第一節 虹の王者クルサーン=アザッハ

忘却神との会談


 往時、ナシアの都パラディソスの人口は約一万人あった。この半数にあたる人間が、一昼夜にして失踪したのである。本来であれば都は混乱の坩堝と化すはずだった。

 しかし、一夜明けたパラディソスの様子は平穏無事そのものである。人々は朝日とともに目覚め、それぞれの家族と朝食をともにして、生業とする職場へと出向いていく。


 穏やかな南国の一日が滞りなく始まる。誰も何も疑問に思う者はいない。都の大路を行き交う人々の中に、この場で昨日起こった殺戮を記憶する者はいない──その場に居合わせた者は一人残らず腐敗の邪神の供物とされてしまったのだから。

 そして、それだけではない。幸か不幸か、その場には不在だった者の中には、家族を喪った者も多かった。にも関わらず、彼らは自らの住まいに眠り、見慣れた家族の温もりを確かめ、家を出た。

 勿論──石畳には惨劇の残り香がかすかに香っている。そのような何らかの痕跡に気付いた者もあったが、彼らはそれを記憶することなく日常の生活へと戻っていった。


 この奇妙な事態こそが、ナシア島の本質──忘却神ゼキラワハシャの虜となるということであった。


「それにしてもよ──穴埋めにミーセオから三千人も購入するのは高うついたぞい。」


 ここはナシア島に数多くある入り江の一つから繋がる鍾乳洞である。干満の差によっては入り口すら閉ざされるこの洞穴こそ、ゼキラワハシャの神域である。

 壁には白く輝く多面の結晶が広がり、天井からは照明然とした超自然の光の帯が垂れていた。


 声の主は豊満な肉体を玉座に預け寛いでいる。熊と鯨を足して割ったような奇矯な肉体に、ちょんとした手と太い尾鰭が飛び出している。その体表を覆うのは艶のある毛皮であり、濡れたように光を帯びて、背筋には甲羅か骨かと思われる突起がびっしりと生えそろっている。


 彼──この奇妙な肢体の生物は明確に雄の性別を持っていた。その証として、彼の足下には数人の娘らが扇情的な薄絹一枚を身に纏い侍っている。ミーセオニーズと思しき娘らは手足を胴体に縛られており、地虫か蛇のように肢体をうねらせる。彼女らはただ舌だけで、この雄の表皮を舐めあげて毛繕いの奉仕を行っていた。苦痛めいた表情はなく、恍惚と奉仕するのは、彼女らがすでに人であったことを忘れているためである。


 この神域に主として座する存在とは、忘却神ゼキラワハシャに他ならない。現世に顕現する器としての分霊は力強くあるものの、この神の強大さを十全に顕してはいない。


 忘却の海獣と渾名されるゼキラワハシャの由緒──即ち起源は往古より大海を渡る暴食の獣であった。ただ本能に促されるまま、ひたすらに食いに食い、幼体の頃より身を肥大化させ続ける化生であった。ただそのままであれば、いずれこの海獣は満足し、昇神にまでは至らなかったであろう。


 ゼキラワハシャは──忘れていたのだ。己が何をどれほど喰らい、どれだけの時を彷徨って、己の腹に何を容れたのか。ただ忘れていた。

 はてと気づいたときには腹に契印を宿していた。小島を喰らったときにか、深海の水を干したときにか、いずれの小柱をか、王族丸ごとに喰らったらしい。


 腹の中で溶かされる定めにある神族から、契印との結びを放棄させて取り上げると、ゼキラワハシャはその海にまつわる小神の神族の内、最も見目の良い娘を犯し、己の腹の中で子を孕ませた。

 こうして力ある巨大な悪獣は、海神としての血筋を乗っ取り、己の肥大化の根源となった『忘却』を契印に練り混ぜて昇神したのである。


「いかほどにか、あの守銭奴の井戸に投げ込んだことか。」


 声音に銭貨を惜しむ色は無い。ナシア島には潮流に運ばれてゼキラワハシャの求める様々な物品が流れ着く。難破した廻船の積み荷、流刑となった罪人、あるいは亡国を追われた貴人の類──これらの曰くを洗い、由緒を忘却させて外に向けて送り返すだけで法外な利潤が流れ込んでくる。そもそもが、この怪物は己の所有する銭貨のタカなど、覚える先から忘れていくのだ。


 分霊はふるふると心地良さげに身を震わせる。侍る娘らから、記憶を取り上げては頭から浴びるようにして楽しんでいるのだ。多くは罪人──しかも、流刑になるほどの重罪を犯した者らである。これらをスカンダロンの統べる煉獄に落とすまでの猶予、即ち罪人らを冥府に迎えるまでの寿命をゼキラワハシャは買い取っている。


