アザッハの微笑み

 クリソピアト南部──その中核として新たに造成された都市、アルジャニの政庁。首長の室にクルサーン=アザッハはいた。


 その内装はミーセオ調を手本としながらも、素材は石材を用い、意匠は原形を留めぬほどに著しく歪められていた。天井や梁の形状は円弧を取り入れ、高く広げられている。静謐でありながら開放感に満ちた様式は、深い蒼を基調として、それらを大胆な陶板細工が色彩豊かに彩っていた。


 部屋の中央には重厚な大理石の円卓が敷かれ、七つの椅子が置かれている。黙々と書類に筆を走らせるのは七人のアザッハである。


「まさか余が『虹』をこのように扱う日が来るとは思わなかったぞ。」


 彼はナシアの為政者として治世に携わってきたものの、これまでは実際の行政職に十分な人材を与えられてきた。しかし、今のアザッハの状況は余人を迎え入れるに相応しいものではなかった。


 部屋の最も陽当たりの良い窓辺には、素焼きの鉢植えが置かれている。特別なこしらえの無い簡素なものであるが、そこに植えられているのは奇怪極まる容貌の植物であった。


 ナシア島原産の漂流木の苗木には、その樹皮に白い綿のような粘りの強い物質が、びっしりと生えている。針様の細い葉のどれもに、よく見れば薄い裂け目があった。その裂け目が呼吸をするように、開き、閉じる。開閉運動を繰り返しながら、葉の裂け目はそれぞれに、ひゅうひゅうと音を漏らす。


「お…それ…いります…。」


 弱々しく、言葉にならぬ音が重なって、不協和音となって奏でられた。それは未だ人の身体を取り戻せず、苗木を菌床としたチャオ・シィであった。


 スコーリアの神子であり第二使徒スタフティに敗れ、地獄に落とされた末にマニターリの菌床とされたチャオ・シィの魂は、腐敗の邪神の供物として供された。しかしその口中にあって溶け切る前に、彼の主であるアザッハによって救い出されたのであった──パラディソスの住民の魂を引き換えとして。


 本来であれば、このような些末な行政実務はチャオ・シィが受け持つ事象である。アザッハの治世を人界に反映するのが、第三使徒の役目であった。しかし狂神の神威に晒され、自我を破壊されかけたチャオ・シィの精神は荒廃しきっていた。


 今──彼がこうして自我を保っているのは、彼の主であるアザッハが正しき波動を彼に対してあてているからである。加えて言えば、それも完全ではない。アザッハ自身の属性も、狂にして悪なる冥府、地獄に降りた代償として中立にして悪へと転向していたからだ。


 二人がナシア島を離れ、アツァーリの地に出向いたのはゼキラワハシャから課された試練のためである。

 南部を切り取ったとはいえ、その統治は十全とは言えず、神の権勢の及ぶ版図とはなっていない。むしろチャオ・シィとともに暗躍したミーセオ帝国の工作員によって、南部に広く建立された寺院と井戸はアディケオとスカンダロンへの信奉を高める結果となっていた。


大父たいふは随分とお冠だ。余をパラディソスの執政官から外してアツァーリの内地に送るとは──余程、太母の残り香が気に食わなんだらしい。」


 七人のアザッハの筆を進める手が一斉に止まる。彼らは一つの意志のもとに七つの思考を並行する存在である。未だ、アザッハ自身も『虹』の異能に対して理解し得ぬ点が多々ある。魂の分割とも異なり、光を分かつ虚像とも違う。アザッハの性向、正狂善悪に分類される属性を七つに色分けした存在というのが、最も近しい。


 それらの止まった手が震えている。チャオ・シィもまた葉を震わせる。主従共に相震え、そして──控えめな笑い声があふれ出す。


「ふっ、ふふ──思いの外に、上手くいったな。」


「まこと…に…。」


 アザッハは表情を掌で隠しながら、口もとを緩める。

 彼らの目論見は達成された。彼らはゼキラワハシャの神域を離れ、己の神の耳目の及ばぬ場所に移っている。ただそれだけのために、アザッハは地獄に降りる荒行を通して、属性を変質させたのだ。


「よもや太母に直接拝謁することになるとは思わなんだがな──いずれの司直かが出て来るものとばかり思っておったよ。」


 心底震えたと、アザッハは道化じみた振る舞いを見せる。主の姿に鉢植えの宦官は胸を痛めながらも、上手くいって良かったと安堵する。

 チャオ・シィからすれば、己のために主を危険に晒したのだ。後になってアザッハが地獄へと降りた目論見を明かされたものの、自身の未熟を責めずにはおられなかった。


「そのように重く受け止めずとも良い。そなたの忠義は余の胸にしかと刻まれておる。いずれはアディケオに対して同様の工作をせねばならぬところであったのだ。より上位の御柱に対して誼を通じたことは僥倖であった。」


