備忘の台帳

 イランプシの急襲から一夜明けて──南部郷士連盟の名において、中核都市アルジャニの政庁において起こった火災は、エリオロポス王宮及び北部郷士連盟の手による破壊工作であるという声明が発せられた。


 市中の被害に対しては、即日に修復の普請が始まっており、臨時の政庁には新興著しい商家の貸店が供出させられていた。


「よろしかったので……。」


 チャオ・シィの輪郭は鉢植えを脱し、自立した人型を取りながら、半ばを植物、半ばを肉とした更に奇怪なものへと変化していた。

 昨日の襲撃にあっては未だ鉢植えの内にあって、身を動かすことも儘ならぬ姿であった彼の変貌には、その襲撃の当事者であるイランプシが関与する。


 アザッハの『虹』に触れたイランプシは、その威光に伏しながらも降ることを良しとはしなかった。あろうことかアザッハは、制圧したイランプシを無条件に見逃した。


「良いのだ。今はそなたの快気を祝おうではないか。」


 アザッハの『虹』に触れ、己の不完全な負の予知を補完されたイランプシは、代償に三つの捧げ物を残した。正しき善の身の上には、不意を突く行為や、恩情に対して返礼を行わぬ不道徳が耐えられぬらしい。


 その一つが、チャオ・シィに対する聖油だ。『聖別』された油は特別な癒しの力を持っている。特に、エライオンに近しい第一使徒が振る舞うそれは、土地の豊饒を助け、人の傷を回復する。一嗅ぎすれば気の触れた者が正気付く。香炉の精であるイランプシであれば、また格別だろう。

 狂に振れきったチャオ・シィの荒廃は、一夜のうちに中立を過ごして正に傾いた。元々は正しき悪の身であったとはいえ、凄まじい効能と言わざるを得ない。


「余の『虹』は未だ神性に至っておらぬ──剣を媒介として、ほんの一時に恩寵を交わしたに過ぎん。余の傍に仕える以外に、彼奴が凶報の予知から逃れる術はないのだ。」


 イランプシの全知は、調停神イリニの恩寵によるところが大きい。アツァーリの地を滅びから救った巫女の知は偉大だが、滅びの救済という一点に向かっていた。

 アザッハの『虹』は吉兆を授ける異能である。それは単体では些細な閃きを与え、恩寵に浴する者を気付かせるに過ぎない。

 しかし、この不完全なる全知と、『虹』の吉兆が合わされば、見通すことのできる未来の幅は大きく広がるだろう。滅びの閃きを宿痾として抱えるイランプシが、諦念とともに向かい合ってきた運命から逃れるためには、いずれアザッハのもとに降るしかないのだ。


 故に、今は良い──白金の御髪に健康的な日焼けをした美男子は快活に笑う。その笑みは見る者を惹きつける魅力に満ちていたが、背後に潜む意図は悪の公子に相応しいものだった。


 問題なのは、イランプシの置き去った残り二つの捧げ物である。一つは古びた帳面、もう一つは折れた剣である。


「帳面は分かる。これは『備忘』の恩寵を施された台帳だ。イランプシめ、どこからこんなものを手に入れたのやら。しかし天祐と言わざるを得まい。」


 アザッハが大父たいふと崇めるゼキラワハシャの司る『忘却』の大権能の内包する小権能は──『忘却』、『備忘』、『忘我』、『失念』、『健忘』、『忘八』である。


 この内、特別に重要な小権能──それが『備忘』だ。ゼキラワハシャは神々との約定を『健忘』によって意図せず破却する。本来であれば不可逆なそれを『備忘』の小権能は補完するのだ。

 ゼキラワハシャは奪い取った記憶、忘れ去った記憶、善徳に関わる記憶を『備忘』の台帳に記帳する。記帳された記憶を、元の持ち主が取り戻すことは無い──その台帳を読まない限りは。


 逆に言えばゼキラワハシャ自身は、一時的に忘却した記憶を後から自由に取り戻すことができるのである。故にこの忘却神は、『不正』を司るアディケオとも対等に取引ができるのだ。占術による探知を、真実忘れることによって無効化するためだ。


「余を含めて『忘却』の恩寵に浴して異能を授けられた者どもには、『備忘』に関わる知識だけが極端に薄い。大父たいふは司る権能の本質を、よくご存じであらせられる故に。しかし──果たして、この台帳の元の持ち主は何者なのか。」


