る。『水』の小権能には『醸造』が含まれている。アザッハが欲した人材とは『水』の恩寵を篤く受けた杜氏である。
己に刻まれた『酩酊』の異能を磨くべく、その助けとして作られた清酒は神酒として珍重された。『忘却』と『享楽』、『酩酊』の異能を振るわれた神酒は、人々の喉を潤し、疲れと悲しみを拭い去る。クリソピアト南部から、この神酒が北部へと流通するまでには、さほどの時を要することはなかった。
アルジャニ──その名は現世の楽土として、アツァーリの地に知られ始めていた。
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