さよならプリテンダー

僕は今、今すぐにでも消えてしまいたい気持ちをなんとか抑えながら、杏さんと向かい合っている。


ドキドキともビクビクとも取れない変な緊張感に押し潰されそうだ。




あの後、僕とばあちゃんは、有澤社長と杏さんと共にリムジンで有澤邸に連れて来られた。


車内でも僕は顔を上げる事もできず、杏さんになんと言えば良いのかをただひたすら考え続けた。


だけど結局、その答は出なかった。



有澤邸に着いてまずは、応接間の大きなソファーに座って、熱い紅茶をいただいた。


おそらくものすごく高級な茶葉を使って淹れた紅茶なんだとは思うけど、僕は緊張のあまり味がよくわからなかった。


お茶をいただきながら、ばあちゃんは久しぶりに会う杏さんのお祖母様とお母さんと一緒に、おしゃべりに花を咲かせていた。


すると杏さんが、僕のシャツの袖をツイッと引っ張った。


「ちょっと…いいか?」


杏さんはそう言って、僕を自分の部屋へと案内した。


杏さんは今、この部屋で生活しているんだ。


どことなく雰囲気が、ほんのしばらく一緒に暮らしたあの部屋に似ている。



ソファーに向かい合って座り、メイドさんが運んで来たコーヒーを二人とも黙って飲んだ。


何から話せばいいのか。


僕はどうしたいのか。


杏さんはなんと言うのか。


とりとめもない考えが頭の中をグルグル駆け巡った。


カップをソーサーの上に静かに置いて、杏さんがゆっくり顔を上げた。




そして、今に至る。




「久しぶりだな…。」


「そうですね…。」


やっと会話をしたと思ったら、またしばらくの沈黙。


「元気だったか?」


「あまり元気ではないです。」


ぎこちなくはあるけれど、なんとか会話しようとしてくれてるのかな?


杏さんはまだ少し気まずそうに目をそらしている。


「元気じゃなかったのか?」


「寂しかったです。」


杏さんはまたうつむいて黙り込んでしまった。


照れてるんだ。


そういう顔、やっぱりかわいい。


「杏さん、痩せたでしょう?ちゃんと御飯食べてますか?」


「いや…やっぱり食べるのもあまり好きではないし…人と一緒に食事をするのは苦手だ。」


有澤家に戻ってから、あまりちゃんとした食事ができていないのかな?


僕と暮らしている時は、いつだって残さず美味しそうに食べてくれたのに。


「僕と一緒に暮らしてた時はちゃんと残さず食べてくれましたよね?」


「鴫野の料理は不思議と食べられたんだ。どれも美味しかったし…鴫野となら、一緒に食べるのも苦にならなかった。」


僕だけは特別だと言ってもらったような気がして、嬉しくて胸がいっぱいになる。


「そう言ってもらえると嬉しいです。ついこの間まで向かい合って食事してたのに、なんだかもうずっと前の事みたいですね。」


「そうだな…。」



杏さんはまた黙り込んだ。


本当は聞きたい事があるのに聞きづらいって顔をしている。


やっぱりさっきの事、気になってるんだ。


僕がまたお祖父様に嘘をついたと思ってるのかな?


今を逃したら、もう言えないかも知れない。


そうだ。


ちゃんと僕の口から伝えなきゃ。



僕が思いきって気持ちを伝えようとした時。


「…さっきお祖父様の言った事なんだが…。」


杏さんが先に口を開いた。


もう迷ってる場合じゃない。


ちゃんと言おう。


「……ホントですよ。」


「鴫野はあの子が好きで、二人は付き合ってるんじゃなかったのか?」


「付き合ってません。」


「そんなはずはないだろう…私は彼女からそう聞いた。」


杏さんは渡部さんが言った事をまだ信じているようだ。


「好きだから付き合って欲しいとは言われたけど断りました。」


渡部さんの言葉じゃなくて、今、目の前にいる僕の言葉を信じて欲しい。



もう嘘をつくのはやめる。


都合よく自分の汚さを隠したりしない。


きっときれいごとだけじゃ済まないけれど、杏さんには本当の僕を好きになって欲しい。



偽物の僕とはさよならだ。



「いつも彼女と一緒にいたじゃないか。」


「いましたね。会社帰りに待ち伏せされたり、強引に昼休みの約束をさせられて。」


「私が外で会うなと言ったから…人に見られるとまずいような事を、会社で人目を忍んでしていたんだろう?」


「…しましたよ、好きでもないのに。杏さんとの関係を下手に勘ぐられるのが面倒で、黙らせるために彼女の望むようにしてただけです。」


本音をぶっちゃけすぎたのか、杏さんはかなり戸惑っている。


「一度は断ったのに気を持たせるような事したのは確かです。でも好きじゃない人とそんな事するのが苦痛になってきて…そういう関係を終わらせたんです。」


「そ…そうか…。」


ほんの少し、杏さんの口元がゆるんだ。



杏さん、今少しホッとした?


僕が渡部さんを好きじゃないとか付き合ってないってわかって、良かったって思ってる?


「僕はホントは、杏さんに僕の作った弁当を食べてもらいたかったし、一緒に食べたかったんです。」


「そうか…余計な気遣いだったな…。」


「もしかして杏さんは、僕が渡部さんと付き合ってると思ったから、昼休みは別々に過ごそうとか弁当は要らないとか言って、僕と距離を取ろうとしたんですか?」


「…それもある。」


「他に何があるんです?」


「…言わない。」


言わないってなんだ?


言えないような事なのか?