 故に──今、分霊の前に控える若き王族の行為の代償は、いささか高くついた。


かわずが利にならんと見捨てた者を、が安く買い叩く。現世で搾ってから井戸に落とせば悪徳の正道が益々栄えるというものよ。それを御身にあっては太母に供したというではないか──これはいかぬ、いかぬぞよ。」


 面を上げぬままに、膝を折るアザッハを、分霊は玉座から見下ろしている。叱責しながらもゼキラワハシャは何処か愉快げな調子である。


「とはいえ、銭子でアディケオの面目を潰せるなら安い物よな──おっと、潰せる鼻が落ちとるのを忘れておったわ。」


 がらがらと分霊が笑うたびに、足元に控える女らが身を捩る。その内の一人が奉仕の舌を止めて、むき出しの岩肌に倒れ込んだ。神威に耐えきれなかったようにも見えたが、そうではない。


 ゼキラワハシャの背から苔生した殻が、むにゃりと転げ落ちると、ごろごろと転がって娘の下半身に覆いかぶさった。殻は貝のようでもあり、鍾乳洞に生えた巌のようでもある。その殻の内側から、舌めいた貝の足が伸びて娘をずるずると内側に引き込んでいくではないか。そのまま女を呑んだ貝は転がって入り江の外へ向かって去っていく。


 ただただ、記憶を吸い出され続け、人であることを忘れ、蛇とも蚯蚓ともつかぬ姿を脳裏に描いて、最後に女は貝になった。ただそれだけのことである。まだ女の命は尽きてはいない。ナシアの海岸線には、同様の巨大な巻貝が殻頂を塚のように晒して並び立っている。それらはゼキラワハシャの第一使徒ネザラートの仕業である。


 海獣の背に並ぶ、棘とも甲羅ともいえぬ殻は、全てネザラートの住処である。忘却神が未だ定命の獣に過ぎなかった頃より、その背に生えて毛皮を舐めそろえてきた化生こそが、この第一使徒である。物言わずとも、沈黙の内にゼキラワハシャを崇拝する第一使徒を、アザッハは最も警戒していた。

 悪徳の正道と嘯きながら、神々との約定を健忘して横紙破りを続けてきたゼキラワハシャには、まだ遊興やら情徳の通じる余地がある。しかしてネザラートはただ本能の命ずるままに、海獣神に仇為す者を屠るという恐ろしさがある──それは自らの王族であっても、例外ではないのだ。


 事実として、アザッハの父──ゼキラワハシャは己を父と崇めさせたが──人種としての血の繋がる父は『忘却』の恩寵を強く吹き込まれ過ぎた結果として人格を破綻させ、今や巻貝の塚の一個に過ぎぬ。彼は契印との結びが失われておらぬために、厳重に神域の最奥に安置されている。人であることを忘れた王族の塚群があることを、アザッハは知っていた。


 しかし他の王族とアザッハの間には、決定的な違いがあった。

 何の因果か、ナシアの王統にあった父と、アツァーリの地から漂着した母との間に生まれたアザッハには、古今稀に見る特異な異能が与えられていた。光を七つに分かつ異能──『虹』の異能である。


 それを神に見出されて今や王族の第一位として確固たる地位を得て振る舞ってはいるものの、この島においてアザッハの信頼し得る人物は数少ない──否、真の意味で彼の味方と呼べる人物はただ一人しかいまい。


「して、がそれほどに執着した第三使徒の加減はどうかの──太母の飯滓を使徒のままに置くか否か、はいかにすべきか。」


 鼻先をひくつかせ、針のようにするどい髭を上下させながら、ゼキラワハシャが口角を緩ませる。対するアザッハは顔をあげぬままに、恐れながら、と奏上の許しを乞うた。海獣は鷹揚に許しを与える。


「此度のことは我が身の不徳と致すところ──されど、チャオ・シィは大神の南地を切り取る功を成しておりますれば、大父たいふの名において今一度機会をお与えくだされば。」


「よかろう。宦官は引き続いてに預ける──しかし、彼の狂神の神子に誘い出され、惨めにも膝を屈したこと、努々ゆめゆめ忘れるなかれ。も二度は井戸に死に銭を投げ込みとうはない。」


 座を辞する拝礼を示して、アザッハの姿が掻き消える。『虹』の異能はアザッハに七つの似姿を与え、必要とあれば分体として活動する。彼の本体は、地上の浜にあることだろう。

 王族の辞した後の玉座の洞穴に、ゼキラワハシャの呼吸音が響く。午睡を貪る分霊の背から、第一使徒ネザラートの殻が転がり落ちて、未だに海獣の足下に奉仕していた娘らを運び出す。主の微睡みの妨げになると判断された彼女らは、この巻貝の化生によって排除されたのだ。


 ナシアの昼下がりは、かくて過ぎる。目覚めた海獣は会談のあったことなど、覚えてはいまい。

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