エピローグ

エピローグ


 燃え盛る火の手は、見慣れた聖火ではなかった。壁を守るはずの黄金の火は絶え、油に濡れて輝くはずの石畳は乾ききっている。風だけが不快な湿り気を帯びていた。城壁は見る間に白く、菓子細工の如くに崩れ去る。


 見知らぬ軍勢が、塩と化した壁を突き崩し、王宮の内側へと雪崩れ込んでいく。煌びやかな具足で身を飾った兵士らの兜には、七色の飾り紐がたなびいている。先手が瓦礫となった壁を乗り越えて城門を内側から開き、彼らの主を導き入れる。

 黄金よりも貴い、眩く輝く白金の御髪を晒し、その男は悠然と歩み来たる。城内に放たれた火の手は盛んに燃え上がり、夜空を朱く焦がしている。

 しかし貴人が歩む道の後ろには、赤く燃える炎は一つとしてなかった。全ての光は男の前にひれ伏した。七つに分かたれた光が、貴人の後背に円弧となってそびえている。その挙措の悉くが万民を陶酔させ、付き従う者には享楽の極みが約束された。


 イランプシは目を逸らす。


 北辺の山脈が雪崩れとなって、黄金の平野を侵凌する。錆神は無限に増殖する器を得て遍く大地を朱に染める。氾濫した河に触れた者は腐食し、それを呑み込んで更に錆神は巨大化する。地の一切を朱く染め、触れる命を狂悪の冥府へと引きずり込む。

 今や、平野に生きる者で尋常な人種は一人としていない。焼け爛れた皮膚を抱え、茫々たる荒野を彷徨う民の群れは、よく見れば手枷で結ばれて数珠に繋がれている。彼らが向かうのは東の池沼、約束された埋葬の地へと己の脚で歩まされる。その運命は蝗の餌だ。


 イランプシは目を逸らす。


 カルエの街が消滅した。戦略級地精が一歩を歩むたびに、地が震え建物が崩される。市の中央からは無毛の猿人が無数に湧き出てくる。彼らの手には禍々しく煌く神剣が握られる。出会う市民は悉く切り伏せられ、猿人はその血を搾り飲み干し狂奔する。


 教会の鐘塔が崩れ落ち、屋根に巨大な穴を空けて鉄竜が飛び出した。宙空に翼を広げて威容を示す竜が、その舌を震わせて言語を発すると、市中の人々は木偶の如く動きを止めた。惨劇は勢いを増し、猿人は市街を跋扈して殺戮の限りを尽くした。


 狂なる神子は唇を噛みしめながらも、一際巨大な地精の肩に乗って督戦する。市の一切を灰燼に帰せ、我が神を崇めぬ不信者は悔い改めよ──神子の声音を聞く者は、脳髄にやすりをかけられたように卒倒する。意識を手離せなかった者は、不幸であった。竜の舌に命じられるままに、自死を選ばざるを得なかったからだ。


 イランプシは目を逸らす。


 その日、一つの陸塊が終焉に至った。天を漆黒の雲が覆い、太陽は姿を消した。垂れ込める雲は雷鳴を轟かせ、地に雨を降らせた。その滴に触れた者は本性を失い、下等な蜥蜴へと変質した。

 雲の隙間には、半透明の星辰体アストラルが見え隠れする。あまりにも長大にして巨大な姿を、竜神の器であると見抜けた者は数少なかった。憤怒に震える天からは、無数の眷属が流星群のように降り注ぐ。

 次元竜プラナードラゴンボレイオスの残忍と強欲を鎮めてきた巫女が、身罷ったのだ。現世にしてこの世ならざる人種未踏の竜の御野より、互いに競い争うことで治められてきた竜の眷属が世に放たれた。


 そして──一房の菌株が、宙を舞い、『竜』の権能を侵した。


 イランプシは目を逸らす。


 無限永劫に続く滅びの予兆が、エライオンの第一使徒──イランプシの脳裏に閃いている。彼の目には常に滅びが映っていた。

 銀髪の魔術師の額には、円の印が刻まれている。調停者イリニの聖痕である。


 イランプシの正体は、香炉である。この世界の上層次元に位置する世界から降り来た、災厄竜ボレイオスの宝物庫に収蔵されていた意思ある香炉だ。

 古紀ロストエラよりも古く──この世界の消滅の危機を救った勇者と巫女がいた。勇者アツァーリと、調停の異能者イリニである。災厄竜ボレイオスのもとへと人柱となったイリニに、竜は多くの宝物を贈った。その一つがイランプシだった。


 今や──永き時の流れのなかで、神話の神話は消え去った。勇者は神となったものの契印を失い、その姿を消した。巫女はボレイオスから力を授けられ神となり、今もなお竜の御野において永劫の戦を裁定している。


 そしてイランプシは、巫女の愛した大地を守っている。『調停』の恩寵を吹き込まれた存在として、この大地に訪れる無数の滅びを予見しながら、それらを避けようと苦悩する。


 だが、それももう終わりだ。あまりにも多くの滅びが重なりすぎた。全知の瞳には、滅び以外の未来が残されていなかった。イランプシは目を逸らす。しかし、もはや逸らす先が無い。


 あとは──どのように滅ぶかを、選ばなければならない。


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