虹の恩寵
油神エライオンの第一使徒──深紅の魔術師イランプシの威容を前にして、アザッハは未だ顔色を変えぬままに微笑んでいる。
先手を取ったのはイランプシだった。彼は裾を翻して床の油溜まりを跳ね上げると、元素術を振るって着火した。八方に無軌道に跳ねる巨大な火の玉が、室の壁に衝突する。石造りの壁を溶かして火炎弾は建屋の外へと弾け飛ぶ。
「一先ずはこの安普請を灰にしてしんぜよう、こう手狭ではお困りであろうから。」
政庁の外からは、突然の爆発に市民の悲鳴が響いてくる。
無論、壁だけではない。イランプシに対峙するアザッハに向けても、三方から火炎弾が襲い掛かった。
アザッハは細身の肉体からは想像もできぬ膂力を発揮して、大理石の卓を蹴り上げる。巨大な卓を火炎弾は溶かし潰すものの、軌道は上方に逸れて天井を揺らす。
アザッハは、その勢いのまま椅子を踏み台に背後に宙返りを打つと、壁に飾ってあった弓を手に取り着地の体勢を整える。
チャオ・シィは既に植木鉢の底から根を突き出して、主の戦いの邪魔にならぬ場所へと退避していた。そして、アザッハが弓を取るのを見るや、己の枝の一筋を鋭く尖らせ、彼の手に向けて撃ちだしした。
「善神の使徒にしては過激ではないか──民が怯えているぞ。」
飛来する棘枝に視線をやることなく、アザッハはそれを掴み取り、弓につがえて撃ちだした。剛弓の弦が、耳鳴りを誘うほどの勢いで弾かれる。
一矢必殺の弓の名手──その眼はあらゆる光を見逃すことなく撃墜してきた。
そのアザッハの矢が、あろうことか柱に突き刺さる。当惑しながらも、視界の端に捉えた深紅の衣裾を頼りに狙いをつけて第二射が放たれた。チャオ・シィは主の呼吸に合わせて第三、第四の棘矢を投げ続けるが、そのどれもがイランプシを捉えきれない。
「チャオ・シィ!」
主の覇気に満ちた声に、意図を汲んだ腹心は、一度に三つの棘矢を射出した。力を振り絞ったチャオ・シィは、部屋の隅に力なく倒れ込む。
アザッハの腕がみりみりと筋肉を盛り上げて、一際力強く脈打つ。
第五の矢を放つアザッハの陰から、更に二人のアザッハが現れる。ほんの一息にも満たぬ時の間を置いて第六、第七の矢がイランプシを狙う。
ほぼ同時──しかしながら刹那の時のずれ。イランプシが行使する
その脅威の神業を、あろうことか深紅の魔術師は回避した。
「貴公──知っていたな。」
無論、イランプシは知っている。クリソピアトの事象に対して働くイランプシの全知は、神速の矢が己の身を貫通する未来を知っている。故に可能──光よりも速い、未来の事象に対する回避。
「児戯の披露は仕舞いかね?先ほどの問いへの答えだが、私は私なりに抑えているのだ。我が内に燃える激情を、思う儘に吐き出せば、街を丸ごと消してしまう故に。」
だが──少しばかり吐き出しても良かろう。
そうイランプシは呟くと、胸元から磨き上げられた香炉を取り出した。異様な香気を漂わせる、それは香木とも香油とも思われぬ、アザッハの嗅ぎ知らぬ香りであった。
紫煙をくゆらせるイランプシに只ならぬ様子を覚えたアザッハは、弓を投げ捨てると背後の柱を蹴って、隠し戸から曲刀を引き出した。飛び出る柄を引き抜き、その勢いのままにイランプシに斬りかかる。
むっ、と声を漏らしてイランプシが咄嗟の回避を見せる。上体を逸らしての回避は十分ではなく、魔術師の外套を蹴りあげて、肩口をかすめた。魔術師は躊躇いなく
「なぜ避けなかった。」
アザッハは問いを投げかける。曲刀を床から抜き放つと、演武めいて振り回す。すでに聡明なる男の脳裏には、無数の問いと答えが閃いている。偶然か──否、全知に偶然は無い。では、奴の全知は完全ではないのだ。
覆い隠されることの無い銀色の眼光と、第三の眼の如く額に光るイリニの印章を、アザッハは興味深げに眺めている。
イリニ──調停神イリニ、今なお竜の御野にあって、終わりなき司直の選定を裁定する神。北辺よりも南、人界には
イランプシは問いへの答えには沈黙のままに、紫煙に火を灯す。燃え上がる火の蛇が蜷局を巻いて宙を漂う。のたくる火炎はアザッハを狙って直線的な動きで突撃した。
