第5話 失われたものは

 男はそこにいた。驟雨の中にぽつねんといた。傘も差さずにまっすぐと見据えていた。ここは小高い丘、辺りを一望できた。


 雨ざらしの声だけが響いてくる。さびた遊具や年季の入った木のベンチ、雨が連れてくる何かの声がする。何者かに見つけてほしいとでも言うような控えめな声ではあったが、この丘は静寂を極めていたためにかすかに聞き取ることはできた。


 男は退紅の昔日を雨の中へと溶かして撹拌していた。それは山々を霞ませて男の眼さえも霞ませた。静かに眼を閉じれば、撹拌された退紅は雨音とうたう。そのかすかな煌めきに意識を委ねる。そうしていれば倒れまいと支えていた足が支えを失っていく。須臾にして空へと放たれる。


 眼を開けたくはない。空から静かに落ちていく感覚をつかみ取って虚空の中に一滴落としていく。また一滴、また。そうして創りあげた幻想の中で男はこの丘めがけて降りてきていた。


 いつしかの自分自身へ何かを問いかける。しかし男の顔は笑っているだけだった。空を飛べないという現実を突きつけられた人間が、それを現実のものとしたときにするような顔だった。男は止まらない。空を降りてくる。全身に雨粒を纏って降りてくる。


 それを止める術もそれを見いだす術もない。あるのは幻想だけだ。

 雨の中から聞こえてきた声は、退紅の昔日であった。そしてそこにいた男であった。あらゆる概念を超越して存在しうる二人の存在。それが一つになるという事実。

 驟雨はその禁忌を情愛のうちに包み隠していた。


 雨は失ったものすべてを連れてくる。失われたものはすべて雨の中にある。

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些細な人々の話をしよう。 星野 驟雨 @Tetsu

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