第二章 継承戦争
プロローグ
アツァーリの陸塊から南西に、絶海の孤島と呼べる島がある。忘れられた島、忘却の海獣ゼキラワハシャによって統べられるナシア島である。
ゼキラワハシャの司る権能──『忘却』と『潮』に護られたこの島に辿り着く者はいない。仮に辿り着いたとしても、己が何者なのかを忘れ、ナシアの住民として新たな暮らしを得るだけである。
そのナシアには二つの街がある。一つは出島に築かれたミーセオニーズ居住区である。そしてもう一つがナシアの都、パラディソスだ。
それは丁度太陽が中天に差し掛かり、住人らが昼食を取る時間帯だった。ミーセオ様式を入れながらも、南国らしい極彩色に彩られた街を背景に、多くの飲食店や屋台が軒を連ねる大路である。
ナシアはアツァーリの海運を独占し、対外貿易から得る利益によって潤っている。流通する通貨は精選されたミーセオ銭貨だ。
他の陸塊から運ばれる山海の珍味が市場には並ぶ。ナシアから輸出される主産品は塩である。『潮』を司るゼキラワハシャの信徒にとって、海水から塩を生成することは特段不思議なことではない。しかし尋常な生命にとっては塩は水と等しく欠かせぬ物品であり、内陸地に運べば高価で取引をされる。
多くの住民が商店に出入りし、客引きの声が止まぬ大路に、男は現れた。全身を肌に吸いつくような黒の革衣で覆い、頭頂から面相まで布地で隠す異様な出で立ちである。通る者らは皆、彼の周囲を避けていく。
男は通りを進み、噴水の置かれた広場に至ると、ゼキラワハシャの偶像を模した噴水の頂点に跳び乗った。海獣の口からは水が噴きあがり続けている。その飛沫と、大路にたむろした人々の好奇の視線を浴びながら、男は頭の覆いを自ら剥いだ。
黒布が風に舞って飛び去れば、現れたのは白金の光輝である。陽光に照らされた男の御髪は、等しい重さの金塊よりも価値あるように思われた。それほどに美しく隠せぬ高貴さが現れているのである。
程よく刈られた短髪に、整い切った相貌がある。彫刻を思わせる完全な美は、普段であれば穏やかな笑顔に満ちて見る者の心を掴むところであったが、今日はいつにないことに表情が曇っている。
人々はこの貴人の思いがけぬ登場に歓声を上げた。彼はナシアの王族であり、偉大なる為政者であり、人々に寄り添う若き英雄であったからだ。しかし男を称賛する声を浴びても、その表情は暗いままである。
男は意を決したように、衆目の視線と対峙して言葉を発した。
「余の慈しむべき臣民よ。日頃の忠勤、殊に大義である。」
この時点で若い娘らは卒倒し、すでに一線を退いた老人らは滂沱の涙を流している。敬愛する王族が直接に労いの言葉を手向けるなど、例に無いことだからだ。
「今日、ナシアの繁栄の礎となった諸君よ。このアザッハは諸君を誇りに思う。」
沸き止まぬ歓声が大路を包む。人々の声が熱を帯び、熱狂の高まりが坩堝となった。それを貴人が手で制すると、人々は彼の次の言葉を待つように、神妙に静まり返った。
「故に──君たちを地獄の供物にせねばならぬことは、慚愧の念に堪えぬ。」
誰もが理解の外に追い出され、言葉を失っていた。狂奔の先にあった沈黙に耐えきれず──一人の少年が言葉を発した。震える声音が、無風の大路に響いた。
「僕達は、地獄へ落ちるんですか。」
そうだ──と、アザッハは首肯した。降り注ぐ陽光が、男の身体を照らしていた。その姿が微かに揺れると、光が七色に分かれ、男の姿も霧散した。
問いを発した少年の胸に、アザッハの貫手が貫通し、小さな心の臓腑を握っている。嬌声をあげていた女にも、涙を流す老人にも、同様のことが起きていた。沈黙の中で七人のアザッハが、七つの命を握りつぶした。
「余が直接に送る。地獄への伴連れもする。許せ。」
黒革の衣が七色にぬらぬらと輝きながら、瞬く間に市中を走る。人々は誰も動こうともせぬまま、噴水の飛沫を眺めていた。噴き上がる水の後背に、極彩色の円弧が描かれる。呆けたように目を離さぬ人々の、心の臓腑をアザッハは抉り続けた。誰しもが倒れることもなく、胸に穴を開けられ、目を見開いたままに絶命していた。
己の死を気付かぬままに絶命した魂が、アザッハの手に集まっていく。血濡れの衣を打ち捨て、裸身となったアザッハは短距離転移を繰り返して浜辺に敷いた陣へと辿り着き、胡坐を組んで瞑想する。