 民を磨り潰したとしても──と、アザッハは緩んだ口許を戒めた。


 アザッハにとって、ゼキラワハシャは仕え奉じる神であると同時に、いずれは己を喰らい傀儡とするであろうことが見え透いた相手だった。


 アザッハが生まれながらに身に宿す異能は三つ。『虹』、そして理解の及ばぬ不明の異能が二つ。ゼキラワハシャは『忘却』と『潮』の二権能を有する神であるが、その契印には更に二つの不明な空白が刻まれていることをアザッハは知っていた。


大父たいふは余を契印に組み込もうとしておられる。余が契印との契りを交わさずにあるのも、おそらくそのためであろう。」


 忘却神にとって己の契印に組み敷ききれぬ不明の二権能を、アザッハ自身も把握しきれぬまま異能として保有している。ゼキラワハシャは彼の成長を待って、契印を磨くための贄とするつもりだとアザッハは看破していた。


 だが──事態は一変した。


 アザッハは己の不明だった異能に対する理解を深めたのだ。それは太母との謁見の場において、その御手による接触が、彼の狂気を強めたためだ。

 彼が持っていた残り二つの異能は『享楽』と『酩酊』──いずれも、正しき者には扱えぬであろう異能である。


 今や、ゼキラワハシャは軽々しくアザッハを贄とすることは叶わない。なぜなら彼の貴人は、腐敗の邪神のお手付き・・・・であるからだ。下手に磨り潰して契印の下敷きにすれば、邪神の食指が自らに伸びかねない。


 アザッハの狙いは他神との誼を築き、己の価値を高めることでゼキラワハシャに使い潰されることを避けることだった。

 無論──彼自身が最も強く信奉する神はゼキラワハシャであることに変わりはない。しかし、半端に力を持った神族は神の御座に引き寄せられる。アザッハの父母も、そうして今は神域の最奥に幽閉されているのだ。


大父たいふは恐らく余にこれ以上の恩寵と異能を吹き込みはしまい。ナシア島を放逐したのも、現世に己の力量を示せという試練であろう。これよりはひさし無き荒野を歩まねばならぬ──」


 余に仕えよ──と、アザッハは七色の分身を一つの身に収めて呟く。

 チャオ・シィは静かに身を震わせて喜悦する。このような身の上にあってもなお、自らを臣下に留める貴人への敬意と忠誠が、崩れた自我の中で揺れていた。


「不快な主従遊びままごとは、それまでにしてもらおうか──」


 不意に中性的な声音が響く。室の扉を開くことなく、その男は部屋の内に立っていた。


 腰にまで垂れる銀の長髪に、深紅の外套を纏う魔術師然とした男。悪の気風が満ちる政庁を、銀髪の男が放つ香気が正しく浄化する。

 アザッハとチャオ・シィが男の侵入に気付くことができなかったことを責めることはできまい。深い欺瞞を宿した隠身には、呼気を発する気配すら感じられぬ。


 突然の侵入者に、チャオ・シィは療養の身を振り絞って、菌糸を縒り攻撃を仕掛けようとした。しかし主は悠然とそれを手で制する。

 アザッハの口許には、再び自信に満ちた微笑みが灯されている。


「ふ、ふふっ──いや、失敬。あまりに余の描いた通りに進む故に。」


 手もとをひらひらと煽りながら、彼は笑みを濃くしていく。


「戯言を。この黄金の皿に貴様の如き悪神の手先が蔓延る余地などありはせぬ。」


 アザッハの挑発に乗ることなく、魔術師は言葉を返す。


「エライオンの第一使徒──イランプシ殿であろう。今日は如何なる用向きで参られたのか。」


 誰何するまでもなく、アザッハは魔術師の正体を看破する。深い欺瞞に閉ざされた外見から判断したわけではない。ただ今、この政庁の首長の室にまで騒ぎを起こすことなく侵入できる手管の実力者は限られるというだけのことだ。


 イランプシの足下に円周状の火輪が走る。色鮮やかな毛織の絨毯が、煙をあげる暇もなく、その周に沿って蒸発した。威圧的な態度を強めながら、イランプシは言い放つ。


「滅びの元凶を屠りに来た──調停神イリニにかけて、クリソピアトを乱すことは許さぬ。」


 使徒は傲然と言葉を発し、次の瞬間には深紅の衣の裾から高熱の液体が溢れだす。沸騰した油が大理石の床を舐めて八方に広がって行く。

 欺瞞を解いたイランプシの額には、銀の刻印が燦然と輝いている。射抜くような視線が、殺意を滾らせて敵を睨む。


 飴細工のように溶け落ちていく部屋を、アザッハは『潮』の恩寵に支えられた水の元素術で押し留めながら、笑みを崩さない。


「よかろう──凶報の使者よ。貴公はこのアザッハに課される試練に相応しい。」


 濛々と立ち込める蒸気の中、アザッハは未だ、微笑んだままである。


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