絶対に言わせてやる。


「僕には言わせておいて杏さんは言わないなんて、ずるいです。」


僕はソファーから立ち上がって、杏さんの隣に距離を詰めて座った。


「僕も本当の事を全部話します。だから杏さんも、ちゃんと話してください。」


杏さんは少し困った顔をして、ゆっくりと口を開いた。


「…本当は鴫野に迷惑だと思われてると思ったから。」


「迷惑?」


「彼女がいるのに上司の婚約者のふりなんてムチャを押し付けられて、迷惑だっただろう?」


うつむきながらためらいがちにそう言って、杏さんは膝の上で手を握りしめた。


「彼女ではないですけどね。正直、最初は有り得ないって思ってましたよ。」


「やっぱり…。」


「同性の上司とだって一緒に住むなんて普通じゃないのに、杏さんは女性だし。その上婚約者のふりって言ってもそれらしい事は何もさせてくれないし。」


杏さんはうつむいたまま肩を落とした。


「いつかはまた元の上司と部下に戻るのに、鴫野と一緒にいるのが当たり前になるのが怖かったんだ。婚約者のふりをする必要がなくなったら、私には見向きもしないだろう…?」


杏さんも僕と同じ事考えてたんだ。


それって僕と離れて急に一人になっても寂しくならないように、予防線を張ってたって事だよね?


「最初はなりゆきで仕方なく一緒に暮らしてたけど、僕はいつのまにか、杏さんが笑ってくれると嬉しいって思うようになったんです。」


杏さんは顔を上げて少し首をかしげた。


「僕は、僕の作った料理を食べてる杏さんの顔を見るのが好きです。」


「えっ?!」


杏さんは急にオロオロし始めた。


慌ててる杏さん、かわいい。


これって脈アリって解釈していいのか?


杏さんは激しく慌てふためいて、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。


そしてカップをソーサーの上に置いて、視線をさまよわせている。


いつもは強気なくせに、こんな話をするのに慣れてないから、かなりパニクってるな。


もっと言ってみようか。


「杏さんは僕の事、どう思ってるんですか?」


「えっ?!」


「市来さんとの縁談が破談になったから、杏さんにとって僕はもう用済みですか?」


「いや…その…。」


かわいいけど、まどろっこしいな。


好きなら好きって言ってよ、杏さん。


言ってくれたら、ふりじゃなくて、この先ずっと優しくするから。



「杏さん、僕の事、好きでしょ?」


「う…。」


杏さんは顔を真っ赤にしてうつむいた。


…やっぱりかわいい。


そんな顔されたら、もう無理やりにでも好きだって言わせたい。


僕は杏さんの肩をそっと抱き寄せた。


杏さんは顔を真っ赤にして身を固くしている。


「僕の事、好き?」


「……うん。」


杏さんは消え入りそうな声で返事をした。


「ん?聞こえないなぁ…。僕の事、好き?」


「うん…。」


ダメだよ、杏さん。


ちゃんと好きって言ってくれなきゃ。


聞きたいんだ。


杏さんの声で、好きって。


「ちゃんと言って。僕の事、好き?」


「…す…好き…。」


「やっと言ってくれた…。」


嬉しくて、胸が張り裂けそうなほど高鳴る。


僕は思いきり杏さんを抱きしめた。


「ずっと言いたかった。僕も杏が好きだよ。」


杏さんの唇に、そっと唇を重ねた。


ほんの一瞬触れ合うだけのキスに、心が温かく満たされる。


「偽物じゃなくて…今度は、本物の恋人になろう。」


耳元で囁くと、杏さんは小さくうなずいた。


僕の腕の中で、杏さんが照れ臭そうに笑った。


その笑顔がかわいくて、杏さんが笑ってくれた事が嬉しくて、もう一度キスをした。


「お弁当作るから、また一緒に遊園地に行こう。」


「うん。」


「今度は観覧車にも乗ろうね。」


「うん、乗りたい。」


「これからはふりじゃなくて、杏にだけ優しくしてあげる。」


「…うん。」


「杏、大好きだよ。」


「章悟…私も好き…。」


抱きしめて、髪を撫でて、何度も優しくキスをした。


幸せで温かくて、胸がいっぱいになる。



「ずっと一緒に御飯食べよう。毎日、杏のために美味しいものたくさん作るから。」


「うん。毎日章悟と一緒に、章悟の作った料理食べたい。」


杏さんは僕の手を握って穏やかに微笑んだ。


「杏にちゃんと御飯食べさせてあげられるの、僕だけだもんね。」


「だったら章悟は…一生私から離れるわけにはいかないよ。」


「もちろん絶対に離さない。今度は僕が杏を残さず食べるから覚悟して。」


首筋に軽く口付けると、杏さんは恥ずかしそうに顔を覆った。


「ばっ…バカ…!!」


僕はその手を取って、真っ赤になった顔を覗き込む。


「せっかくのかわいい顔、隠しちゃダメだよ。僕は杏のそういう顔が大好きなんだから。」


頬にチュッと口付けると、杏さんはくすぐったそうに首をすくめた。


「……性格変わった?」


杏さんは戸惑っているみたいだ。


「どうかな?でももうプリテンダーはやめたんだ。これがホントの僕。だから杏も、これからは僕の前では強がらないで、ありのままの杏でいて。」


「そうする。じゃあ…もっと優しくして。」


「ホントは甘えん坊なんだ。」


「章悟にだけはね。」


「いいよ。これでもかってくらい優しくしてあげる。大好きだよ。」


優しく抱きしめて、何度も優しくキスをして。


僕はこの腕の中に杏さんがいる幸せを噛みしめた。




偽物の婚約者は、本物の恋人に。




自分を偽るのをやめた僕はもう、君しか要らない。



これからは一番そばで、他の誰も知らない君の素顔を見せて。














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サディスティックなプリテンダー 櫻井 音衣 @naynay

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