「狂にして悪なる冥府にあられる──偉大なる腐敗の邪神よ。余の狂気を照覧なされたか。これより供物を御許にお送りする。正悪の我が身なれど、臣民の魂の先導を許したまえ。」
口中に口ずさむのは、腐敗の邪神に対する祈りの言葉である。アザッハの周囲には数え切れぬほど──数千の魂が燐光を放って纏わりついている。
昼下がりの浜は、常夏の楽園とは思われぬ冷気が走っている。波が激しく打ち寄せ、潮が異様な満ち方を見せる。波がアザッハの脚を濡らすところまで寄せるころになれば、敷かれた陣が輝き出す。
「地獄よ、地獄よ。その門を開け。余は大神の血を引く者──太母に拝謁するに如くない血筋と自負する者ぞ。潮よ、潮よ、我が道となりて渦巻くべし──不正の神よ、今一時我が正気を覆い隠したまえ。虹よ、虹よ!その絢爛たる七色は我が内にありてこそ輝くもの──その輝きを知る友を照らすべし!」
アザッハの諸肌にぷつぷつと汗が浮き出ている。民の魂が彼の周囲を浮遊する速度が徐々に増す。波が寄せ、どぷりと浜を呑み込んだ。アザッハは意識を手離すことなく魂の河へと手を伸ばす。深く深く海よりも深き所へと降りていく。深淵なる地獄の海、その奥深き場所に邪神はある。
正しき者を拒む冥府の圧力が、アザッハの精神を押し潰す。男は自らの魂の内にある正しき善の色をその場に捨てた。より深く、より近き場所に供物を届けるために。
「我が友よ──忠実なる士、チャオ・シィよ。我が呼びかけに応じよ!」
だが、答えは帰らぬままに、アザッハは手探りめいて地獄の深海を潜っていく。
どれほどの時が流れたのか──正しき色を薄めながら潜り続ける。邪神の、あるいはその司直の治める離宮めいた建物が遠目に見える。ここが限界だろうか。
そのとき、アザッハの背を異様な怖気が撫ぜた。それは手のようでもあり、舌のようでもあった。それだけで彼の本質の一部が書き換えられた。彼が持つ三つの異能の内──未だに扱えぬ異能に対して何者かが干渉した。
これが──腐敗の邪神か。確信は無い。しかし、即座にアザッハは連れ立ってきた魂を解放した。己の死に気付かぬままに地獄へと送られた魂は、ふわふわと深海を浮遊する蛍のようであった。
「腐敗の邪神よ、大いなる太母よ──御目通り叶い恐悦至極に存ずる。これより我が臣民を貴方様に捧げましょう。」
仄かに輝く燐光がくるくると円弧を描く。アザッハは──このためだけに地獄の深きに降りてきた。死に気付かぬ魂を、太母の面前で改めて死なせるために。
数千の臣民の名と顔立ちを、アザッハは記憶している。ゼキラワハシャの備忘の台帳には、記憶を磨り潰されたナシアの住民が余すところなく記載されている。為政者たるアザッハが、彼らについて忘れ得ぬことは当然であった。
一つ一つの光に向けて、その死の様を語りながら、磨り潰された心臓を鏡の皿に供していく。地獄の深淵に改めて死を賜る臣民の表情は様々である。しかしアザッハは彼らに死を語り、太母の皿に捧げられることに同意させた。
「捧げよ──然らば、与えられん。」
聖句を口にして跪く。アザッハは奏上の内容をつまびらかにせぬままに、ただ伏して慈悲を乞う態度を示した。偉大なる邪神にあって、こちらの求めるものは既に知られているに違いないからだ。
しかし、丁寧に整えられた供物──それはアザッハの隠しきれぬ正の本質だったのだろう。知覚しきれぬ触手が皿を舐め、乱暴に魂をすくい上げた。気に入らぬ、とでもいうように。悲鳴の一つも上げぬ魂は一呑みに喰らい尽された。
満足なれど、趣味には合わぬ、というところだろうか。
再び、先ほどよりも乱暴にアザッハの魂を触手が撫ぜた。魂を丸ごと削られるほどの神威に──彼はついに意識を薄れさせた。異能がさらに歪められ、はっきりと邪神の好みが刻まれた。
同時に、虚空めいた場所から吐き出された影があった。アザッハは朦朧として倒れ込む寸前に、地獄の深海をもがき手を伸ばした。
「潮流よ──我と友を現世へと流せ──。」
魂の河の流れに逆らって、アザッハは上昇していく。その手には宦官の頭部が握られている。離すまいと力強く握り、胸の内に抱えながら、男はついに限界に達し──意識を失った。
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