回避の側転を打ちながら、アザッハは思考を止めはしない。『調停』の一権能しか持たぬイリニの契印は、夫であるボレイオスが召し上げている。神でありながら、己の契印を取り上げられた憐れな女神──巫女は最古の神話に滅びから世界を救った。今や信仰する者のいない『調停』の権能とは、滅びに関わる権能ではないか。
回避の軌道を追って蛇が走る──そうだ、これも奇妙だ。なぜイランプシは余の回避先を予知せぬのだ。
すでに部屋の内側には火の手が燃え広がり、灼熱の海が生まれている。逃げ場が徐々に狭まるなか、崩れた壁の向こうから、爆発と火事に寄せ集まった市民の声が聞こえてくる。魔術師の衣の裾から流れる油は絶えず、政庁の建屋全体が業火に包まれていた。
時が無い。これ以上火の手が回れば、チャオ・シィの逃げ場が失われる。イランプシの周囲には、彼の身を護るように、火の蛇が鎌首をもたげて待ち構えている。
「よかろう。このアザッハ、戦いの中に遊興を見出すとしようではないか。」
仮定の検討を捨て、アザッハは決意する。『享楽』の異能を己の身に向けて振るえば、あらゆる事象は官能の極致へと至る道筋へと変わる。太母によって練り込まれた『堕落』が身を焼き、戦場の狂奔、刀剣の煌き、火炎の揺らぎが混然となってアザッハの脳髄を蕩けさせた。
不規則な、火炎の蛇の機動よりも更に読み切れぬ、意図を持たぬ側転の嵐の中で、アザッハは二振りめの曲刀を隠し戸から引き出した。己の身を焼く灼熱に、あえて飛び込んで踏み越える。熱された刀剣の刃を歯に咥え、左手を床につき軸として演舞が魅せられる。
すでにアザッハの脳裏には、イランプシを討つという意思は消えていた。跳躍を繰り返すアザッハの身に、火の蛇が絡みつく。水の元素術は僅かに煙の蛇に実像を与え、その一瞬に刀剣を旋回させて、蛇の身ごとに放りだす。床を転がり、我が身を焼かれることにも構わず、距離を詰めていく。
アザッハの面相からは微笑みは消えていた。そこには喜悦に歪む狂笑があった。
「イランプシ──全ての滅びを見る者よ!そなたに吉兆を授けようぞ!」
理解し得ぬ狂気に、イランプシは身を引く。しかしながら、彼の全知──自らの、あるいはクリソピアトの
理性を引き締めて、正しき善の使徒は火蛇を放つ。飛びかかるアザッハを呑み込むように。
交錯する人影を火蛇が捉え、使役者を護るように地に組み伏せる。だが、捉えたはずの男の姿は霧散する。その背後から更に六つの影が迫っていた。イランプシの虚をついて、魔術師の四肢をアザッハの分身が組み伏せる。曲刀を握る本体が、刃を閃かせて、イランプシの額を目がけて振りぬいた。
その瞬間も、イランプシは己の滅びを知覚し得なかった。振り下ろされる白刃を見据える目は、己の宿命に殉じることに一切の躊躇いを持つことなく、ただ次に起こる出来事を待ち構えた。
イリニの印章に、アザッハの刃が突き刺さる。銀の光輝が火炎の光よりも強く放たれた。剣閃の先端から注がれるアザッハの『虹』を、イランプシは受け入れる。『虹』は吉兆の象徴である。滅びの全知に注がれる虹の恩寵が、銀の印象を鮮やかに染めていく。
蒼天に架かる虹の円弧が人々を祝福する。万民の喜悦が、白金の御髪を持つ貴人に注がれる。遍く地に広がる恩寵が、アツァーリから喪われた享楽と酩酊を快復するのをイランプシは見た。それは大神の復活だった。この地に今も根差す、往古の神への望念を手に掴む者──絢爛たる七権を手にする虹の王者。
イランプシは刹那見た──しかしそれは彼にとって永劫ともいえる啓示であった。滅びは去っていた。繁栄を約束する吉兆を、自らの上に跨る若者は握っている。今や、イランプシの額には七色に揺らめく印章が輝いている。
「貴方は──何者なのだ。」
火に焼かれた身を、水の元素術で癒しながら、アザッハは曲刀を投げ捨てた。
「余はクルサーン=アザッハ──大神の正統なる血統にして、この大地に遍く吉兆をもたらす者。」
銀髪の魔術師の瞳から、美しき滴が零れだした。彼は欺瞞を深めようともせず、一筋、二筋と涙を流しながらアザッハの瞳を見た。
黄金に輝く、麗しき貴人の瞳に偽りの色は無い。虹に虚飾は無く、鮮やかな彩の全てが男の内側から溢れ出ていると確信させた。
エライオンの第一使徒であるイランプシは──この日を境に姿を消した。
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