 ゼキラワハシャは己の王族に過度な恩寵を吹き込みはしなかった。特に『備忘』に関しては、決して。仮にその領域に至った者があったとすれば、その者の身の上は言うに及ばず──。

 アザッハは台帳の内容に遠い過去を懐かしむ。幼い己の失敗を、愛おしく記録する──それは彼の父の筆致である。

 台帳をめくる指先に淀みは無い。感傷がアザッハの歩みを遅らせることはなかった。ただ帳面の頁をめくるたびに、神王族としてゼキラワハシャに仕える父の苦悩と、第一使徒ネザラートの視線に怯える姿が、アザッハの脳裏に流れ込んできた。


 幼き日──父は神域へと旅立ち帰ることは無かった。母もそれに殉じて神域へと降った。アザッハは稚気のままに、自らも父母のもとへ送られることを忘却神に望んだと記憶している。


 願いは叶えられず、契印の下敷きに相応しい異能の保持者として、自分は育てられた。台帳に対して厳しく欺瞞を科して懐に仕舞うと、アザッハは折れた剣に向き直る。


 それはミーセオ帝国水利庁から派遣されたウージャン・グィの末路だった。鍛冶神スコーリアの神子スタフティによって打ち直された魂は、魔剣の内側に留められたまま砕かれている。


「チャオ・シィ──帝国にグィを返還するために、廟堂の井戸を清め儀式を執る。その際に、そなたの魂を洗うことをスカンダロンに願うが、良いか。」


 チャオ・シィは下座の椅子から腰をあげて平伏する。ミーセオ宮廷に関わる事柄とあってか、少しばかり婉曲な振る舞いを見せた後、宦官は思い直して直言にアザッハの提案を拒絶した。


「畏れながら、アザッハ様──臣の魂はすでに地獄にあって磨り潰され、煉獄に価値を認める神はおらぬものとなっております。帝国の護神に対してそのような申し出は、つけ入る隙を与えるもの。臣は陛下の御心のみで万感の極みに至っておりまする。」


 許す──と、アザッハは静かに答えた。表情は波紋一つ打たぬ湖面の如くあり、清澄にチャオ・シィの言葉を受け止めていた。


 肉体の死後、魂は冥府へと至り、いずれの冥府を経ても、魂の河に洗われて永き時をかけて循環して来世を得る。より強く、欠け無き魂は上位の次元界へと再臨する可能性を持つ。魂の有り様を真に理解する者にとって、魂裂きは今世の肉体のみならず、存在の摩耗と消滅へ至る最上の危険と認識されている。

 正しき悪なる者の冥府──煉獄に座するスカンダロンは、赤の崩落を治める大君である。正しき悪に関わる死を賜った魂は、スカンダロンの支配する洗い場で清められ、魂の河を揺蕩う時を短縮される。それは未だ冥府に至らぬ魂にとっては、欠けた魂を保全する手段となる。


 チャオ・シィはその魂洗いを断った。その決断の重みは、魔道に通じず、冥府の道理を解せぬ者にとって理解しがたいものであろう。


「今世において、アザッハ様の御世を臣の眼に刻ませてくださいませ──この卑しき臣に気をかまけるなど、御身にあってはならぬことでございます。」


 忠義の士──そして肉体の死のみならず、狂悪の地獄を巡り、精神と魂の有り様を塗り替えられる試練を乗り越えた死士である。

 無論、アザッハはチャオ・シィならばそう答えるであろうと確信していた。


「では、アディケオとの交渉材料とさせてもらおう。」


 ウージャン・グィの魔剣を探査し、錆の神子の相貌を脳裏に焼き付けながら、アザッハは呟いた。


 乱を起こさねばならない。神の使徒が戦う冗長な戦では駄目だ。定命の者が血を流し、狂奔のなかで戦う乱においてこそ、真の信奉は育つ。

 神格に至る道筋は険しく──神話の時代が過ぎ去った三神紀トリニティ・エラにおいては更に縁遠い。定命の者が、短い寿命のなかで神格に至ろうと企図するならば、その世は平穏のはずがない。大神を望む民の渇望を励起せねばならぬ。


 染みの無い純白の巻紙に、アザッハは筆を走らせる。出師の辞が、若き君子の眼差しの先に引かれていく。

 秋の収穫を終えれば、乱が始まる。

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